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W-J・オング『声の文化と文字の文化』を読む

この書物は、主に、書くことを全く知らない人々の声の文化を扱いますが、ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』に触れる記述もありました。

ジェインズは、脳が強固に「両脳的」であった意識の原初的な段階を、つぎのような特徴によって識別する。つまり、脳の右半球が、制御不能な「声」を発し、その「声」は神々に帰せられ、そして、脳の左半球がそうした神々をことばで言いあらわしたのだ、と。「声」は、紀元前二千年から千年のあいだに、その有効性を失いはじめた。注目すべきは、紀元前千五百年ごろのアルファベットの発明が、この時期をきれいに二分していることである。明らかにジェインズは、書くようになったことが、原初の両脳性の衰弱に手を貸すことになったと信じている。――pp.68-69

私としては、書くことによる世界観の変化に興味があります。

視覚は分離し、音は合体させる。視覚においては、見ている者が、見ている対象の外側に、そして、その対象から離れたところに位置づけられるのに対し、音は、聞く者の内部に注ぎ込まれる。メルロ=ポンティが述べたように、視覚は切り離す。視覚は、一どきに一方向からしか人間にやって来ない。つまり、部屋を見たり風景を見たりするためには、眼をあちこちに動かさなければならない。ところが、聞くときには、同時にそして瞬時に、あらゆる方向から音が集まってくる。つまり、わたしは、自分の聴覚の世界の中心にいる。その世界はわたしを取りかこみ、わたしは、感覚と存在の一種の核の位置にいる。――p.153

音の中心化作用(音の場は、わたしの前方ではなく、わたしを中心にしてそのまわりに広がっているということ)は、人間のコスモス感覚に影響をおよぼす。声の文化にとって、コスモスは、その中心である人間とともに歩むできごとなのである。――p.155

人びとが、コスモスないし宇宙、あるいは「世界」について考えるときに、なにかしら目の前にくり広げられたもののことをまず第一に考えるようになったのは、印刷と、印刷によって可能になった地図を見るという経験が一般に普及してからのことである。――p.156

かつては、重要な決定権が、視覚よりも聴覚にあったのです。

西洋における手書き本の文化は、つねに声の文化をその周縁にもっていた。ミラノのアンブロジウスは、『ルカによる福音書注解』のなかで、かつてのそうした空気をこう書きとめている。「見るものはしばしば人を欺くが、耳で聞くものならまちがいがない」と。――p.245

聴覚優位から視覚優位へと移行したのは、印刷革命の後です。

印刷によって、思考と表現の世界でながく続いていた聴覚の優位は、視覚の優位にとってかわられることになった。視覚の優位は、書くこととともにすでに始まってはいたが、……印刷は、書くことがかつてなした以上に容赦なく、語を空間のなかに位置づける。――p.249

以上、言語学的制約から自由になるために。