誰かに見て欲しい、承認してほしい、イマドキ

こんにちは。
なんのことかは、あえてはっきり言わず語らせて下さい。

今のこの時代、って言い方すると、説教ぽかったり、古い人間みたいに見えるけど、あえて言わせて。
本当に今の時代、SNSって良し悪しだなと思いました。
なんでも撮影、なんでもシェア、なんでも肯定して、否定誹謗中傷は許さない。
目の前で起こったできごとを撮影する。
それもいいでしょう。
でも、私は最近気づいた。
目に焼き付けることがどれだけ大切で、どれだけ重要か。
息子たちが通う保育園では、イベントなど撮影OK。でも、世帯2名まで入れるときは、1人のみ撮影OK。
その理由は、子供達に顔を見せて欲しいから。
スマホやカメラを構えると、画面に納めるためや、画角を気にして自然と顔が隠れたり、子供と目線が合わなくなります。
カメラを持たないことにより、絶対に子供のことを見ます。ずっと。
確かに、と思いました。
記憶だけではなく、記録に残したい気持ちももちろんあります。
でも、実際に目にしていると、割と記憶に残り続けるものですね。
今の時代ならではの指摘、お願いだなと思いました。
このことがあってから、私は日常の子供の動画を撮るときは、画角を気にせず、カメラを向けつつ顔は必ず子供から見えるようにしています。
意外と、ピントなどズレないものです。
ただ、このなんでも撮影、自分のためならいいんです。
自分のため、子供のため、将来見返すため。

でも、自分のためをはき違えてはいけない。
ふと生活する上で起こった、珍しいできごと。良くも悪くも。
思わず撮影し、それをシェア。
必要でしょうか。
良いことならいいかもしれない。
でも、悪いことは?わざわざシェアが必要?
そのシェアはなんのため?
いわゆる「承認欲求」ですよね。
「すごい」「よく撮れたね」「決定的瞬間!」
こんなコメントはとても気持ちが良いでしょう。
私だってSNSをやっているので、こういったコメントがとても気持ち良いし、嬉しい。
誰にだって「承認欲求」はあるし、それを満たすために行動することは悪いことだとは思いません。
でも。
もし「誹謗中傷」されたら?
「何がすごいの?」「面白くない」「これって大丈夫?」
誹謗中傷だけでなく、否定されたら?
そのまま見て見ぬフリをすることもできるし、あえてこのコメントや言った人を晒して、攻撃対象にすることもあります。
「誹謗中傷」と「反対意見」「否定」。
これらをすべてまぜこぜにしてはき違えると、SNSは上手く使うことはできない。
承認欲求を満たしたくてシェアしたのに、否定されることは、承認されないことなので、それは頭にくるでしょう。
でも、相手は思ったことを素直に言っているだけかもしれない。
やっぱり悪意があるのかもしれない。
自分を貶めようとしてるのかもしれない。
SNSの様な文字列の並びだけでは、本当の感情を見ることはできないから。

バラバラかいてきましたが、私はここ数日でSNSを通して目にしたこと、耳にしたこと、感じたことを吐き出したくなってしまいました。
なんとなく何のことか分かったかもしれませんが・・・。
私は否定も肯定もしない。できない。
ただあの「シェア」は必要なかったと思う。
そして、その「シェア」されたものを、よってたかって見に行くのも違う。
「見たい人」と言って募るのも違う。
その画像や写真を使って「意見を述べること」も違う。
容姿に対してもったいないということも違う。
肯定・否定することも違う。

じゃあ何が正解なのか。

正解なんてきっとないんでしょうね。
「承認欲求」という言葉を使ったけど、それは例の件についてではないです。
例の件について、色々飛び交うSNSは蔓延している「承認欲求の塊」について言っています。
人の欲の満たし方は怖い。
自分自身でさえも怖く思う。
今のこの時代、なんでもかんでもシェアできて、それに意見できて、それに一喜一憂する。
そんな時代が怖い。
便利過ぎるのも、使う人間によって悪になってしまう。
負の連鎖は辞めて欲しい。絶対に。

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