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【小説】夜の底の子

プロローグ

 仕事へ向かう道中、見慣れた風景の中に乗り込んできた彼らに違和感を感じたのは、私の気のせいだっただろうか。バスが停留所を離れていき、緩やかに加速する。車窓に映るのは、競合するコンビニエンスストアの群れと、大型中古車販売店。更に信号を曲がると、地域住民の生活を支える役目を終えたシャッター商店街や、中高生の青春のページに何枚にもわたって残るラウンドワンなどがある。この街は、様々な種類のお店が入り乱れていて、一見無秩序にも思える。しかし、実は何か大きな秘密を街全体が抱えているようにどうも思えてならない。私は念の為、忘れ物が無いかどうか鞄の中をもう一度確認する。忘れ物は無いけれど、私は何か肝心なことを忘れている気がした。

【第一章】少女とランラン

 家族のうちの、少女が口を開いた。
「ねぇ、これに乗って何分で着くの?」
世界中の白い羽根を集めたような、純粋で穢れを知らない声だった。
「うーん、隣町だから大体40分……あっ」
父親と見える男が何かに気が付いたように、少女の鞄から紙の束を取り出した。
「そんな時は、この旅のしおりを見るといい」
父親の言葉を聞いた少女は、ビッくらポンで欲しかったキャラが出た時みたいに嬉しそうな顔をした。少女の鞄にはポニョのストラップがついていて、少女はそれを何度も愛おしげに撫でた。
「今日は会えるかな、会えたらいいな」
少女の独り言は、家族の誰にも拾われることはなく、宙ぶらりんになった。

「うわぁ!!」
沈黙が落ちていたバスの中で、突如として母親らしき女が声を発した。その声はバスの乗客全員を一瞬ビクッとさせたが、すぐに日常のリズムは戻ってきた。しかし私は、その家族から目を離すことができなかった。随分と老けて見える母親は、ずっと何かに怯えているのだ。その臆病に泳ぐ視線の先を、私はつい確かめてしまう。それは、白いワンピースの女だった。彼女は、運転席のすぐ後ろにある、バスの最前列にあたる席で、ルームミラー越しに車内を恨めしげに睨んでいる。その刺すような視線に、母親は怯えているのだった。今度は父親が口を開いた。
「なんだ澄子、急に大きな声出して」
辺りを見渡せば、その不穏な状況は明白にも関わらず、彼は自らそれを知ろうとする素振りを見せなかった。これが所謂、亭主関白ってヤツか。妻に対して横暴に振る舞うそいつに、私は腹が立った。
「なんだって聞いてるんだ。公共の場でそんな大きな声を出して、迷惑だって思わないのか。ほんと、お前の隣にいると、俺は胸を張って歩けないよ。反省の弁の一つでも述べたらどうなんだ」
彼の批判、というより糾弾はしばらく続いた。私はイライラを目に見えないように隠すのも難しくなってきて、激しく貧乏揺すりをした。
「ごめんなさい、柊太さん」
父親と比べ、幾分老けている母親は、弱々しく謝った。
「でも……」
「あ? 今なんか言おうとしたか?」
「いえ」
娘を挟んで言い合いをする家族は、傍から見れば醜悪だった。ただ、もしかしたら彼らは……いや、そんなはずはない。私は自分の中で浮上した、ある恐ろしい可能性を急いで頭から振り払った。しかし、戦慄くように己の唇が震え始めるのを私は自覚せざるを得なかった。

