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量子力学と虹色のサイコロと人間原理の沼

以前の投稿でも記載したが、私の主な感心は量子力学の解釈論(哲学)であり物理学ではない。本投稿の内容は、量子力学(スピン)のサイコロを用いたアナロジーによる解説を含んでいるが、量子力学の解説を意図したものではなく、主題は、物理学者でない部外者の立場から物理学の価値観について比較整理することにある(他人の意見だけだと面白くないので私の価値観の表明も多いが)。その点で、本投稿も科学哲学に分類されると私はうれしい。

堀田さんは、最近出版した量子力学の教科書で、次のように書いている(太字は引用者による。)。

確率分布の収縮は古典的な確率分布でも起きるありふれた過程である。例えば不透明な箱の中で振られる古典的なサイコロでは、図7.2のように各目が1/6の確率で出る一様な分布をしている。次に箱を外してサイコロを観測し、3の目が確認されたとしよう。すると図7.3のように各目の確率分布は更新されて、3の目だけが確率1をとり、他の目の確率は零になる。量子状態が測定で変化するのも、この古典的なサイコロの確率分布の更新と本質的に同じであり、特に不思議なことではない。ただし測定機と対象系の間の相互作用によって、その実験で観測していない他の物理量の値が乱される(擾乱を受ける)ことが無視できないのが、量子力学の特徴である。

堀田昌寛. 入門 現代の量子力学 量子情報・量子測定を中心として (KS物理専門書) . 講談社. Kindle Edition.

量子力学の確率も、古典的な無知による確率も本質的に同じであり、違うのは、実験で観測していない他の物理量の値が乱される(擾乱を受ける)ことが無視できるか否かだけが古典論と量子論の違いということである。

虹色のサイコロ

一方で、理論物理学教程ファンさんは、「波動関数の収縮はサイコロの確率が収縮するのとどこが違うのか?」において、次のように書いている。

ワインバーグにとって、問題は、神がサイコロを振るか振らないかではなく、古典確率論で、サイコロを振った後で事後確率分布が変化することでもなく、どんなサイコロを振らせるのか?そのサイコロを用意するのが人間であるというところにあるというわけです。

波動関数の収縮はサイコロの確率が収縮するのとどこが違うのか?

このように、ワインバーグさんにとっては、量子力学の確率は、古典的な確率とは本質的に異なり、その相違点は、「サイコロを用意するのが人間」ということのようである。

これは、

古典物理の場合と違って、(確率を語るためには)何を測定するのか予め選択されていないといけない。なぜなら量子力学ではすべてを同時に測定することはできないからだ。
(中略)
スピンが北と東の両方の方向に正のスピンを持っている確率などと言うのものは議論できないのだ。なぜなら、両方の方向に決まったスピンを持っている電子の状態はないからだ。

波動関数の収縮はサイコロの確率が収縮するのとどこが違うのか?

ということである。スピンだとわかりにくいので、サイコロにたとえてみよう。

通常のサイコロは白色である。これを古典物理の場合としよう。量子力学の場合には、サイコロは7色の虹🌈のようなものである。サイコロの目は、人間がどの色のサイコロとして目を観測するかによってその出現確率が変わってくる。また、一度目が出ても、他の色での目を観測すると(サイコロを振り直さなくても)、確率的にいろいろな目がでる。

さらに不思議なのは、例えば緑のサイコロとして3の目が出て、その後、赤のサイコロとして4の目が出たとしよう。その後、再び緑のサイコロとして目を見ると(観測すると)3が出るとは限らず、確率的に様々な目がでてくる。ワインバーグの「サイコロを用意するのが人間」というのは、この考えだと「サイコロの色を決めるのが人間」ということになる。

こうしたことから、量子力学の確率は古典物理とはまったく異なると考えられるのである。色相環(下図参照)の色の向きがスピンを測る向きだと思えば、色によって出てくる目の値の確率分布が変わることとスピンの測定の間にアナロジーが成立することがわかるだろう。

だからといって、堀田さんの「量子状態が測定で変化するのも、この古典的なサイコロの確率分布の更新と本質的に同じであり、特に不思議なことではない。ただし測定機と対象系の間の相互作用によって、その実験で観測していない他の物理量の値が乱される(擾乱を受ける)ことが無視できないのが、量子力学の特徴である。」が誤っているというわけでもない。色の違うサイコロとして見る(観測する)ということは、他の物理量を測定していることだと考えれば、虹色の量子論的サイコロの現象と堀田さんの説明の間に矛盾はない。

