輪郭の35度から見つめて

 裏の空き地のど真ん中に、コタツが鎮座してる。
 日曜日の朝、気だるく頭の周りをぐるぐる遊泳してる眠気覚ましに部屋の窓を開けたら、対角線上に見下ろした視線の先で、茶色くくすんだ小ぶりの天板と、そいつに挟まれる形で四方に伸びたベージュの布団が見えた。雑草が綺麗に刈り取られた、剥き出しの地面の中心部で、誰かの家みたいに当然な顔して佇んでいる。
 うわー、って声を出しそうになって止めようとしたはずが、ぎゅわー、みたいな感じで口からこぼれ出してて、冷静に状況を観察する。いつからあったんだろ、あれ。
 どたどた階段を駆け下りて、おかーさんヤバいって叫びながらリビングに入ったら、うるせえって親父に怒鳴られた。「日曜の朝から騒ぐな!」
「オッサンに話しかけてねーよ、ばーか」
 それこそ家のコタツを寝転がって占拠してる男はほっといて、おかあさんどこだーって喚きながら探す。
「いるから此処に」
 リビングにつながったキッチンの陰から、母が顔を覗かせた。「なに、トイレでも詰まった?」
「そんなわけないじゃん。ねえ見た? 裏にコタツが生まれたよ、ぴったり真ん中ぐらいに、でーんって、小さいけどしっかりしたヤツ」
「バカなこと言ってないで、早く顔洗ってきて。もう、ごはんだから」
「あのさあ、あたしが嘘とごまかしは死んでもしない人間だって知ってんよね」
「ほんとだとしても、あとにして」
 母は疲れ切った横顔を隠そうともしないで、キッチンに引っ込んだ。あー、って次の言葉をなくしてたら、「ぐだぐだすんな! 早く行って来い!」って親父が後ろでがなってる。
 ふてくされた気持ちで、ぶんぶんタオルを振り回しながら洗面所に行く。思いっきり蛇口のコックを上げて、正面衝突する勢いで顔に水をぶっかけて、つめてえつめてえ眼が冴えるって頭の中に唱えてたら、考えがまとまった。タオルを洗濯物のカゴに放り込んで、玄関に回ってサンダルをつっかけて、そっと鍵を開けて外に出る。友達から、秘密の入口みたいに言われてる小道を左に向かって、ウチの狭い庭と塀ひとつ挟んだだけの空き地に出る。
「…、やっぱ、ある」
 確かめるために独り言して、何メートルか先にあるコタツを、じっと見つめる。あとはお盆に入ったミカンでも載っけて、布団に猫がくるまってたら完璧。なんかテンション上がってきたから、かつかつサンダル鳴らして近づいてみる。しゃがんで、なんとなく手前の布団をちょっとだけ持ち上げた。
「あ」
 そしたら、人間と眼が合った。

「ヤバいヤバいヤバいヤバい!」
 玄関を突き破る勢いで家に戻って、サンダルのまま上がりそうになってすぐ放り出して、ねえねえねえってリビングに飛び込んだ。「コタツに人類が入ってたよ、目が合った、なんか、この、たぶんあたしと同じくらい」
「いいから食え」
 新聞を横目に箸を動かしてる親父は、なんにも興味がなさそうだった。
「静かにして、疲れてるから」
 自分のおかずを皿により分けてる母は、誰とも視線を交わそうとしない。
 あたしは、朝食の並んだテーブルの際をつかんで、身を乗り出して訴えかける。
「え、超面白くて怖いんだけど絶対ウケるから今見てほしい、ねえ行こーよ徒歩45秒」
「空気を読め、バカ野郎!」
 オッサンがテーブルに拳を叩きつけて、眼を見開いてドウカツしてくる。なんでこんな言い方しかできないんだろ、この人間。
「うっせえな、てめえが空気食ってるから読めるもんがなんもないんだろ!」
