放り出す言葉の爪先で

 柔軟剤の香りに誘われて自転車を停めたら、4年の下川ランが、コインランドリーのベンチで脚をぶらぶらさせながらジャンプを読んでた。
 目ん玉ひんむかせるぐらいに見開いた下川の向こう側で、ぐるぐるぐるぐる、ドラム式の洗濯乾燥機が回ってる。なんか、めまいがした。ランドセル背負ってなかったら、もうそこが下川んちの縁側みたいになじんでて、頭がバグりそう。
 先に声かけたほうが負けだなって思って、じーっと見つめてたけど、反応する気配もない。そしたら通りがかった近所のおばさんにオレのほうが変な顔されて、すげえ恥ずかしくなる。理不尽すぎ。
 だから急いで下川を呼んだ。
「おい! コインランドリーでジャンプ読む小学生がどこの世界にいんだよ!」
 そこから3秒ぐらい間が空いて、下川が顔を上げる。いつものちりちり頭をきょろきょろさせて、黒縁の分厚い眼鏡の奥にある瞳が、やっとオレに辿り着く。
 あー。
 って、ひらべったい息が下川の口から洩れた。「おっすリョウ。3日ぶり」
「もっと会ってねえよ、1か月とか」
「えーっとね、土日かなんかに、自転車であそこらへん、しゃーって通り過ぎてくの見かけた」
「それ、会ったうちに入んねえから。おま…、下川、家帰ってないだろ」
 お前って何回も言うと、イエローカード出すとか警告だとか話がこんがらがってめんどくさくなるから、すぐ言い換えた。「ランドセル背負ったままジャンプ読むなよ」
「アニメやってるマンガの原作読みたくて、此処のベンチに置いてあったからちょうどいいやって読んでんの。今のがしたら、このジャンプ誰かに持ってかれるかもしんないじゃん。その前に確保しとかないとあかんからさ」
「…、ああ、そう」
 なんでコイツ、そういう理由の付け方は割と筋が通ってんの? ざっくりしてそうなのに、理屈っぽいとこもある。感覚で生きてそうにしか見えないのに。
 返せる言葉がなくて、黙って見返してたら、興味なくしたみたいに下川の視線がジャンプに戻る。
 なんか、このまま流されて話が終わるのも、納得いかなかった。自転車降りて、紙袋を突き出す。「まんじゅう、あんだけど、食う? 田中さんとこの」
「ありがたく頂戴いたす」
「なんで武士?」
「お礼の気持ちはちゃんと伝えろって、ばあさんが死ぬ前に言ってた」
「それと武士みたいなのは別の話だろ」
「リョウは突っ込みの練習してんのか。いただきます」
 紙袋に右手を突っ込んで、茶色のまんじゅうを1個もぎ取ったら、もうビニールの包みを開いてる。「あ、リョウもさ、お茶いる? まだ水筒に入ってんだ」
「コップねーし、下川の飲みかけだろ…」
「口つけてないから、心配すんな。水筒斜めにして、がーって飲めばいいじゃん」
「そんな野性味いらねえから。飲みたくなったら言うよ」
「うまいうまい」
「もう聞いてねーし」
 真顔でまんじゅうかじってる下川の隣に座ったら、見覚えのあるおじさんが入ってきて、おう、みたいな感じで首を振る。動いてない洗濯乾燥機を開けて、洗濯物を取り出してく背中に、こんちはー! って客でも迎えた魚屋より通る声で下川が挨拶する。
「加藤さんもまんじゅう食べますか」
「ああ、くれんならもらっとくよ」
「どうぞ」
 だからなんでオレのまんじゅう勝手にあげてんだよ。もう何処から突っ込んでいいのか意味不明。
「今日お休みですか」
「ここんとこ働き詰めだったからよ。ひと段落したから、やっと連休とれた」
 加藤さんとかいう人も、もう世間話始めてるし。
「晩ごはん決まってなかったら、ウチのコロッケでもどうぞ」
「そうだな、あとで邪魔するか。かっちゃんに宜しく。あと、そのジャンプ、たぶん俺のだな」
「あーすみません、あと15秒で読み終わります」
「いいって。好きにしな。もういらねえから」
 ジャージのポケットにまんじゅう突っ込んで、カゴいっぱいに洗濯物を詰め込んで、加藤さんがひょろひょろ出ていった。
