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もっと自由な非真面目人間に -大学の価値-

私は「もっと自由な非真面目人間になりましょう」というのが、大学の本来の存在意義だと思っています。生まれたままの人間はそれができないから、学問を通じて大学でそれを苦労をしながら学ぶ。卒業時に少しでも自由な人間に成れていたら、それだけで大学には社会において大きな価値があるのだと思います。

「非真面目」とは、人間の尊厳を自分の第一のプリンシプル(生きる原則)とすることです。面白おかしいことを言うことでもなく、また怠惰な生き方をすることでもなく。これからの激動の時代には、真の教養としての非真面目さこそが、特に若い人達に必須だろうと思っています。

右翼の方よりも愛国的で、左翼の方よりも貧しく虐げられた人々に心を寄せる。私欲のために上昇志向を強める社会登山家(social climber)にはならず、また保守派富裕層をただひたすら憎むような「革命家」にもならない。常に広く世界を見続ける。過去の成功体験が基準の進捗にしか目に入らない狭い人間にもならず、自分と人の個性育成が大学の真の目的であることを忘れない。たとえばそういうこと全てが、大学人として身に着けられる非真面目さだと、私は思うのです。大学で1つのイデオロギーに染まるなら、それは間違った大学の時間の過ごし方です。大学は多様な視点を獲得する場なのです。若い皆さんは、そこをしっかりと意識して欲しいとおもいます。

今の若者の中には、未来の「三島由紀夫」も、未来の「全共闘」もいるかもしれません。ただ気象変動等が世界全体を揺さぶり続けるだろう今後の激動の時代に、右だ左だと固い石頭のままでは未来は拓けません。どちらの立場だとしても、自由な非真面目人間に成長して頂きたいと願っております。

これからは様々な国内外の問題で、非常に重い二者択一を、各人が社会から迫られる時代になってくると思われます。この深刻な状況に対する特効薬的な解決策は持ち合わせませんが、東日本大震災や原発事故を経験をしたことで、私にはある想いがあります。

若い皆さんに、もしそういう厳しい選択の場面がこれからあった時には、可能であれば、次のことを脳裏の片隅に置いて頂ければと思うのです。  

どちらの選択にも理があり非がある、そのような究極の二者択一の難問では、個人としては自分の縁や運に従って、自分の目の前に現れた困窮している隣人にこそ手を差し伸べて下さい。そこにはいわゆる「主義」は要りません。人間の尊厳こそが根本だと思うのです。社会や世界全体で支障や矛盾が全く起きない正解というものは、そもそも存在しないのですから。

先が見通せない激動の時代には、そういう縁や運が人生により大きく作用をすることでしょう。そしてとても深刻な二者択一の問題で自分が選ぶ立場は、たいていは自分の意志ではなく、家族や職場、住んでいる地域など、自分が持つ外的なその縁や運だけでほぼ決められてしまうものです。そういう縁や運ならば、それは自分の宿命であり、大きくは変え難いものだと諦めきって、自らそれを受容をして腹を括ることが、後悔なく生きていくコツなのではないかと、私は感じます。自ら選んだ、または縁や運が自分に強要をした、個人個人それぞれのその立場で、非真面目人間として人間の尊厳を精一杯に表現しながら、その中で自分の命を活かしていくことが、一番大切なのではないかと思えるのです。

そして究極の二者択一をさせられた後の各人のそれぞれの立場でも、各人が自由な非真面目人間でさえあれば、意見が鋭く対立する相手とも他の問題では協力できるようになります。そしてそのような立場を超えた様々な協同こそが、この激動後にゆったりと広やかな世界を作ってくれるはずです。

どちらにも理があり非があるような、正解をもたない問題では、対立する相手の意見を無理に変えさせようとせず、相手が置かれている立場を理解し、相手の立場がまずくならないように気を遣う。そして他のテーマではしっかりと協力し合える。そういう自由な非真面目人間が世界中に増えれば、若い皆さんの未来はきっと明るいだろうと思えます。

また普段から「撃つなら撃て!十分に生きた!」と言い切れるような腹の括り方のできる人生の姿勢を年齢に関係なく錬磨してあれば、どんな時でも、自分の内面の精神だけは、自由で居続けます。そしていざという時に、そういう人は九死に一生を得ることさえもできるだろうと、私は思うのです。

特に今後の荒波を生きる若い皆さんには、人間の尊厳の大切さを知っておいて頂けたらと、私は深く願っています。たとえばこのビデオをまだ観たことがない方は、この機会に是非ご覧ください。将来の参考になるかもしれません。

 世界の今後の激動の時代において、タフで、そして人を入れる大きな器の若い世代の育成こそが、各国各地で一番大事です。そのために、まずは一人一人が個人のプリンシプルを構築していく知的作業から始めてみませんか?