 あ? って感じで親父の顔が固まった。ぐーの音も出なくなってる間に、座布団に飛び込む感じで、いただきますって手を合わせる。左隣で誰かがため息吐いたのを気づいてないふりして、真っ白な米粒の上にししゃもを載っけて、頭からかぶりつく。ずるずる音を立てて豆腐とわかめの味噌汁をすすって、ほうれん草のおひたしをガムみたいに噛んで、たくあんをゴリゴリかじって、そのサイクルを何度か回したら、ごちそうさまでしたって食器を片づける。「行ってく、きます!」
 速攻で食ったから、なんか横っ腹ちくちくすんなって思ったのをとりあえずないことにして、玄関でサンダルに足首突っ込ませようとしたところで、やっぱちょっと寒いから靴下はいてこって思って2階に上がって、ついでにばあさんが遺した半纏も羽織って部屋を出たらどたどた階段を下りて、玄関でスニーカーにストライクで足首をねじ込んだら、外に出た。
 今度はちょっと警戒して、1回深呼吸する。頭の中でラジオ体操の微妙なアクセントが利いたおじさんのナレーションを思い出して、ひとりで吹き出したら緊張が解けた。じゃあ、改めて。
 再び、空き地のコタツと対面。見た感じ、さっきと変わりない。でも、めくったところの布団がちょっとだけ、内側に寄せられてる気がする。肩で息をして、心を決めてから、ば、って思いっきり、両手で布団を持ち上げた。
 また眼が合った。

 ぎ、と、や、と、あ、の間に存在する息継ぎだけ微かに洩らして、コタツ人類と見つめ合う。その間、10秒ぐらい。
「…、あ、こんちは。じゃなくて、おはようございます」
「…、寒いから、閉めろ」
 コタツ人類が、真っ直ぐにあたしを見据えながら、ちょっとだけきーんとする声音で応える。
「…、閉めても寒そう」
「寒いよ。風邪ひきそう」
「バカなの、コタツ人類」
「なんだよコタツ人類って。いいから帰れ、ボサボサメガネ」
「名前分かんないからって、見た目で適当な渾名つけてんじゃねえよ」
「知ってるよ、そこの肉屋の下川だろ。3年の」
 そこまで言われたら、布団の奥の暗がりで猫みたいに眼を光らせてるコタツ人類の輪郭が像を結んできた。この人知ってるし、すごい近所に住んでるし、学校も同じだ。
「なんだっけ。4年のクリーニング屋の竹本」
「学年と親の店と名前をごっちゃにすんな。早く閉めろっての」
 返事する間ももどかしいみたいに、あたしから布団をもぎとって、自分からコタツの扉を閉ざした。ちょっとだけ考えて、反対側から開けてみる。当たり前だけど、竹本のケツが眼の前にあった。「おい、ふざけん」最後まで聞かないで布団を下ろした。

 家に戻ったら、代わりに親父がどこかに消えてた。パチンコか何かでしょ、って母が背中で呟いてる。休みの日の親父なんて、そんなもん。ほっとくに限る。
 ねえ、って今あったことを話したら、またバカなこと、って途中まで無表情に流そうとしてから、やっと母がこっちを向いてくれる。
「裏の空き地って、竹本さんの土地だったと思う。すごい昔はね、このあたりの土地は竹本さんの家がまとめて所有してて、それがだんだん切り分けられて今みたいになったって。その名残りで、ぽつんと残ったのが、そこの空き地だって、いつだったか聞いたな」
「誰に。オッサン?」
「オッサンじゃなくてお父さんでしょ」
 もう、あたしがオッサンって呼んだだけで親父のことを指してるって、母も分かってる。
「お父さんのお父さん、ランのおじいちゃんに聞いたんだ、確か。ランが生まれる、少し前にね」
 母の視線は、リビングの隅に収まってる仏壇に向かう。そこに1枚、じいさんとばあさんの映った写真。じいさんは大股を開いて椅子に、ばあさんは左隣で背筋をぴっと伸ばして立ってる。モノクロの中で。
「なんだ、ウチのじゃないんだ、空き地。じゃあ、竹本がコタツ建ててもおかしくないか」
「おかしいかおかしくないかの問題じゃないと思うけど。よその土地だから、勝手に入らないようにして」
