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ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』を読む(第一部)

さて、次のパラグラフは、何が言いたいのだろう。

しかもわれわれは思考の助けを借りてのみ自分を主観として措定し、そして自分と対象とを対置させることができる。だから思考を単なる主観的な活動であると解することは許されない。思考は主観と客観の彼方にあって、この二つの概念をすべての他の概念と同じように作り上げるのである。思考する主観としてのわれわれが概念を対象と関係づけるとき、この関係は単なる主観的なものとは解されない。この関係を生じさせるのは主観ではなく、思考なのだからである。主観はそれが主観であるから思考するのではない。それが思考する能力を持つからこそ、自分を主観として表すのである。思考する存在としての人間が行う活動は、単なる主観的な活動なのではなく、主観と客観という両概念を超えた活動なのである。だから私の個的な主観が思考するのだとは言えない。むしろ私の主観は思考の恩寵の下に生きている、と言うべきである。このようにして思考という要素は、私を私の自我の彼方へ導き、客観と結びつけてくれる。けれども思考はまた、私を主観として客観に対比させることによって、私を客観からも引き離す。

――pp.76-77

著者の「思考」は、宇宙の思考です。宇宙が思考しています。

彼の思考のイメージを「純粋なエネルギーの渦」にしてください。それが、各個人に浸透して、個人的な思考を、内側から、奏でているのだ。

思考はわれわれの特殊な個性を宇宙全体と関連づける。感覚と感情と(さらに知覚と)は、われわれを個別的な存在にする。思考するとき、われわれはすべてに通用する全一の存在となる。われわれの本性が二重であることの深い根拠は、まさにこの点にある。われわれは自分の中にそれ自身絶対的な力が生まれ出ようとしているのを見る。その力は普遍的である。しかしわれわれがその力と出会うのは、宇宙の中心からそれが流出するときではなく、周辺の一点においてである。宇宙の中心から流出するときのその力を知ることができたとすれば、われわれは、意識を持った瞬間に、全宇宙の謎を解くことができたであろう。けれどもわれわれは周辺の一点に立っている。そして自分の存在が一定の限界内にとらわれていることを知っている。だからこそわれわれは自分の外にある領域を、宇宙の普遍存在からわれわれの中に突出してくる思考の助けを借りて、認識していかなければならない。

――p.109

宇宙との繋がりを実感することができない現代人は、個人的な思考に囚われて、主観と客観のあいだに壁を設け、壁を超えられない思考で推測しているのです。それで、願いを宇宙に届けようと頑張るのだけど・・・。

その思考は、初めから、宇宙とつながっていたのだ。

以上、言語学的制約から自由になるために。つづく。