「お父さんもお……母さんも喧嘩するのやめてよ!」
結局、喧嘩を宥めたのは娘だった。流石に娘に宥められている状況を恥ずかしく思ったのか、父親は周囲を見回して、やがて赤くなった。その赤は、先程までの怒りとは似ていたが、全く異なった。心から恥辱を味わったような、そんな悔しげな色だった。
「せっかく楽しい日なんだからやめてよ」
少女はそう言って、口を閉ざしてしまった。
「ごめんごめん! ランランのぬいぐるみ買ってあげるから許してくれ」
父親は、先程までの態度とは打って変わり、申し訳なさそうに娘に詫びた。
「わかった。もういいよ」
ランランとは、このバスの終点にある遊園地のマスコットキャラクターのことである。少女は不機嫌な顔を始終保とうとしていたが、“ランラン”の名前を聞いて、一瞬顔がほころんだのを私は見逃さなかった。ただ、彼らの何気ない会話がやがて、ある恐ろしい真実を浮かび上がらせることになろうとは、私はまだ知る由もなかった。

【第二章】バス停の幽霊

 バスが一つ目の停留所に止まる。
『光が丘霊園』と、運転手がその名を告げる。私は、澄子の戦慄く唇を見た。また、彼女の視線の先には恐ろしいものが映っているのかもしれない——。そう思い、視線をバスの前方に移した。白いワンピースの女が、運転手に背後から抱きついていた。私はその様子を見て、ゾッとする。今にも倒れそうな青白い顔をした運転手は、叫びたいのを必死で堪えているようだ。やがて限界に達したのか、運転手は窓を開け、苦しそうに嘔吐した。そのとき、私や澄子など“見えるタイプの人間”は、この不可解で奇怪な状況を理解せざるを得なくなった。あの白いワンピースの女は、幽霊であるのだと。私たちは、得体の知れない幽霊と同じバスに乗り合わせてしまったのだと。

そんな状況下で、柊太は無神経に雑談を始めた。
「それにしても、霊園のすぐ目の前にバス停作ったってすごい勇気だよな。運転手は怖いだろうに」

少女が首を傾げる。

「お父さん、なんでバスの運転手さんは怖いの?」
「このバス停はね、お化けが乗ってくるんだよ。パパの友達でね、バスの運転手さんがいるんだけど、パパはその人を化け物から救ったことがあるんだよ。」
「え、お父さんすごい。どうやってその人を救ったの?」
「その人にはね、お化けが見えたらしいんだ。暗い夜道で揺れるお化けを見て、事故を起こしちゃったんだ。それで、すごい大きな怪我をしててね。とりあえず怪我は放っておけないから治してあげて、その後、お化けが見えるようになったのはいつからか聞いたんだよ」
「それでそれで!?」
少女は、身を乗り出して聞く。話の先を知りたいのと、ちょっと怖い気持ちがせめぎ合っているのか、少女は柊太の洋服の裾をギュッと掴んでいた。
「お化けなんてのは、いなかった。彼の働いてたバス会社はね、圧倒的に人が足りなかったんだ。だから、無理なシフトを沢山入れられてたんだって。そしたら、彼はありもしないものを見えるようになったらしいんだ。パパはその会社に注意をしにいったよ。そしたら、彼は会社をクビになった。でも変なものが見えなくなるまで休んで、今は新しい職場ですっかり元気にやってるよ」
「え、お父さんすごい! 今度私がお化け見ちゃったら、お父さんに治してもらう!」
その言葉に柊太は苦笑いをして、
「葉はお化けなんか見ないから大丈夫だよ。それよりも、ポニョに会えるんじゃないか? なぁ、澄子」
「え? あ、うん、そうね」
澄子は、返事をする余裕など無さそうだった。バスの乗車口から、枯れた花束を持った男が乗り込んできた。ドアが閉まる。バスは走り出す。幽霊の乗ったバスの中に、私たちはいる。

