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ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』を読む(第三部)

今回の記事は、過去の記事「ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』を読む(第二部)」のつづきです。この書物の第一部では、宇宙とつながる思考に気づき、第二部では、人間に特有な概念と目的を取り出しました。

つづいて、第三部では、「現実」をつかみ直すことになります。

著者の一元論では、宇宙とつながる思考が真の現実を保証しています。一元論は、素朴な人たちが知覚する世界(素朴実在論)や、概念で構築する観念世界(形而上的実在論)を、真の現実としては、認めないのです。

知覚内容は客観的に与えられている現実世界の一側面であり、概念は主観的に(直観によって)与えられている現実世界のもう一方の側面である。われわれの精神構造は現実世界をこの二つの要因に分けてしまった。一方の要因は知覚のために現れ、もう一方の要因は直観のために現れる。この両者が結びつき、合法則的に宇宙に組み込まれている知覚内容こそが、完全な現実なのである。単なる知覚内容は、それだけを単独に考察すれば、現実ではなく、無関連な混沌カオスでしかない。知覚内容の合法則性だけを単独に考察すれば、それはもっぱら抽象的な概念としか結びつかない。抽象的な概念は現実を包含していない。一面的に概念だけを取り上げるのでも、知覚内容だけを取り上げるのでもなく、この両者の関連を取り上げる思考こそが現実を把握する。――p.274

この引用だけでも「思考が変われば現実も変わる」ことがわかります。
思考の枠組みは、自分で、再構築したいものです。

それでは、最後に、訳者あとがきから、気になる記述を取り出して、この書物は、しばらく、寝かせておきます。また読み返したくなるだろう。

近代的思考は言語の文法構造の分析と意味の厳密な規定を繰り返しながら、経験世界に対応する観念世界の構築にばかり気をとられている。そこには自由な感覚の働く余地はなく、自由の衝動は――各人の中に、したがって哲学者の中にも本来生きて働いている筈なのに――近代的思考そのものによって窒息させられそうになっている。

そのような実感をもったときに本書をひもとくと、すぐに気がつくのは、論述そのものに自由の精神が宿っていることである。本書の論述は他のどんな文献や専門的予備知識にも頼っていない。「この本はこれこれの文献、これこれの学者を知らなければ、理解できない」というような、よく聞かされる言い方も、ここでは一切不必要である。いろいろな引用が為されていても、本書全体の構成の一環として組み込まれているので、その引用文だけで前後の関連はまったく透明に見通せるように配慮されている。読者はひたすら自由に、自分の思考力だけに頼って、本書に取り組むことができる。――p.308

以上、言語学的制約から自由になるために。