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ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』を読む(第二部)

今回の記事は、過去の記事「ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』を読む(第一部)」のつづきです。この書物の第一部は、著者の思考が宇宙とつながっていることに気づけないと読めない内容でした。宇宙とつながる思考の彼が、つながっていない人たちの哲学を批判していたのです。

つづいて、第二部からは、人間に特有な概念と目的を取り出します。

多くの書物では、思考と感情を同じ哲学的平面において説明しますが、彼の感情は、いわば、概念と同じ平面にあります。思考が、概念と感情を両立させているのです。その「概念」は次のようにあります。

原因と結果から生じる経過の中での知覚内容と概念とははっきり区別される必要がある。原因の知覚内容は結果の知覚内容に先行している。原因となる知覚内容とその結果である知覚内容とは、それに対応する概念とあらためて結びつけられることがなければ、私たちの意識の中で互いに無関係に存在しているにすぎない。結果の知覚内容は、原因の知覚内容の後に生じる。その際結果が原因に影響を与えるとすれば、それは概念の働きによらざるを得ない。なぜなら、結果の知覚内容は原因の知覚内容以前にはそもそも存在し得ないのだから。――pp.205-206

概念があるから、人間は、結果につながる原因を起こせるのです。

感情については、第一部の p.130 にこうあります。

感情は、概念が具体的な生命を獲得するための最初の手段である。

言語意識を探究する私としては、思考と概念と感情(情緒)は、それぞれ、主題(主語)と名詞群と動詞群に対応させて悩むところです。

さて、後は、「目的」の言葉遣いを救っておきます。なお、次の引用にある「一元論」は著者の持論を指し、「理念」はより豊かな概念を指します。

一元論はどんな分野でも目的概念を退けるが、人間の行動だけは例外である。一元論は自然の法則を探究し、自然の目的は問わない。自然の目的は知覚できない力と同じように、恣意的な仮定である。しかしまたその生活目的も人間が自分で定めるのでなければ、是認できない。目的が問題になるのは人間が何かのために自分で作り上げたものだけである。なぜなら理念の実現のためにのみ、合目的的に何かが作られるのであり、しかも実在論的な意味においては、理念は人間の内部においてしか働くことができないのだから。それ故人間の生活においては、人間自身が与えた目的と使命だけがある。人生にはどのような使命があるのかという問いに対して、一元論は、人間が自分で定めた使命だけがある、と答える。社会における私の使命はあらかじめ定められたものでない。その都度私自身がそれを自分のために選択する。私は人に命ぜられた人生行路を歩いていくのではない。――p.207

以上、言語学的制約から自由になるために。つづく。