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ドミニク・チェン『未来をつくる言葉』にて(共在感覚)

今回の記事は、過去の記事「ドミニク・チェン『未来をつくる言葉』にて」の追記です。「「共に在る」という感覚」という節を救っておきます。

   「共に在る」という感覚
『タイプトレース』の研究開発を続けながら共話について調べているうちに、文化人類学者の木村大治が書いた『共在感覚――アフリカの二つの社会における言語的相互行為から』(京都大学学術出版会、2003)という本に出会い、「共在感覚」という概念について学んだ。コミュニケーションの本質に迫る内容だと思う。
 木村は1980年代末からザイール(現・コンゴ)の農耕民ボンガンド族、後にはカメルーンの狩猟採集民バカ・ピグミー族の現地調査を行い、それぞれの日常的な会話をつぶさに観測している。本書を通して明らかになるのは、わたしたちが普段の会話において感じている「相手と共に在る感覚」は、文化によってかなり異なるということだ。つまり、「共在感覚」はある文化に特有のコミュニケーション構造によって変化する。そこから、共在感覚を設計可能な対象として捉える可能性も浮き彫りになってくる。

――pp.206-207 第九章「「共に在る」ために」

 木村の調査研究によるとボンガンド族の人々は、都市部に住んでいる人間の認識からすると「だいぶ遠くにいても一緒」という感覚をもっている。ボンガンドの人々に「いつ、誰と一緒にいたか」という調査を行うと、その時には顔が見えなかったはずの隣家の人間と一緒にいた、という報告がなされる。壁を隔てていても、「一緒にいる」と感じていることになる。現代の都市社会で、わたしたちは隣家の人には挨拶をするが、ボンガンドの人々は自宅からおよそ150メートル以内の範囲に住んでいる人々とは挨拶を交わさないらしい。その範囲の人々は常に「共に在る」と認識しており、わざわざ挨拶をする方がおかしいという感覚に基づく、と木村は推測する。同様に、壁越しに聞こえる隣家の話し声に突然反応して家の境界をまたいだ会話が発生したり、100メートル以上離れている人間でも呼ぶとすぐに反応が返ってきたりと、ボンガンドの人々はわたしたちの常識と比べると非常に広範囲で「共に在る」感覚を生きているようだ。
 別の、バカ・ピグミー族の観察で、木村は「発話重複と長い沈黙」に注目する。バカ・ピグミー族の人々は集会で会話を楽しむ際に、時として一斉に話しはじめて、互いの発話が重なり合う。その後に長い沈黙の時間も継続するのだが、それを誰も気まずいと感じていない様子らしい。わたしたちは普通、一緒に話し始めると、「どうぞお先に」と発言権を譲り合うし、沈黙が続くと気まずさを感じ、なにか話題を提供しようと内心躍起になったりしがちである。しかしバカ・ピグミー族においては、重複も沈黙も社会的に問題はなく、むしろ特有の価値とされている可能性がある。木村はこのような特徴に「拡散的会話場」という用語を当て分析している。
 ボンガンド族にはもう一つ特徴的な発話の形態があり、木村はそれと似た現象をバカ・ピグミー族でも観察している。それはボナンゴと呼ばれ、村の広場で誰かがいきなり独り言を大声で話し始めることを指す。内容は非常にプライベートなことから、集落全体に関する意見までを含むが、興味深いのは誰もそれを面と向かって受け止めない点だ。村人はボナンゴをしている人のことを無視するし、話す方も気にしないで話し続ける。木村はこの「相手を特定しない、大声の発話」を「投擲とうてき的発話」と読んでいる。

――pp.207-208 第九章「「共に在る」ために」

文化人類学者に蓄積された、常識を揺さ振る体験が、面白い。

以上、言語学的制約から自由になるために。