次のバス停は、寂れた公園の横にあった。そこに止まるまでの間、乗客と柊太との間で不穏なやり取りがあった。
「やぁ、相沢先生
開口一番、枯れた花束を持った幽霊みたいな男は言った。柊太に呼び掛けるようにして口を開いたので、親しい中なのだろう。オーバーオールにブルゾンを羽織っているのを見たら、彼が“バス停で乗ってくる幽霊”でないことはすぐに分かった。ただ、相沢柊太の反応は鈍かった。
「お! えーとあなたは、、入野さん!」
数秒の間の後で、正しい名前を答えられたようではあるが、さっきまで完全に忘れていたような雰囲気だった。
「はい、そうです! いやぁ、まだ覚えていてくれたんですね。ほんとは先生でもなんでもなかったくせに」
入野とかいう乗客は、これまた妙なことを言い出した。私はその家族の父親の名前である“相沢柊太”という響きに、どこか聞き覚えがあるような気がした。ただ、その記憶を明瞭に思い出すことができない。
「え、なんだって?」
当然、彼の眉間には皺が寄った。
「とぼけないでくださいよ。医療免許なんて持ってなかったんでしょ? テレビ観ましたよ。警察から追われてるんだってね」
あぁ、彼は医者だったのか。私は顔からは想像もできない職業に、少しだけ面食らった。
「何を言ってるんだ。お前は俺から受けた恩を忘れたのか?」
「恩? 笑わせるのもいい加減にしてくれ。お前はずっと、診察中もインカムみてぇのを耳に着けてた。そのインカムがどういうわけか知らねぇが、本物の医者と繋がってたんだろ。お前はそこから流れてくる台詞をそのまんま、さも自分が考えて発言してるように小芝居を打って、患者を騙してたんだ」
ここで、あまり口を開いていなかった葉が、「何言ってるの? お父さんはそんな人じゃない!」と応戦し始めた。これには柊太も乗っかった。
「そうだよ。娘もこう言ってるだろ。一番俺を近くで見てるであろう娘がだぞ。お前、また頭おかしくなったか? 三回くらい殴ってやるよ。そしたら、昭和のテレビみたいに治るんだろ。お前自身、家族にそうやってるって酒の席で言ってたもんな」
入野は、救えない人間を見てしまった時のようなドン引き顔をして、後ずさった。
「あいつもそろそろ再診しないとな」
バスは止まった。勢いよく開いた乗降口を、転げ落ちるように入野が降りてゆく。彼が車内に捨てていった花束の残骸が、鼻を突くような腐臭を放っていた。

【第三章】雨に打ち明ける秘密

 腐臭に耐えられなくなって、私は思わず窓を開けた。車窓から空を見上げたら、バスは重く垂れ込んだ雨雲の下を走っていた。次第に雨足が強まり、火がついたようにサイレンの音が喧しく響いた。
「お父さん、どうなってるの」
葉は不安そうな表情で、父親に問い掛けた。柊太は未だに迷っているようであったが、やがて覚悟を決めたように拳を握った。
「葉、ごめんな。パパ、隠してたことがあるんだ」
言葉は申し訳なさそうであるが、全く反省はしていなさそうな表情だった。
「なに? こんな雨の中じゃ誰にも聞こえないから、全部教えて」
唐突に文学的な表現をする少女の顔は、この特殊な環境の中であまりに凛々しく、あまりに大人びていた。
「パパね、医者なんかじゃないんだ。俺は医者じゃないのに、地元の人たちを騙して治療をしていたんだ。でも、何か悪いことを企んで嘘をついていたわけじゃない。大事な人を守りたかっただけなんだよ」
バスはハイウェイに乗った。ここから次のバス停までは、10分ほどの距離がある。そして、後方からはどんどんサイレンの音が近づきつつあった。葉が尋ねる。
「パパは誰を守りたかったの?」
回転灯の真っ赤な光が窓越しに射し込み、彼らの輪郭を浮かび上がらせる。真っ黒なシルエットになった澄子を見つめた時、柊太は口を開いた。
「俺はさ、ママを守りたかったんだ」