「じゃあ許可取ったら、入っていいんだよね」
「誰に許可取るの」
「竹本さんとこ」
 やめときなさい、って、母はそれきり話を打ち切った。「ちょっと横になるから。洗濯機が止まったら、干せるものを干しておいて」
 死出の旅に赴くみたいな足取りで、床をきしませながら階段を上っていく母を、もう追いたいとは思わなかった。母は疲れてる。それはずっと知ってる。でもキッチンを覗いたら、食器は全部洗い終わったあとだった。

「親がクリーニング屋で学校は4年の竹本」
 コタツの前で呼んでみたら、パンドラの箱でも開けるような気分になってきた。どっちかというとアマテラスかも。
 ちょっとだけ、向こう側から布団が持ち上げられる。暗がりに、2個のまぶたがまばたきして、現れたり消えたりする。
「やめろよ、つまんない属性で呼ぶの。リョウって固有名詞あるから」
「難しい言葉多くて、よく分かんない。肩書とか名前って言って」
「意味とれてんじゃん、なんなのお前」
「人のことすぐにお前とか言うな」
「ボサボサ下川メガネ」
「下川ラン。見た目じゃなくて名前呼びで上等」
「ラ…、…、下川ラン」
「なんでフルネーム」
「恥ずかしいだろ、名前呼び捨てとか」
「は。小学生の男子みたいなこと言って」
「小学生だよ。お前、空気読めなすぎ」
「ぴぴー。お前と空気読めない、今日2回目でイエローカードの対象。あと1枚で退場です」
 布団がぐわって持ち上げられて、はあ? って感じで竹本リョウが、納得できないクイズの答えでも見せられたときみたいな顔を覗かせる。「空気読めないは言ってないよ。警告も意味不明だし」
「あ、ごめん、空気読めはウチの親父のぶんだった。むかついたから私情入っちった」
「ひでー審判。サッカー好きなの」
「FCのほうの東京が」
「そっかー、オレ、フロンターレサポだから」
「そこ、ヴェルディって言うとこっしょ」
「いいじゃん、多摩川クラシコで。女子でJの話分かるヤツ、いいなー」
 なんか急に好感度が上がったっぽいけど、女子がどうとか、ヤツとか呼ぶのはいただけない。「まあ、とりあえずいいや。あのさ、ここってリョウの親かなんかの空き地なの」
「じいちゃんの、って前に話してんの聞いた。もう、どっかの施設に入ってるから、はっきりしないけど」
「施設って、なに」
「なんか、同じくらいの歳のじいちゃんばあちゃんが住んでる小さいホテルみたいなとこ」
「ふーん。じゃあ許可取れないか」
「許可って」
「お宅の土地に入っていいですか許可」
 もう入りまくってんじゃん、って、空き地中に響きそうな声で笑う。「いいよ、おもしれーもん、下川ラン。変な女子」
「女子だろうが男子だろうがなんだろうが、変なのは変だよ、性別関係ない」
「…、まあ、そだな。なんか説得力ある、おま…、下川が言うと」
「よく言われる。じゃあさ、なんでコタツ入ってんの」
「脈絡なさすぎ」
「現代人はせっかちだから。ていうか、電気ついてないじゃん、コタツ。あったかくない」
「空き地に電源があるかよ。だから開けてると寒いの、さっきから言ってんだろ。布団で隙間なくしたら、まあまあなんとかなる」
「じゃ、入れて」
「やだ。ひとり用だから」
「だから、リョウが外出ればいいじゃん」
「やだっての。ここ、オレんちだから。空き地には入っていいよ、でもコタツは、オレだけの家」
「あ、家なんだ。リョウんち。なら、友達招待枠で入れて」
「誰が友達だよ」
「あたし以外に誰がいる」
「ほぼさっき知り合ったばっかだろ」
「学校同じだし、存在は知ってた」
「嘘つけ。オレ、学校ほとんど行ってねーし。お前はさ、頭ちりちりで目立つし、店近いから覚えてるけど」
