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ベルクソンの持続について

今回の記事は、関連する気づきの覚え書きです。

最近、中沢新一『構造の奥』(講談社選書メチエ)を読みました。

私は、その第三章の「重力論と贈与論」から視点を得て、
物質化に関わる重力と、その周辺で起こる赤方偏移を気にしつつ、
言語化に関わる贈与と、その周辺で起こる事態を気にしながら、
マルセル・モース『贈与論』(岩波文庫)を読んでみました。

その書物から「等価交換」「純粋贈与」「返礼義務」を取り出したい。

経済学では、経済活動の本質が「等価交換」なので、お金で買えない物事が動く「純粋贈与」については説明できません。また、その経済学では、原始部族による「返礼義務」を、借金を返済するという程度に理解します。

私は、言語意識の探究を通して、原始部族の時間感覚が、現代科学の時空間ではなく、アンリ・ベルクソンが説く持続であることを知っています。

つまり、原始部族の返礼は、その持続を介した返礼です。

持続を忘れつつある学者が「なぜ、返礼する義務が生ずるのか」を説明するためには、時間感覚を再構築しなければならないと思います。

ところで、こんな記述がありました。

………ホルムズ氏の明敏な指摘によれば、フィンケ川の河口において氏が出会った二つの部族の言語では、ともに、「購入と売却、貸与と借用を示すのにただ一つの単語しかない」。やりとりとしては「互いに逆向きなのに、同一の単語で表現されている」。
………この人たちは、売るという観念も、貸すという観念ももっていないのに、にもかかわらず、売るとか貸すとかいうのと同じ機能を有した法的・経済的な諸々のやりとりをおこなっているのである。
また、物々交換という観念は、ポリネシアの人々にとってと同様にメラネシアの人々にとっても自明ではない。

――マルセル・モース『贈与論』(岩波文庫)pp.194-195

私は、そこで、ドゴン族の精霊ノンモを思い出しました。それは、大ノンモとノンモ・ティティヤイネが背中合わせの、双子の偶像です。

原始部族の「返礼義務」はどんな感覚なのでしょうか。

持続はどのようにあるのでしょうか。

遺伝子が、持続にアクセスする鍵としてあるようだし・・・。

・・・ピラミッド型の社会構造を維持してきた支配者たちは、人々が恩返しする相手を、返礼先を、独占していたようだし・・・。

この図は独学の具体例の一つにすぎません。

スピリチュアルな探究はつづく・・・。