——ママ……。

「妻の愛美は、容姿端麗で学生の頃からめちゃくちゃモテたんだ。クラスのみんなの体調を心配して、顔色が悪い子には必ず一番に声を掛けてた。体育祭の練習の中、水筒を忘れた僕に水をくれた。俺はさ、当初それが恋だとは気付かなかった。でも、愛美が他の男子の元にタオルを持ってってあげたりしてるとこ見て、すっげぇ悔しかったんだ。親友に話したら、『それは恋だよ』って言われたよ。俺は自分の感情に折り合いがつけられなかった。自分の性癖を鑑みたら、そんなものを綜合して恋と呼んでいいのかも分からなかった。俺はさ、誰に対しても優しい愛美の腹の中が見てみたいと思っていたんだ。比喩じゃなく、物理的にね。彼女くらい優しい人間なら、未だ見たことのないような、どす黒くて汚い臓器が身体の中にあると思ったんだよ。でも実行には移せなくて、やがて俺らは岐路に立った。特に夢のなかった俺は大学を受け、彼女は医療系の道に進んだ。卒業した後もメキメキと俺の想いは醸成され、暴発しそうなほど膨らんでいったよ」

真赤に照らされた柊太という男の表情は、まるで綺麗な詩を読んでいる時のように、恍惚としていた。

「ちょっ、ちょっと待って。ここから先って、娘の葉ちゃんに聞かせていい話?」

もはや彼ら親子との関係が全く想像できない澄子という女が、一応といった調子で確認した。

「お前はとりあえず黙ってろ」
柊太の恐ろしいカミングアウトが始まった。

「同窓会で彼女と再会して、俺は彼女のことを口説いた。彼女は重い相談をしてきた後、条件を出してきたんだよ。彼女はね、患者にセクハラを受けていたらしいんだ。私はただ純粋に苦しんでる人のことを救いたいと思ってるだけなのに、その思いが平気で踏みにじられて、夜中になると死にたくなるんだって、そう言ってた。俺は涙を流しながら話す彼女のことを慰めながら、思ったんだ。千載一遇のチャンスが舞い降りてきたってね」

葉が口を開いた。
「お父さんやめて、私もう聞きたくない」

柊太は娘を睨み付けて、声を大きくした。

「ダメだ。ここからが重要なんだ。良いか、一回しか話さないから耳の穴かっぽじって聞いとけ。俺はセクハラによって病みそうになっていた愛美を救うために、ある提案をしたんだ。俺が愛美に変わって、変態患者たちを診察s……」

サイレンが話を遮ったのがよっぽど許せなかったのか、柊太は鬼のような顔になった。

「うるせぇなぁ! おい、運転手! スピード上げて、パトカー撒け! いま俺の大事な話の最中なんだ! はぁ、それでね、俺は愛美に代わって診察をするようになったんだよ。時には、治療や手術までこなしたよ。俺の白衣には微小なカメラが付いていてね、そこから発信される映像をリモートでみている愛美が診察した内容を、インカムで受信して、俺はそのまま読み上げただけ。『相沢医院』はすっかり地域の主要な医療機関の仲間入りをして、地方紙でも特集が組まれたよ。“地元の名医、相沢柊太先生”なんてね。笑っちゃうよな。俺はそもそも“アイザワ”なんて苗字でもないし、手術の成功率が100%であるのも、失敗した手術を隠蔽していたからに過ぎない。あの頃はよく世話になったね、澄子くん」

私はこの瞬間、強烈にバスから逃げ出したくなった。自分も過去にこの医者にかかって、救われた気分になったことを思い出したのだ。そして、彼らの歪な関係性を想像してしまったのだ。澄子という女は、平気そうな顔をして葉の隣に座っているが、実は彼女が外部に自分の犯した罪を暴露するリスクを考慮した上で、死ぬその瞬間まで柊太に監視し続けられているのではないか。

「そんな日々が続けば続くほど、不意に愛美は不安そうな顔を浮かべて言ったんだ。『私、もしかしたらとんでもないことしてるんじゃないかしら。世間の人を欺いて、神様から罰を受けるんじゃないか』ってね。俺はその度に、「愛美は悪くないよ。始めたのは俺だから」なんて言って、口づけをしたんだよ。愛美と過ごす夜は、あっという間だった。そして、やっと愛美が笑うようになってきた頃、二人の子供ができたんだ。俺と彼女はそれをささやかに祝って、結婚したんだ。でも、子供が産まれることはなかった」