「ぴぴー。お前呼び3回目でイエローカード追加1枚、累積2枚でレッドカード。コタツから退場決定」
 あたしは体半分を無理やりコタツにねじ込んで、リョウの右腕を大きなカブだと思って引っ張った。「早く出て来ーい」
「訳分かんないルールつくんな! やめろっての!」
 リョウがちょっとだけ体をずらしたその隙に、当社比史上最速で足の先からコタツの中に滑り込む。よく見たら、テーブルの下にカーペットみたいなのが敷いてあった。そのせいかもしんないけど、思ったより寒くない。
「よっしゃあ、入った。あー、新鮮。猫、こんな気持ちなんだ、あったかー」
「どういう感想だよ」
 ほとんど耳元でリョウの声がして、右側に顔向けたら、ほんとに眼と鼻の先にいた。「近すぎだから、もっと離れなよ」
「そっちが無理やり入ってきたんだろ! あとあったかいのはオレのぬくもりのおかげ」
「やっぱコタツ人類だ、リョウ」
「もう、なんでもいーわ」
 あきらめた感じのリョウが、ほんの少しだけ体を引っ込ませたから、こっちも気持ちが落ち着いてきた。完全にめくれ上がったコタツの布団越しに、外の世界を見つめる。此処からだと、あたしんちの庭の塀は見えても、2階にある部屋の窓は視界に収められない。だから余計に、遠い場所に放り出された感じがする。
「…、静かでいいなー」
「最高だろ、オレん家。たぶん、下川だけだよ、入れんのは」
「友達1号だから」
「ちげーよ、強引だからだよ。話したこともないし、今まで」
「リョウって、よく自転車で走ってんじゃん。それ、よく見かけんだよ、学校から帰るときとかぶらぶらしてるときとか。ぴゅーって車道の向こう側に通りすぎて、ぱって消滅するみたいな」
「瞬間移動してるっぽく言うな」
「あれ、何処に向かってんの」
「何処でもないよ。家ん中いてもやることねーし。外出たって別になんもないけど、時間つぶしてる。ずーっとここらへん回って」
「なに考えてんの」
「なんも考えてねーよ」
「なんで学校来ないの」
「なんでそういうことダイレクトに訊くんだよ、気を遣えよ」
「気を遣ってる時間がかったるい。他人のことなんか分かんないから、訊いたほうが早いじゃん」
「…、まあ、そうなのかもしんないけど。学校行かないのに理由必要か? ほとんど毎日無理やり拘束されて、やりたくもない勉強させられて、うんざりする連中に囲まれて、なんでそんなきついことに耐えなきゃなんないの。分かってんじゃないの、みんな。こんなこと続ける意味あんのかって」
「あるよ」
 真横で熱弁するリョウを、ぶったぎる感じで断言した。あたしはそこに迷いなんかないから。
「休まないで学校行って、勉強して、まあまあいい成績とって、すごいって思われてる大学卒業して、名前だけでも売り込める会社で成果出して、さっさとそこ辞めてあたししかできないことでばーんって世の中変えるから、今はまともなふりして学校通ってる」
「…、まともじゃねーから、お前」
「はい、お前4回目で今度は一発レッド退場、コタツから締め出し」
 右肩でぐいぐいリョウをコタツから押し出そうとしたけど、コタツごとずれてくから、なんか変なことになる。リョウもぎゃーぎゃー喚いて抵抗するし。
「もうなんなんだよ、ほっとけよ、オレんちだって言ってんだろ! ほんと謎だよ、何食って生きてきたんだよ!」
「あー、でもこれやってるほうがもっとあったかい、押しくらまんじゅうだ保育園とかでやってた! 負けるか、このこの!」
「うるせえ、もうマジで宇宙人だボサボサメガネ!」
 狭いコタツの中で、でもまあ結構面白くて、そんなことやってるうちにゲラゲラして超ウケるって思ってたら、急に視界が開けた。

 こんなとこにコタツ持ち出して、なにやってんだ、お前は!