それには、成人した大学生、大学院生でも、週に1日くらい理系の勉強から離れて、自分が激動の時代に生きるためのプリンシプル構築と精神的な個の自立を求めて、人文系などの他の分野に関する読書くらいはしたほうが良いと思っています。得た知識も鵜呑みにせず、それを自分の頭で考え直し、再構成し、他の知識とも結合融合させて、自分オリジナルのプリンシプルをコツコツと育てていくのです。

「読書」とは言いましたが、それは文字だらけの本でなくても良く、マンガやアニメでも役に立ちます。考えさせる素材を自分に刺激として与えてくれるものに触れること自体が素晴らしいのです。得られたものを無為に流さず、それを端緒として深くものを考える力を養うことが、自分のプリンシプルを生み出すことに繋がるのだろうと思います。

リアルでは、あの戦争。また「てめぇら、おとぎ話観てんじゃねぇぞ!」「本当の戦士に剣は必要ない。」などのセリフが飛び交うアニメ作品など。たとえばそういうものから、若い皆さんが今どのような哲学、プリンシプルを生み出すのかに、私は関心があります。

オオスズメバチはミツバチの巣だけでなく、時には同種のオオスズメバチの巣まで襲って全滅させ、その巣の幼虫を餌として持ち帰るそうです。弱肉強食の本能のままに生き、各個体は自分がオオスズメバチであることにさえも疑問を持たず死んでいくのですが、人類という種は果たしてどうなのでしょうか。

百年もないだろうこの世界の短い滞在において、後悔のない生き方とは何かと、若い人が考えるのは自然なことですし、むしろ考えておいたほうが良いのが、これからの時代なんですね。プリンシプルは皆さんの生きざまそのものとなるものです。そういうものを、個人個人で確立しておくことはこれからは大事です。

小は家庭内のこと、大は世界情勢のこと、様々な問題が一気に吹き出て、それら全てが自分の日常を巻き込んでいくことも、今後はあり得ますよね。そういう時にこそ、これまで自分が培ってきた哲学、揺らがない背骨としてのプリンシプルというものが大事だろうと、私には思えます。

たとえば第二次大戦の日本の戦後処理で活躍をした白洲次郎も、プリンシプルの背骨が自分にあったからこそ、従順ならざる日本人として、敗戦国側の立場からの難しい交渉を行うことができたのでした。

激動の時代には、良かれ悪しかれ、大きな渦の中で古い観方、価値観がどんどんと力を失っていくものです。そのようなときに、自分はどこに立脚して今後の日々を生きていくのかと、今是非考えを巡らしてください。そして考えるだけでなく、しっかりと心に馴染ませ、自分の血肉に食い込ませて、そしてまずは小さなことからそれを自らの言行に表し、また一人よがりにならないようにその言行を反省内省しながら、そしてプリンシプル自体をアップデートしながら練り上げていく時間を持つことが、多くの皆さんに今一番大切なことだと感じます。大学で学ぶ若い皆さんには、自分独自のプリンシプルというものをしっかりと確立して頂いて、それを自分の背骨とし、精神的な個の自立を体現した非真面目人間へと成長して頂けたらと思います。それには大学の様々な学問と、考え続ける時間とが、きっと皆さんを助けてくれると信じています。

一人の指導教員の劣化コピーになるのではなく、多数の教員や書籍からの影響を受けながら、最後には個の自立をした立派な非真面目人間になって下さいね。頭の固い『真面目人間』とも、怠惰な『不真面目人間』ともオサラバをした、自由な精神を持つ『非真面目人間』に。それこそが大学。つまりユニバシティ(university)というものです。


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