クイン

 社会人のAさんは以前クインという名の黒猫を飼っていた。
 Aさんは部屋を見渡してため息をついた。部屋の中にはクインの使っていた物が置かれている。猫缶にお気に入りの皿に、ねこじゃらし。もう1年が経つが、彼女はクインの亡くなった辛さを忘れることが出来なかった。むしろ日が経つにつれて、悲しみは大きくなっていく。

 ある日、仕事から帰って来るとクインの皿が割れていた。陶器ではなく、プラスチック製の皿だ。プラスチックの皿が割れる事なんてある? Aさんはそう思いながら、ボンドを塗り、皿を修理した。
 翌日、皿は再び割れていた。そばには何かの毛が飛び散っている。手に取って気づいた。猫じゃらしの毛だった。
 クインにまつわる物ばかりが壊れていた。
 ああ、そうか。きっと怒っているんだ。
 Aさんは、クインの死について思いを巡らせる。クインは冷たく、触れても何の反応も示さない。死んでしまった、私のせいで。もう少し、もう少し早く気づいていれば。それならきっと間に合っていたのに。早く病院に行っていれば、きっと……。
 Aさんは泣き崩れた。その時だった。
「ニャアア」
 部屋のどこかから聞き覚えのある声が聞こえた。
「クイン?」
 しかし見渡してみてもどこにも姿は見えない。ふと、部屋にある姿見が目に入った。黒く、丸い物が涙で滲んだ視界に映った。はっきりとは見えなかった。しかしAさんにはそれが何なのか分かった。
「クイン。そこにいるのね」
 どうやら鏡の中にいるようだった。クインは少し歩き、ちょうど泣き崩れていたAさんの手前に止まった。彼女は鏡を見ながら、手を動かす。

 鏡の中でAさんはクインを撫でていた。何の感触も無かったが、Aさんはそこにいるクインの柔らかさや体温を感じた気がした。クインは嬉しそうに喉を鳴らした。

 しばらくして、クインは鏡越しにAさんを見た。
「ニャァ」
 一声そう鳴くと、すたすたと歩きだした。次第に透明になり、すっと鏡の中から消えた。


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