【エッセイ】腕時計

ある大学の先生は、何十年も同じ腕時計をつけていました。デジタル腕時計で、中学生が初めて買ってもらうような、とてもシンプルな時計です。先生は、「時計は時間がわかればいいのだから、壊れない限り使い続けて、これで十分。」と、話されました。とても合理的な見識で、先生らしいお考えだなと聴いていました。

先生は、それからチラリと私の腕時計を見て、「いい時計だね。」と言われました。私は、「ありがとうございます。」と先生に答えました。

この腕時計は、社会人になってから、今の奥さんが結婚前に、自分の給料をためて買ってくれたもので、初めてプレゼントしてもらったものなので、思い出の品とも言えます。決して高価なものではなく、デザインもオーソドックスですが、分相応で、しっくりと馴染みます。

さて、結婚して10年ほど経った頃のこと、仕事で海外への出張がありました。いつもの腕時計をつけて、飛行機に搭乗し、現地時間に針を合わせると、出国する気持ちが整います。

その出張中、泊まったホテルに、うっかりと腕時計を忘れてしまったのです。日本ほど治安もよくない国だったので、とても残念だが時計は、もう出てこないだろうと諦めていました。新しい時計に替えて、気持ちを切り替えるタイミングなのかもしれないとも感じました。実際に、雑誌の腕時計の広告などを見て、これなんかいいなと、ちょっとした浮気心を感じることもありましたし。

3ヶ月後に、また、同じ国への出張がありました。前回と同じホテルに泊まったのですが、フロントのホテルマンは、ちゃんと私の忘れた腕時計を保管してくれていました。3ヶ月ぶりの異国での再会。よく戻ってきてくれたなと感激しました。親切なホテルに感謝し、その国を疑ってしまったことを恥じるとともに、親愛の念も湧いたのでした。

この腕時計、奥さんからのプレゼントに、異国での友愛の情も重なり、一生ものだなと確信したのです。そして今日も休まず、正確に時を刻み続けています。

(おしまい)

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