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トマス・マン『トニオ・クレーガー』に見る男女論

マン『トニオ・クレーガー』を読んだ。

面白かったのは読後の解説であって、それには昨今のLGBTに関する風潮にも重ねて考えられるところがあると思った。
巻末の解説(解説:伊藤白さん)によると、結論から言って僕が非常に関心を持ったのは、「男女差別と、LGBTの肯定は矛盾なく成立する」という点である。

昨今は何かと差別に厳しく、多様性が叫ばれている時代である。「LGBT」をはじめとする問題も台頭してきており、「ゲイ」や「バイ」であることを卑下することはもちろんご法度である。もちろん、男女間での男尊女卑の問題もまだまだ根深いとはいえ、それらの平等化が叫ばれている。

しかし、伊藤さんによると、LGBTの問題は目立ってはいるものの、何も今だけの問題ではなく、実はこの100年以上前の時代のドイツにもあった。その頃、ゲイは法律的には違法であり、刑務所に送られていた。しかし、古今東西、人々の中には昔から同性愛者がおり(神話の世界にも出てきている)、マン自身も同性愛者である。しかしそれながらでも、マンは女性に対して女性不信、嫌悪感が強く、またそう書かれている。

もっともこの時代の作品には、本はその書き手が殆ど男性で、むしろ男尊女卑ではないものを見つけ出すことの方が難しい。その中でマンは同性愛者であった。マンの考えは次のようなものだったと考えられる。

つまり、神話の世界にもあるとおり、「ホモ」(ゲイ、またはバイ)は、「男の中の男」。男性の中でもより男性的である。女性はもちろんのこと、男性も愛することができる者。

ここでは、「ホモ」の全面的な肯定が行われているとともに、なおも男女間の距離は全く埋められていない。男色の男は、女性はもちろんのこと、さらに男性も愛せる、同性愛者とは男の中の男であり、その肯定によって別に女性の地位が上がるわけではない。

女性の地位が上がるわけではない、そうではなくて、ホモ(バイ)の地位が(食物連鎖の頂点のように)特権階級的な地位を得るだけである。LGBTや同性愛者が特権的になるだけであって、女性の地位が上がり、男性と同じく平等な地位を得るわけではない。女性は相も変わらず差別され、蔑まれながらも、ホモやバイは「(生物的に)女はイケるが、男性も愛することができる」者として、特権的に考えられるわけである。

そうすれば、「LGBTの肯定」と「男女差別(あるいは男尊女卑)」は、何の矛盾もなく成立する。女性を差別しながらでも、同性愛者の肯定はなしうるのである。

しかし、世間はそう考えているとは思えない。世間では「LGBTの肯定」を多様性の肯定ととらえて、それと同時に、男女差別の問題も解決され、平等になると考えている節がある。

しかし、心境として、上のような考え方に陥っている人も多いのではないか。つまり、上のような、「男女のボーダーが撤廃されたわけではなく、LGBTという新たなグループ(ボーダー)が誕生した」と。だから、心理的に、その人たちにとって「どう扱っていいかがわからない」「どう接していいかわからない」。こんな思いを持っている人もいるのではないか。

そのような思いを持っている人は、おそらく、上のような状態に陥っているのかもしれない。

マンが上のような思想になったのは、欧米的な、古来からの神話による影響が大きい。しかし、日本にはあまり神話自体になじみがないし、日本神話にも同性愛者があまりいない。

ギリシャ神話ではゼウスも少年愛があるし、ナルキッソスも、アポロも、アキレスも皆同性愛者である。もちろん、ゼウスなどは同性愛の一方で女性も大丈夫である。それら「神聖なる者」を起源とした思想においては、「同性愛者=男性の中の男性」と考えるのは自然な発想だったのかもしれない。同性愛者を神聖化する一方で、女性に対しては差別する。それらは、別に「平等」や「多様性」の肯定を前提としていても、なんら矛盾なく成立する、といったところに、それが「良い/悪い」とは別に、「なるほど、そういった考え方があるのか」と思いました。

終わり。

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