柊太は言葉をあえて切って、そして、一拍あけてから呟いた。

「葉と名付けた子供は、この世に誕生することは無かったんだ」
柊太の目から、どうにもならない現実を諦めるかのように涙が溢れた。このとき、世界が空気を読んで静かになった気がした。

【第四章】神罰

「ねぇ、どういうことなの? それじゃあ今までの日々は、何だったって言うの? ちゃんと説明してよ、お父さん!」
少女は涙を流しながら、必死に呼び掛ける。
「やめろ! お父さんなんて呼ぶな。お前は俺の娘じゃない。愛美はね、産めなかったんだ。思い当たる節はいくらでもあったから、何も言えなかったよ。ただ背中を擦ることしかできなかったんだ。でもね、俺はここでも一つ提案をしたんだ」
柊太は続けた。
「子供を育てる以前に、自我を育てきれなかった人間たちを俺は何人も診てきたんだ。その中でも、病気を言い訳に妻へ汚い手を伸ばしたクズ人間たちを俺は特に許せなかった。復讐の時が来たと思ったね。そいつの家に訪問診療だなんて言って、押しかけたんだ。話に聞いてた通り、子供がそこにはいたよ。ガリガリにやせ細った状態でね。俺は気の毒に思ったんだ。うちだったら、もっと大切にまともに育てられるのにってね
「やめて!! もういい、聞きたくない!」
少女は激昂したが、その声は彼には届く気配も無かった。
「でもね、愛美が予言していたことが、程なくして的中してしまったんだ。俺は神様から罰を受けたに違いない。ある日目を覚ましたら、起きる前と景色が変わらないんだ。暗闇の中で、俺は立ち尽くした。ひどく遠い場所から、愛美の風鈴みたいに綺麗な声が聞こえたよ。『あら起きたのね。朝ごはん出来てるから、一緒に食べよう』って。視界は一人きりの夜道みたいなのに。初めてだったよ、彼女に触れるのが怖くなったのは。数日間は目が見えなくなったことを隠そうとしてたけど、すぐにバレた。愛美は患者に告げるみたいに、あっさり言ったよ。『もう治らないやつだね。胸が痛い。私が代われたら代わってあげたいな』って。そんなの本音じゃないのは分かるのに、気付けば「ありがとう、その言葉だけで救われるような気がするよ」って口を滑らせてた」

「でも、「今日の髪型可愛いね」とか「ママに目元が似てるね」とか言ってくれたじゃん。私、すごい嬉しかったんだよ。あんなの、目が見えてないと言えないよ」

少女は、一縷の望みに縋るような顔だった。
澄子は顔を覆って、ひたすらに肩を震わせている。

「そんなの嘘だよ、全部。俺の視界は永遠に、夜の底なんだ。時々、煌々と輝く天の川や大きな花火を見るんだ。でもそれは、所詮夢でしかない。だから、人一倍夢から覚めたくないって思ってる。葉から香水の匂いがする日は、大事な日なんだろうって想像するんだよ。妻に何か今日はイベントがあるのかと聞いて、花火大会があると知る。それなら、髪型も可愛くしてるだろうなとか考えて、なにげない風を装って言っていたんだよ。だから、うん、なんかごめん」
「最低」と、澄子は言った。
柊太は開き直るような顔を浮かべた。