 コタツの天板と布団が放り出されて、真っ直ぐ降り注いでくる日差しに眼がくらむ。逆光でシルエットになってる誰かが、コタツの土台も脇に投げ捨てて、リョウの襟首をつかみ上げる。げえ、っていう蛙の鳴き声みたいな呻きが空気を濁した。
「…めろよ、死ぬだろ!」
 襟首の手を振りほどいたリョウが、ぶんぶん腕を振り回して相手と距離を取る。あたしもその間に起き上がった。リョウの襟首をつかんでた大人と眼が合って、その顔のつくりはリョウの分身みたいだった。「誰?」ってあたしに首を傾げる。
「まあ、いい。とにかくお前は布団を持ってけ。俺はテーブルを、…、カーペットもあるのか、そっちも俺が持つ。さっさと出るぞ、もう此処はウチの土地じゃないんだ」
 え、って、あたしもリョウも同時に息を呑んだ。
「だって、じいちゃんのものって言ってたじゃん」
「誰がそんなこと言った。もうそこの柳井さんと話がついてる。こんな使い道のない空き地を残してても、あとあと面倒なだけだ。親父も納得してる。お前には関係ない話だ」
「お前とか言うな、今ので3回目だろ、イエローカード累積で退場!」
「はあ? バカなこと言ってんじゃないよ、ほら、こんな女の子まで巻き込んで迷惑を」
 あたしのほうにそれっぽく理由を押し付けようとしたから、むか、ってした。ウチの親父と同じだ、こいつも。
「ぴぴー。イエローカード追加で次節も出場停止! 即刻退席処分!」
 ローカルルールを追加して、それから全力で右肩と右腕を、相手のおなかのあたりめがけて、ぶちこんでやった。ぐふう、って、久しぶりに手応えのあるリアクションが返ってくる。ひるんだ相手を、そのままどんどん後ろに向かって押し出していく。
「退場退場、帰れ、帰れ! 此処はリョウんちだ!」
「…、そうだ、とっとと帰れ!」
 リョウがあたしの隣に並んで、おんなじように相手を押し出し始めた。下を向いて、相手の顔も見ないで、ただただ前に前に全身の力を込めて進んでいく。
「お前らなあ…」
 呆れと、ちょっとだけの恐怖を込めた呟きを聞き流して、あたしとリョウは綱引きでもするときみたいにタイミングを合わせて、肩に力を込める。相手の抵抗も激しいけど、ちゃんと押し出せてる。このまま土俵下まで行ける、相撲だったら。
 そう思ってた。
 ふわって、後ろから、やわらかい力にひきはがされた。相手との距離が空いて、リョウとも離れたから、バランスがいっぺんに崩れて、リョウがつんのめって脇に転がるのが見えた。
 あたしは、背後から慣れ親しんだ両腕に絡め取られて、前進をはばまれた。尻餅をついたリョウが、何かに気づいたみたいに言葉をなくして、こっちを見てる。
 頭の上から、「申し訳ありません!」っていう母の絶叫がミサイルみたいに降り注いだ。
「とんだ御迷惑をおかけして、本当に失礼しました! リョウ君にもケガはないですか!」
 いや、って相手の大人はひるんだ感じで、隣に倒れてるリョウを見下ろした。「全然、迷惑をかけてるのは、きっとこちらです。すみません、あとでまた御挨拶を…」
「そうだそうだ、勝手にリョウんちを壊したのはそいつだ、退場しろ退場!」
 むかっぱらが帰還して、あたしの口からは言いたいことがマシンガンみたいにぶっ放されるけど、母の本気はあたしなんてものともしない。
「申し訳ありません、主人と後ほど伺いますので、今は御容赦ください…」
「親父なんか関係ない、リョウとあたしの戦いだ、口出しさせんなー!」
 あたしの口はまだまだ言いたいことをいくらでも迸らせてるけど、背後からものすごい力で母が押さえ込んだまま空き地から引っ張り出していく。リョウも、その隣の大人も、呆然とこっちを見送ってる。だからあの人たちの時間を動かしたくて、あたしは最後まで叫んでた。
「リョウ、自分んちちゃんと守れ、あたしが帰るまで守っとけ、またすぐ行くから絶対何があっても戻るからまた押しくらまんじゅうすんぞ忘れんなよ聞いてるか聞こえてんなら返事しろ聞こえてないなら聞こえてないって言え!」
 空き地を出て、家の前の小道まで引っ張ってこられたとき、リョウが空中を駆けてるんじゃないかって速さで迫ってきた。それで、さっき、コタツの中でひしめき合ってたぐらいの距離まで顔を近づけてきて、言う。
「絶対つくるわ、オレんち。また来いよ」
「未来にぐっじょぶ」
 とりあえず右手の親指立てといた。

 玄関をくぐって家に帰っても、母はあたしを叱ったりしなかった。褒めたりもしない。ただ、お父さんが帰ってから、って呟いて、2階に上がろうとする。さっきのあたしを押さえつけた力なんて、夢まぼろしみたいに。
「おかあさん」
 その背中に呼びかける。
「洗濯物は、もう干してあるから」
 階段の途中で立ち止まって、母が振り返る。「分かってる。いつもありがとう、ラン」色彩のない微笑みを残して、母は見えなくなる。
 親父が帰ってくるまで、お昼までには時間があるから、あたしはキッチンの冷蔵庫を軽くあさって、脇に貼られたメモをたぐり、財布をつっこんだエコバッグを右腕に提げて、じゃあ行くかってひとりごちたときに、まだパジャマじゃんって気づいた日曜日は始まったばかりで。


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