この堀田さんの「他の物理量」という言葉は、私にとってとてもわかりにくかった。異なる方向のスピンだろうが、同じ素粒子のスピンだから、同じ物理量だろうと感じるからである。特にスピンは、角運動量のアナロジーで導入された概念なので、素粒子の位置と運動量が別の物理量と表現されても驚かないが、「異なる方向のスピンは元の方向のスピンとは異なる他の物理量である」と表現されると同じ角運動量だろうととても違和感がある。

しかしよく考えてみれば、運動量と位置は非可換であり、x方向のスピンとy方向のスピンも非可換という意味では、運動量と位置の関係は、異なる方向のスピンの関係と同じである。したがって、位置を測定すると運動量が分からなくなり、運動量を測定すると位置がわからなくなるということを受け入れるのであれば、スピンの方向を少し変えて測定すれば元の方向のスピンの値はわからなくなるというのも受け入れる必要があるだろう。

前述の理論物理学教程ファンさんの「波動関数の収縮はサイコロの確率が収縮するのとどこが違うのか?」によると、ワインバークは「物理的な系の記述というものは一切なく、あるのは観測するときの確率を計算するアルゴリズムだけだというのは耐えられない。」とか「科学の格別に不運な敗北である。」とか「もしかしたら、いつかはこのゴールを放棄しないといけないのかもしれないが、わたしはまだギブアップしたくない。」とか書いている。このように、量子力学は受け入れ難いのであるが、実験に整合的な理論としては堀田さんの説明のとおりであり、「サイコロを用意するのが人間」であることは受け入れなければならないと考えられる。

しかし、私は、堀田さんの

それも実験結果の1つとして認めて、それを原理や公理として据えることに対して、何故強く抵抗をするのかが、私には感覚としても分かりません。たとえば「意識」がないときには、情報理論である量子力学をその人は単に使えないというだけのことです。

フォンノイマン鎖と「意識」

という意見のように、抵抗なく受け入れることには抵抗がある。実験事実からは、現状では諦めて受け入れるしかないかもしれないけれど、それは仕方なく諦めるのでなければならず、心理的な抵抗なく受け入れてはいけないと考える。その理由について少し述べてみたい。

人間原理の沼

抵抗なく受け入れるのが望ましくない第一の理由は、人間原理が物理学を蝕んでいく(人間原理の沼に沈んでいく)懸念があるからである。

人間原理とは、例えば、

問題 なぜ「強い力」は現実のような値をとり、より強い値ではないのですか? 

回答 「強い力」が現実のものより強いと仮定する。仮定と既存の科学理論を合わせて考えると、その宇宙には水分子が生じず、したがって観測者も生じない。しかしこの宇宙は観測者が生じうる宇宙である。ゆえにこの宇宙において「強い力」は仮定するよりも強くない。

人間原理とマルチバースでこの宇宙の不自然さを説明する【哲学】

のような考え方である。「サイコロを用意するのが人間」であることを受け入れることと人間原理はまったく異なると感じる人が多いと思うが、それは、

この世界は、人間の振る舞いを含み他のすべてをコントロールする、脱人間的な物理法則によって支配されている
(中略)
人間と自然との関係を、ただ単に、自然の根源法則と考えているルールの中にもともと入っていると仮定するのではなく、人間を明示的に言及しない法則から演繹したいと思っているのである。

波動関数の収縮はサイコロの確率が収縮するのとどこが違うのか?

という価値観(物理学の目指すところ)をもともと持っていて、量子力学については諦めがついたという状況だからである。諦めたばかりだから、人間原理と「サイコロを用意するのが人間」であることは異なると感じるのである。「人間を明示的に言及しない法則から演繹したい」という希望をまったく持ったことがない状態で

「可能な様々な事象の候補の中から、波動関数で定まるある確率で、ただ1つの事象が選択されて、時々刻々と認知、体験をしていく意識を持った自分は存在している」という前提です。これを実証科学を始めるための1つの公理として認めます。