「そうだよ、最低だよ俺は。このまま嫌いになって、バスから降りていけばいい。バスが向かってるのは、遊園地なんかじゃないしね。視覚が機能しなくなってから暫くすると、もっと最悪なことが起きたんだ。妻の愛美が事故に遭って、急患に運ばれてきたんだよ。もちろん俺は医療免許も持ってないし、目が見えないから全く状況が分からない。ナースから聞いたところによると、もう数十分で絶命しそうな危険な状態だということだったよ。俺は友人に電話を掛け、至急こちらへ向かってきてもらうよう頼んでいた。そして、最後の手術を執刀したんだ。どうせ死ぬ運命だと、メスを手に取って、彼女の臓物を全て引き摺り出したんだその後友人から聞いたところによると、彼女は、はらわたまで綺麗だったらしいよ
柊太は大笑いをした後、急に自分の膝を拳で叩いた。
「そんな最後の手術で、」
底なし沼のような、とても暗い声だった。
「澄子くん、君は希望休をとっていたらしいじゃないか」
何も見えないはずの柊太は、どこか一点を睨んでいるように見えた。
「なぁ君、その日は一体何をしていたんだ? あの夜、俺が愛していた奥さんを殺したのは、お前なんだろ」
澄子は、その場で崩れ落ちた。

【終 章】夜の底の子

 窓の外で、雷鳴が聞こえる。雨は降り止む気配すら見せず、まるで彼らを責めるかのように打ちつけていた。そんな中で、澄子の笑い声だけが響いていた。
「何よ。気付いてたなら、私をわざわざ一緒に暮らさせるなんて、そんな回りくどいことしなくても良かったじゃないの」
「俺と葉だけじゃ、ほら、様にならないだろ」
柊太が冷たく吐き捨てた。

「あぁ、それはそうね。それで? どこから分かってるのよ」
「お前が俺に一方的に想いを寄せていて、なぜか嫉妬心まで拗らせていたことくらいだな」
「あら、全然分かってないのね」
「付き合った当初、病んでた愛美に代わってお前に家事の手伝いをお願いしたことがあったね。ちゃんと雇い主としてその分の給料も払って、お前はさながら家政婦のようだった。そんな時、お前は思ったんだろ。この家庭を自分のものにしたいって」
「違うわよ。あなたと私は、もっと前から出会ってるじゃない
「どういうことだ? 言ってる意味がまるで分からない」
柊太は本当に分からなさそうに首を傾げたが、私にはあの“澄子”とかいう女が、どこか浮世離れした雰囲気を持っているのに気付いていたから、何かあるのだろうと思った。
「愛美、あなたと出会ったあの頃から可愛かったものね。目を奪われてたのは知ってた。愛美と私は偶然、家が近くて仲良しだったのよ。そのことにあなたが嫉妬してるのも知ってた。でも、私は別に何とも思っていなかったのよ。私が体育祭でリレーの選手に選ばれた時、愛美が私の元にタオルを持ってきてくれるのを見て、羨望と嫉妬の眼差しを向けるあなたを見ていた。愛美も好きな人があなただと言っていたから、私は一時近くで見守る覚悟を決めたの。でも、あなたの言葉が私の心を再燃させた。『お前が女だったら、俺は絶対お前のこと好きになってるな』って。今振り返ってみても、変な言葉よね。なんかキザすぎる。でもね、私それを本気にしちゃったの」
柊太は、絶句した様子だった。
「クラスの隅っこで孤独だった私にとって、あなたは希望の光だった。ねぇ、私のこと見捨てないで。ずっと見つめていてよ。その、光の届かない瞳で」
澄子の正体が判明すると、バスの乗客全員が、凍りついて動けなくなった。

