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原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』に触れて

外国人に教えるための日本語文法というものがあります。その内容は、文法に反映されている日本人の考え方が、具体的に、体系的に、説明されています。日本人が学校で習う国語の文法とは驚くほど内容が異なるのです。

日本人も、外国人の日本語生活を可能にする実用的な日本語文法に触れて、無意識的に使う母国語を、意識的に使う日本語に改めたらどうだろう。

欧米で暮らす人たちは、外国語と遭遇する機会に恵まれています。だから、自分の言葉を俯瞰して、母国語を意識的に使う習慣があります。ところが、日本人はというと、自分の言葉を俯瞰しなければならないほど、外国語には困らないため、無意識的な言語活動で済ませてしまっています。

実は、その日本人の状態は、とても危うい状態なのです。

自分の言葉を意識的に使わないでいると、自分と他人の言葉が区別されないまま無意識に浸透します。他人が勝手に創作した価値や意味を、他人事を、自分の事として背負い込んでしまいます。

たとえば、先生が言うことを信じて、教科書の内容を疑わない、ほとんどの児童生徒は、日本語には主語がある、という間違った教えを鵜呑みにして、本当にそうしようと努力してしまいます。

そもそも、国語の文法(国文法:学校文法)は英文法を真似したものです。明治時代の日本人が、欧米人の偏見を、日本語に被せたのです。日本文化の破壊を目的としていなかったとしても、残念な影響が出ています。

いまや、日本語文法を習った外国人の方が、日本人よりも、日本人の考え方を意識しながら言語化している状態です。

さて、私自身は、日本語文法でも満足できません。

スピリチュアルな予備知識も踏まえると、国語教育は、もっと初心者向けの広くて浅い教えにすべきだと思います。その理由を三つこぼしたい。

第一に、日本人は調和を重んじる個性の大地に生かされて、調和を重んじる民族へと育てられるのだから、漢文を暗記したり古文を分析したりするよりも、大地に畏敬の念を持った方が文化を継承できるのではないか。

第二に、外国での宗教生活を散々経験してきた人たちが、日本人として多く転生してきているのだから、各個人が独学で外国の古典にも触れられるようにした方が、良い意味で潜在意識を活性化するのではないか。

第三に、言語習得が難しい人たちの中には、テレパシーによる意思疎通ができてさえいれば、もっともっと個性を発揮する人が相当数いるのです。現代社会は、言語コミュニケーションに頼りすぎではないか。

以上、言語学的制約から自由になるために。