 ほんとは、コワモテな雰囲気にびくびくしてたから、完全に姿が見えなくなってから下川に訊いてみる。「なあ。かっちゃんて誰?」
「肉屋の親父。勝美だから、かっちゃん」
「肉屋って、お前の父ちゃんだろ」
「うあー、父親とか、ムシズが走んね」
「なんでだよ。オレもさ、まあいろいろあったけど、死ぬほど嫌なわけじゃないよ、親のこと」
「親がどーとか言ったら、お母さんは悪くない。おっさんだけが問題。おっさんは自分が真ん中にいないと怒る。おっさんは、あたしらの言うことなんか聞かない。客とエラい人にしか頭下げない。お母さんにごめんなさいが言えない。とりあえずでかい声出してテーブル叩いとけばごまかせると思ってる」
 ジャンプ開いたまま、コインランドリーの外のどこか遠くに焦点を定めてる下川の目が、不穏な色に染まってる。殺傷力が満ち溢れてる。ヤバい話を聞いてる気がする。
 だから、オレは、逃げた。「重いよ、その話」
「そう? まー、かんけーないしな、リョウには」
 別に嫌味な感じでもなく、下川はジャンプに視線を落とす。「お母さんが動けなくなったのは、あいつのせいだから。謝っても後悔しても、あたしは許さん。そんだけ」
「…、まんじゅう、まだ食べる?」
「もういらぬ。ごちそうさまでした」
 きっぱり断られて、それで逃げ出したってよかったんだけど、ポケットに手を突っ込んで、立ち上がれないふりをした。逃げるのは、らしくないって、どこかで思ってた。
「下川さあ…」
「これ、やっぱコミックスで買っとこ。貯金だ貯金。あ、リョウ、まだいたのか」
 こっち向いた下川のリアクションが、わざとじゃなくてガチだったから、変な気を遣おうとしたのがバカみたいに思える。でも、やっぱり言っておきたかった。
「…、下川。大丈夫なの」
「何その質問」
「だから、平気なのかって訊いてんの」
「何が。あたしは今日の今のこの瞬間も平常運転実施中」
 ぽん、ってジャンプを閉じて、勢いよく立ち上がった下川の背中で、ランドセルの中の何かが揺れる音がした。座ったままのオレを、真っ直ぐ見つめてくる。
「リョウは、ひまなん? まんじゅうくれる親切な人?」
「気にしてんだよ、分かれ」
「だから、何を気にしてんの」
「お前んちの親父、普通じゃねえのかなって心配してんの!」
「ぴぴー。お前呼び1回目で注意。次はイエローカードの対象」
「予想どおりのことすんなよ! 親父が怒鳴ったりそこらへん叩いたり、怖いだろそういうの」
「あー、そんなん慣れてるから。だからやり返してるし。そういうのが普通だったら、そこでやってくだけじゃん。あたしはお母さん守んないといけないし」
 平然としてる下川が信じられなくて、やっぱり何も言えなくなる。こいつはまだ4年生で、オレより1歳下なだけで、でも全然揺らいでない定規みたいな芯が通ってるように見えるのは、なんで? 下川の強さって、なんなの?
 オレは、こいつと話すようになってから1年経っても、何も変わってないのに。
「下川。お前、ほんとすごいよ」
「ぴぴー。お前呼び2回目でイエローカード。3回目で累積2枚になります」
「イエローでもレッドでも、なんでもいいよ。カード出しまくって、こっから退場させてよ。そしたら、なんか変われるかも。オレも」
「3節ぐらい出場停止になりたいのか、リョウは」
「そういうことじゃなくて。…、まあ、なんでもいいわ。そのうち一緒にJリーグ観に行こうぜ」
「御免被る」
 読み終わったジャンプをオレに押し付けて、んじゃ、って下川が走り出した。
 おい。
 そっち、お前んちの方向じゃないだろ。
 口に出して突っ込んだ先で、下川はゆっくりと宙に浮くように飛び上がり、そのまま、通りの横道に見えなくなって。

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この話の出発点と思われる話。



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