見出し画像

ゴジラ咆哮の訳。何かを主張しているのでは。

漫才のオチを言葉で説明しているような白けた感じがして自分でも文章化するのに躊躇いを感じるがジェネレーションギャップ的な文化の違いがあるのならそれも致し方ないのかなとも思い書いてみる。

「ゴジラ-1.0」では、ボクも感動したが世の中には一辺倒な見方ばかりだけじゃなく、意外と映画の見方に対し色んな見解があるのに安心した。

映画制作側のキャッチコピー通りに囚われない自分の感性を大事にして、自分の価値観で物事を見ている人たちが、色んな感想を読む限りチキンと一定数いることがこれではっきりしたわけだ。

ただ、昔からゴジラ映画はただの怪物映画として人気を博したわけでなく、ある一定のテーマが下敷きにあるという今までにない怪物映画だったところが肝で、その表現の一つがあの独特の「咆哮」であると思う。
あの「咆哮」をただの「叫び声」や「泣き声」「音」と捉えられては、もうその時点で映画解釈の次元が変わってしまう。
この「ゴジラ-1.0」では、どちらかというと「叫び声」に近かったのが残念。

身体を震わせ絞り出すような声は、怒りや興奮や溜まっていた感情を絞り出した挙句にでる声「咆哮」であると考えていた。結果として人間の欲によってもたらされたゴジラが望んでいないスーパーパワーが出てしまう。人間にとっても、初期のゴジラにとってもメリットの無いパワーであったのだ。(のちに人間のために役に立つ)
だから、ただ叫んでいるんじゃなく、ただ鳴いているんじゃなく、ただの怪物じゃなく、人間の欲によってもたらされたスーパーパワー未知の動物だったのだ。

ゴジラ側に立つ人にとっては「咆哮」は、怒りであったり、溜まりに溜まった興奮であったり、時に表現しきれない悲しみであったりと感じるかもしれない。
人間に置き換えて「咆哮」するときの場面を今の世界状況なら色んなシチュエーションは安易に想像できるかもしれない。できることなら、口から火でも噴けるなら噴きたい人も今の世界ならいるだろう。ゴジラはどちらかというとそんな象徴だったのではないのだろうか。

「ゴジラ-1.0」は確かに感動した。
でも、そこで感動したら、もう一歩先も想像してみよう。踏み込んでみよう。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?