量子力学は誰のもの?~実在論ではない認識論的な量子力学~

から学び始めれば、その学生にとっては人間原理は物理学全般に躊躇することなく適用して良い考え方だと感じるだろう。それを防ぎたければ、仕方なく諦めて受け入れるのでなければならない。

意識にも人間にも依存しない量子力学理論

第二に、素人の戯言と思って読んでもらえば十分であるが、意識にも人間にも依存しない理論を構築できる可能性がまだあると考えられるからである。サイコロの色を人が決めないといけないことが問題であり、物理理論によりサイコロの色が定まれば問題ないのである。

堀田さんが「量子力学に「観測問題」は存在しない」に書いている「『観測者』は人間でないとダメということはありません。測定器やAIでも量子力学は同じ答えを出します。」というように、これまで人が把握している範囲では、人ではなく測定器がサイコロの色を物理的に決めていると考えても矛盾が生じることはない。そのため、物理的な(人について触れない)公理を設定するだけで良い可能性がある。ただ、その公理を誰もまだ具体的に書き下したことがないというだけである。

物理学者が「可能な様々な事象の候補の中から、波動関数で定まるある確率で、ただ1つの事象が選択されて、時々刻々と認知、体験をしていく意識を持った自分は存在している」を公理に加えようと言っているのに、素人の私が「そんな意識や人を含む公理ではなく、人や意識を含まない物理的な単語だけを含む公理を目指したら良いのでは」、とか「人や意識を含まない物理的な単語だけを含む公理を考えるのを諦めるのはまだ早い」とか言うのは奇妙ではあるが、私はそのように言いたい。人間原理の沼に沈んでいくリスクを受け入れるにはまだまだ早いと思うからである(なお、これは基礎物理学的価値観の私の意見であり、哲学的価値観の私は人間原理ウェルカムである。また、蛇足であるが、量子コンピュータの発展という実利的な目的でもまったく人や意識を含まない物理的な単語だけを含む公理を考える必要はなく、堀田さんのいう認識論的量子力学でいらぬ哲学的なことを考えず技術開発に専念してもらった方が何倍も世の中の役に立つだろう。そういう価値基準もあるだろう。)。

小さいながらマクロな超伝導ループを右回りに最低限の電流が流れる状態と左回りに最低限の電流が流れる状態の重ね合わせ状態を作ることはできる(量子コンピュータはそんなふうに動作する)が、スピンの重ね合わせと異なり、重ね合わせ状態を測定することはできない。このように、マクロな状態においては密度行列の純粋状態への分解の方法は経験則として一つに決まっている。その決まり方のルールを汎用的な法則として書き上げれば(〇〇の場合は〇〇、△△の場合は△△とか装置ごとでは物理理論としては十分でなく汎用的な法則である必要があるだろう。)、量子力学に人とか意識とかを持ち込む必要はない。公理と呼ぶ必要もないと感じるほど物理学者にとって自然な前提(例えば連続で微分可能とか)からユニークな分解が導けるようになるのが最高の将来である。

スピンのように純粋状態への分解の方法が決まっていない物理量もあるので、全ての量子状態の分解の仕方を決める物理法則はないだろう。そのため、素粒子論から設定されるヒルベルト空間$${\mathcal{H}}$$を2つのヒルベルト空間のテンソル積$${\mathcal{H}_C \otimes \mathcal{H}_Q }$$に分解し、密度行列の分解の方法が決まらないQついては部分トレースをとって消してしまうのが良いだろう。つまり、量子状態(密度行列)$${\rho}$$の部分トレース$${\rho_{C}= \mathrm{Tr}_Q \rho}$$のみを対象とするのである。その範囲だけであれば、ユニークな分解を導けるルールを公理として定め、その方法により$${\rho_{C} = \sum_i p_i |\varphi_i\rangle \langle \varphi_i|}$$と分解すれば良い。

ヒルベルト空間$${\mathcal{H}}$$のテンソル積$${\mathcal{H}_C \otimes \mathcal{H}_Q }$$への分解方法も、密度行列$${\rho_{C}}$$の純粋状態への分解方法も、物理学的な単語のみで書けば良いのである。具体的な内容は見当がつかないが、そこに意識や人が出てくる必要がないことは私にもわかる。

