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セラピーにおける共時性と母の死の予感

セラピーではクライエントの深い感情や経験を共有するので、特別なつながりが築かれる。だからもう来なくなったクライエントのことも時々「どうしているかな?」と懐かしく思い出し彼らの幸せを祈ることがある。そしてしばらくその人のことは思い出さない。
 
でも時々幸せを祈った後もその人のことが頭に浮かび、だんだんその頻度が増すことがある。その時私は、「あ、そろそろこの人から連絡くるな」と思う。もう少し正確にいうと連絡が来ることが「分かる、知っている」という感覚だ。
 
ここ数週間ほどかつてのクライエントのことを思い出すようになった。案の定、数日前に「相談したことがあるから一度、セッションを受けたい」という連絡をもらった。こういう時「わー、やっぱり!」と驚いている自分と、「分かっていたわ」と当然のように受け止める自分がいる。
 
これをユングなら共時性と呼ぶであろう。共時性とは因果関係に基づかない意味のある偶然の一致のことを言う。誰でもある人のことを考えていたらその人から電話がかかっきて驚いた経験があるだろう。また鷲が飛び立つ夢を見た日に、同じようなシーンを目撃すると言うのも共時性の例である。内的世界と外的世界がシンクロするのだ。
 
二人の間にシンクロするのは二人の間に意味のあるつながりがあるからだろう。だから共時性の起こる人とのセラピーは大抵非常にうまくいく。それはそれは癒しや成長の過程が簡単だと言う意味ではない。中にはまるで険しい山を登るような苦しい時期を経過することもある。でもそれを乗り越えられるのは、そのクライエントの資質や成長への思い、私の技量に加えて、二人がその山を登ることを下支えするつながりというものがあるからだろう。
 
だから今回連絡してきたクライエントの問題がなんであれ、「大丈夫」と思える。
 
そのことで思い出すのは母のことである。東日本大震災から1ヶ月くらい経って、まだ日本だけでなく世界がその被害の甚大さに揺さぶられていた頃のことだ。私は夜ベッドに入ろうとした時、「あ、今、母から何か大事なものが抜けていった」という感覚を抱いた。その大事なものはあえて言葉にすれば「魂」と言えるものかもしれなかった。
 
でもすぐに眠ってしまい起きた時はそのことを忘れていた。ところが2日後の夜11時頃に電話がなった。ID表示はなかったが、私はその電話が父からであること、そして母に何か大きなことが起こったことを「知っていた」。
 
電話をとってみるとやはり父だった。母が突然倒れて今ICUにいると言う言葉を私は当然のように受け止めた。あとで父から、「あの時、リリコイは全然、驚いていなかったな」と言われたほどである。
 
結局、母はくも膜下出血で亡くなった。父からの電話を受け取った時に冷静だったからと言って突然の母の死が悲しくなかったわけではない。母とは複雑な関係だったので、悲しみと同時に複雑な感情も起こってきた。そしてあの直感を感じた後に母に連絡しなかったことを心から悔いた。でも私が母の魂が抜けていったことに気づけたことは、母とのつながりの証のような気がして慰めとなった。
 
話は脱線してしまったが、共時性が起きるような深いつながりにセラピーが支えられるという話に戻る。これはエビデンスを示すことができない。つまり今の科学的では証明できないことだ。でもそれが無意味ということではない。人間の無意識と意識の関係を、ゾウとその上に乗っている小さな人間で表すことがあるが、私たちの体験全体の中で科学で証明できる範囲は、ゾウの上に乗っている人間のように小さなものではないだろうか。
 
それでも私たちが技術を磨いていくのは大事なことだ。確かにエビデンスのある治療法は万能薬ではないが、うまく使えば大きな効果がある。ただ技術を磨きながら、エビデンスでは測れないものに人というものは動かされているという謙虚さも忘れないことが大事だと思う。

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