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ウォン・カーウァイ『花様年華』

ウォン・カーウァイ『花様年華』を観る。わかりきったことを再確認すると、今という時間はこの瞬間が全てである。今日、例えば2022年11月3日という日は二度と帰ってこない。いきなり「なんじゃそりゃ?」と思われたと思うが、「花様年華」というタイトルの意味が「花のような時代」でありつまり「青春時代」であると知ったらこの繰り言も少しは意味を成すのではないかと思う。誰にもあるだろう「青春時代」……ウォン・カーウァイの映画は『恋する惑星』が少しキツかったので敬遠して来てしまったのだが、この映画は素直に観てよかったと思った。とは言え、どう「よかった」のかを記すのは例によって難しい。

「青春時代」というと、日本の映画の文脈だと十代の男の子・女の子たちが集って汗をかいたり勉強に勤しんだりする、というフレッシュな光景が見えてくる。だが、この映画は「オトナ」の映画であるという印象を受ける。新聞社に勤めているトニー・レオンと、その隣に住むマギー・チャンが淡い恋仲になるその顛末を描いた映画なのだけれど、彼らはセックスはおろかキスすら交わさない。彼らの関係は実に曖昧に過ぎていく。ちなみにこの映画の英題は「In the mood of love」というもので、直訳すると「恋のムード」となる。つまり「ムード」だけが淡く語られた映画、という解釈も成り立つ。

「ムード」……つまり、決定的な出来事をウォン・カーウァイやその制作陣は語らない。彼らにあるのは恋ではなく「ムード」なのだ。彼らはトニー・レオンが書く小説のプロットについて語り合い、共同作業で制作を深めていく。これが傍証になるだろうと思う。つまり、「恋」の決定的な出来事ではなくその出来事を模倣・踏襲し、どんな「恋」が架空のストーリーとして可能であるか語り合う。その架空のストーリーをなぞっていく内に彼らは恋仲に落ちる……とも受け取れる。何だか「恋に恋して」な、フローベール『ボヴァリー夫人』みたいな話だけれどそれも恋愛の世界では珍しいものではないだろう。

考えてみれば、私たちはすでにそこにある「恋愛」のストーリー(ロラン・バルト的に言えば「恋愛のディスクール」)をなぞりながら自分に相応しい恋愛を見つけていく生き物ではないだろうか。だからこそ、今はヘテロセクシュアルの恋愛ばかりが溢れている時代を批判する意味でLGBTQのストーリー/ディスクールが求められているわけなのだけれど、その意味で言えば『花様年華』の「恋に恋して」「愛を模倣して」愛を交わす「オトナ」のエロスに満ちたストーリーは極めてリアルだとも言える。ただの(陳腐な)「男と女のラブゲーム」だろう、と高を括っていた私は反省させられてしまった。

そして、この映画の中には1962年の香港がパッケージングされているとも言える。つまり、香港にとっても「あの頃が一番輝いていた」という意味における「(香港の)花様年華」を描いたストーリーであるとも言えるのだ。『恋する惑星』が何気に都市のゴミゴミした、でも活気のある風景を同じようにパッケージングしていたことを思えばこの記録のヴィヴィッドさはなかなか侮れないとも思った。ある一組の男と女の「花様年華」、そして都市・香港の「花様年華」。だからこそ「その後」が必要だったのであり、この映画が「栄枯盛衰」を描いたものとして成り立つ必然もあったのだろうなと思う。

ウォン・カーウァイ……単にチャラチャラした監督かなと思っていた自分の盆暗さを恥じさせられる結果となった。ただ、その「ムード」だけでここまで映画を引っ張る作風を無批判に称揚したいとも思わないので(いや、マギー・チャンの美しさは「眼福」だと思ってしまったのが私の別の意味での「盆暗さ」ではあるのだけれど)、そこが厄介でもある。だが、かくも「ムード」の高まりでセクシャル/エロティックな美を体現するとは、と唸らされたことは正直に書いておきたい。文学的な想像力に訴えかけてくるところも私好みなのかもしれない(なぜか中上健次の小説『軽蔑』を思い出してしまった)。

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