ちなみに、テンソル積$${\mathcal{H}_C \otimes \mathcal{H}_Q }$$は、よくある部分系Aと部分系Bの複合系というようなものではない。空間的に分けられるわけでもなく、まったく別の物理量というわけでもない。電子のスピンは(正確にはスピンの一部は)分解が一意でないので$${\mathcal{H}_Q}$$上の物理量であるが、そのスピンも加わってできる(多数の素粒子のスピンの和も含まれる)マクロな磁気モーメントの場は$${\mathcal{H}_C}$$上の物理量であろう。テンソル積$${\mathcal{H}_C \otimes \mathcal{H}_Q }$$への分解は、多粒子の位置を重心の位置と重心からの各粒子の相対位置に分解するようなものだと思われる。

これができたとしても、「射影が起こることは問題ない、射影が真に確率的で隠れた変数で決まっていなくても問題ない、人が射影の起こり方を決めることのみが問題である」と考えている人はほとんどいないために、それが成果として評価されることはないのかもしれない。もしそうであれば、物理学の価値観(ワインバークの物理学の価値観)はあまり普及していないということであり、悲しいことである。

さらにちなみに、本論から外れるが、前述の公理の設定に成功すれば、ハイゼンベルグカットは、$${\mathcal{H}_C}$$の中のどこにおいても良いだろう。すなわち、$${\mathcal{H}_C}$$をさらに空間的に異なる位置にある系(異なる位置にある系なので、今度は通常の意味での部分系である。)のテンソル積$${\mathcal{H}_A \otimes \mathcal{H}_B = \mathcal{H}_C}$$に分解して(通常の言い方では、系$${\mathcal{H}_C}$$を系A系Bの複合系と考えて)、$${\mathcal{H}_A }$$と$${\mathcal{H}_B}$$の境界をハイゼンベルグカットとすることができるだろう。脳が$${\mathcal{H}_B}$$の中にあるとすると、$${\mathcal{H}_A }$$と測定対象系の境界が、最も測定対象系に近いハイゼンカットの位置である。当然であるが、測定対象系を量子的な状態だとすると、それは$${\mathcal{H}_Q}$$に含まれる。

まとめ

本投稿では、量子状態が測定で変化するのは古典的なサイコロの確率分布の更新と本質的に同じで擾乱を受けることだけが異なる(物理学の公理に意識を持つ私を加えて良い)という意見【価値観A】と、「サイコロを用意するのが人間」(何を測定するかを決めるのが人間)であるという点で古典力学と量子力学は本質的に異なる(明示されていないが暗黙的に公理に人(もちろん私も)を含めるのは良くない)という意見【価値観B】があることを説明した。

そして、物理学的価値観においては、筆者は【価値観B】に賛成であることを述べた。その理由して挙げたのは、

第一に、人間原理が物理学に広まっていくリスクを避けることが望ましい。

第二に、純粋に物理的な説明(物理的な用語のみでの公理の設定)を諦める必要はない。

の2つである。

改めて考えてみると、擾乱もサイコロを用意するのが人間であることも、非可換な物理量の測定に関することである。従って、「どう擾乱を起こすかを決めるのが人間であり純粋に物理的に擾乱の内容は決まらない」ことを量子力学の問題(望ましくないこと、物理学の目指す理論と異なるところ)だと考えるか否かが、価値観Aと価値観Bの相違点だと思われる。

擾乱と呼ぶと純粋に物理的な現象のように感じるが、擾乱は射影と本質的に同じであり、長くなるのでここで理由を述べることはしないが、人の意識が関わってはじめて成り立つ現象であろうと私には思われる。擾乱が起こるのは問題ではなく、射影が起こるのは問題だとすると、ダブルスタンダードのように思われる。

しかし一方で、測定器の測定結果に関わる密度行列を純粋に物理的な原理で一意に純粋状態の和に分解する原理があることを諦める必要も現時点ではなく、理論物理学の重要な研究テーマ(問題)であろうと私は思う。4色問題が解けてないかった時代に、それがゆえに数学(位相幾何学)がダメな学問だという意見をいう人などいなかっただろう。このように、4色問題の問題の意味と観測問題の問題の意味は異なると感じる人が多いのは承知しているものの、それでもなお、私は、学問に問題が残っているのは良くないことではないと言いたい。多数の解けていない問題が数学に残っていても問題ないように、観測問題が量子力学に残っていても、物理学が何か良くない状況にあるわけではない。私はそう思う。

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