「このバスは、隣町の崖の上に立っている遊園地『スイートメモリーランド』に向かう道を走っているけれど、実際あなたが目指しているのはそこではないのでしょう。葉ちゃん、今日は何の日か知っているかしら」
「えっ? 今日は県民の日で、スイートメモリーランドが県民限定で無料開放してる日……、じゃなくて、お母さんが亡くなった日だわ」
「大正解! 今日で、愛美が亡くなって一年になる。愛美は、一年前の今日、私によって殺された。愛美はね、実は浮気をしていたの。私は、それが恨めしかった。私の大好きな柊太を奪っておいて、別の男に愛されていたんだから。ねぇ、愛美?」
澄子はそう言って、前方の白いワンピースの女に視線を投げかけた。私や、その他の乗客もみな、思わずそちらを見た。白いワンピースの女は、愛美の幽霊だったのだ。彼女のワンピースは、みるみるうちに赤く染まっていった。
「え、クリスマスまではせめて待ってほしかったって? バカ言うんじゃないわよ、あんた。あのイエス・キリストですら磔にされて死んだのに、なんであんたら罪人どもが美味しいチキンとか食べながら笑い合えると思うのよ。そんな世界は甘くないわ」
誰もそんなこと言っていないのに、澄子は饒舌に喋った。そして、愛美が殺められたあの日の真相が、彼女の口から語られることになる。

**

澄子の話によると、愛美はその日もいつも通り診察をしていた。希望休をとっていた澄子は、葉ちゃんを連れてスイートメモリーランドに出掛けた。でもそれはあくまで口実に過ぎず、彼女は葉をスイートメモリーランド第三駐車場の、当時使われていなかった物置きに閉じ込めていた。そして辺りが暗くなった頃を見計らい、彼女は愛美に電話を掛けた。

「葉ちゃんがいなくなった。私が一瞬目を離してしまったせいで、ごめんなさい」
愛美は、『今すぐ向かう』とだけ言い残して、急いで電話を切った。

スイートメモリーランドに向かう道は、地元住民が使う比較的平坦な道と、私や彼ら、隣町の住民が使う海沿いでカーブの多い道のおよそ二つに分かれる。

地元住民が使う比較的平坦な道に合流するためには、一度交通量の多い国道を通る必要があった。つまり、愛美が急いで現地に到着するためには海沿いの道を選ぶ可能性が高かった。海沿いのカーブが多い道は電灯も少なく、事故が頻繁に発生するが、その夜、彼女が後者を選ばない可能性は限りなくゼロに近かった。澄子は最も急なカーブの終盤に、ごつごつした岩や、家から運んできた自作の土のう袋を積み、通行不可にした。通販で購入した通行止めの看板を反対車線には設置して、遊園地の観覧車から愛美の車が来るのを見ていた。案の定、愛美は法定速度を破って、イカれたスピードを出していた。そして、大きな岩や土のう袋の山に目を剝いて驚き、急ブレーキをかけるも停まれず、左にハンドルを切って、海へと転落した。一瞬だったという。出来事の速度に頭の処理が追い付かず、興奮とかそんな感情は無かったそうだ。

「死ね。頼むから、俺と一緒に死んでくれ」
柊太が、至極不快そうに言った。
「嫌だわ。死んだら愛し合えないじゃないの。あなたはあの日あの瞬間、奥さんと同じ死に方ができるように、時間を逆算して今日の計画を立てた。『旅のしおり』の時間が分刻みで細かすぎたのも、そのため。奥さんの死亡推定時刻に、このバスは遊園地に着く設定になってる。でも、バスはあなた自身が私の方法で積んだ土のう袋の山や、大きな岩を避けて海に落下する。ごつごつした岩肌に皮膚が削がれ、深い深い海の中で息すらも出来なくなり、私たちはあの日の澄子のような姿になる。それがあなたの、望んでる最期なの?」

「あぁ、そうだ。お前も俺も、生まれてきたことが罪だったんだ。生きてなんかいちゃいけない。海底には、数多知れない亡骸が眠っているんだ。それは、星屑のような形をしているかもしれないし、海賊船のような形をしているかもしれないし、形すら無いかもしれない。でも、その一つにでもなれたら、せめて少しは輝けるかなって」
澄子はそれを聞くなり、愉快そうに笑った。
「柊太はずっと昔から、バカだなぁ。死んだら輝けるかもしれないとか、夢見すぎだよ。昔のロックスターじゃないんだからさ。生きてるうちに伝説を残せない奴は、死んでも一日で忘れ去られるよ。生きてるうちが華に決まってる」

