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孫泰蔵『冒険の書』にて(教育のアップデート)

今回の記事は、過去の記事「孫泰蔵『冒険の書』にて(能力信仰の始まり)」のつづきです。その「能力」は、西洋的な社会を作るために、必要なフィクションだったのだが、はたしてそれが今後も必要かどうか。

 僕の探究の旅のきっかけとなり、そして今もなお抱き続けているのは、次のような問いです。「社会を良い方向へと向かわせる『くさび』となる一撃をどこに打てばいいのか?」
 それは「教育のアップデート」にあるといろいろと考え始めたのがこの本を書くきっかけとなりました。そこから新たな問いがどんどん生まれ、その問いを自分なりに探っていくうちに、様々な歴史や先人の知見を知り、しかも、どれもお互いに深くからみあっていることに気づきました。そして、そこから旅が自由に展開した結果、このような本になりました。
 米国の作家ダニエル・クインは次のように言っています。

「古いビジョン」と「新しい計画」では世界は救われない。世界を救うのは「新しいビジョン」と「計画の不在」である。(訳は本書の著者)

 旅の良いところは計画のないところです。そのかわりに、ひとたびなにかおもしろいシグナルを見つけたら即、大胆に行動できるようフットワークを軽くしておくことが大事だと思います。僕はそう心がけたことによって、いろいろなことを学び、ワクワクするアイデアに出合えました。

――pp.340-341「おわりに 新しい冒険へ」

 いろいろ書いてきましたが、結局のところ、僕が言いたいことはとてもシンプルです。やりたくもない勉強なんかしなくても、しかめっ面して仕事しなくても、未来のことばっかり考えて不安にならなくても、ただ楽しい遊びをとことん追究すればいいじゃない。
 なにが役に立つかわからないんだから、世の中で良いとされてるものに従わなくても、誰かが決めた評価軸に合わせなくてもいいじゃない。
 自分の好きなことを追究したほうが結局、自分にとってもみんなにとっても役に立つかもしれないよ。子どもを子ども扱いせず、大人を大人扱いせず、なんでも一緒につくって、なんでも分かちあっていけば、きっとうまくいくはず。それで一生を楽しく送れたら、最高じゃない?
 これだけです。それを人は夢想家だと言うかもしれませんが、同じように想ってくれる人はきっと僕一人ではないはずです。

――p.341「おわりに 新しい冒険へ」

学校教育の起源を、国境を越えて探究すると、それが、現代に合わないことがよく分かってきます。AI時代の教育はどうあるべきでしょうか。

以上、言語学的制約から自由になるために。