時刻はもうすぐ、旅のしおりに刻まれた到着予定時刻になろうとしていた。ガタついた道を走っていると、バスはまるで黄泉比良坂を上っているようだった。

「愛美も、このバスに乗っているんだよ。幽霊だけどね。ずっとルームミラー越しに、あなたのこと愛おしげに見てる。私、もう諦めがついたよ。あなたたちが世間を騙していたように、愛美も実は浮気相手に騙されてた側なんじゃないかって思ってね」
澄子がそんな発言をした時、バスが急停止した。白いワンピースの幽霊が、運転手のハンドルを操作したようだ。恨みや呪いがそう簡単に、柊太に死んで楽になることを許さなかった。
「なぁ、じゃあ俺らはどこに向かっているんだ?」
柊太が聞いた途端、罪の意識が首をもたげた。私は、とうとう思い出してしまったのだ。あの日も私はいつも通りランランの着ぐるみを着て、園内を周回していたこと。第三駐車場の物置から扉を叩く音が聞こえた気がしたが、その横を平然と通り過ぎてしまったこと。正直、着ぐるみなんてものに押し込まれて息ができない私を認識することすらせず、気楽にはしゃぐだけの子供たちに同じ思いを味合わせたいと思ったこと。心から死んでほしいと思ったこと。

私がこんな事を思ったから、葉ちゃんは死んだのだ。再び瞬きをして彼らを見たら、柊太と澄子の間には、ちょうど子供ひとりが座れるくらいの隙間があった。彼らは舞台俳優のように、虚空に向かって声をかけ続けていた——。

エピローグ

 私はバスに揺られていた。外の景色を窺い知ることすらも許されないバスに。終点は、喩えるならば“三途”とか“冥土”とかだろうか。耳障りな号哭の中に身を置いていると、私はたちまち発狂しそうになった。先程まで私が見つめていたはずの位置に、葉と澄子の姿は無かった。

柊太は医師免許を持っていないのにも関わらず、医療行為をしていた罪で逮捕された。私は、「近所の女の子が着ぐるみをアイスクリームで汚してきたので、ムカついて物置に監禁した」と嘘の自白をして捕まった。少女の身元は分からなかったというが、餓死したことは確かなようだった。私は、罪人しか乗っていないバスの中にいた。先に待ち受けるのは、気が遠くなるほどの獄中生活だ。しかしまぁ、この世の中で一番恐ろしいのは、罪の意識も持たず自分の欲を満たそうとする人間だと思う。私が罪を被って出頭する前、澄子は吊り革に巻き付けたスカーフで首をくくって自殺した。愛美の幽霊への恐怖心に押し潰されたのだろう。しかし、愛美の幽霊だと思っていた白いワンピースの女は、愛美の双子の妹だったことが後になって分かった。幽霊なんてものは、最初から最後までいなかったのだ。それよりも恐ろしかったのは、やはり柊太である。彼は悪びれる様子もなく、他人である私との距離を詰め、そして話し掛けてきたのだ。それは世間話をするような、あまりに何気ない調子だった。その空間において、彼だけが場違いで、異端だった。

「あの、懲役刑の期間短くしたいんで、もしこの後時間あったら手伝ってもらって良いですか?」
そう言いながら、私の手首を掴む力は異常なほど強かった。私はもう逃れられないと思った。

地域住民全員を騙した笑顔が、
私の耳元で囁いた。
「だって僕のことずっと見てたじゃないですか。好きならずっと一緒に居ればいい。ひとつ屋根の下で暮らせますよ、一生。それに……」

「あんた、必死であっち側のフリしてるけど、ほんとはこっち側の人間なんでしょ?」

夜の底はひょっとすると、あなたの足元にまで及んでいるのかもしれない。私はお陰様で、今もお先真っ暗な日々を送っている。

【完】

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