波動関数の収縮はサイコロの確率が収縮するのとどこが違うのか?
ランダウはボーアの弟子であって、(現代的?)コペンハーゲン解釈に基づく量子力学を信じていたと思ってよいでしょう。量子力学の教科書の第1章に「量子力学は他の物理理論に比べてとても変わった立ち位置を占めている。なぜなら、古典力学を極限の場合に含んでいるが、それと同時にその極限の場合が自身の成立に必要なのである。」とあります。
つまり、ランダウの教科書では、量子力学のルールにボルンの法則として、波動関数から測定結果の確率を読み取るルールを含ませるわけですが、「測定結果の確率」に意味があるのは、古典力学に従う装置、あるいは、より踏み込めば(決定論的に感じる)人間の意識があるからだと言うわけです。
私は、これでいいと思うのですが、コペンハーゲン解釈に反対する人の気持を理解したいとも思っていました。そこで、同じボーアの弟子でありながら、晩年にコペンハーゲン解釈には問題があると主張し続けたワインバーグがどう考えたのか?少しご紹介したいと思います。
まずは、ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス(January 19, 2017)に掲載された、「量子力学の問題」と第するワインバーグの投書から、コペンハーゲン解釈の問題点を述べた部分(これは公式の和訳があるかわかりませんが…)を引用しましょう。ここに出てくる道具主義者とはコペンハーゲン解釈によって、波動関数は実在でなく、測定結果を予言するためだけの道具であると考える立場です。
「道具主義者のアプローチはコペンハーゲン解釈の子孫であるが、ここから先は量子力学で記述されない、という実在(と観測者)に対する境界を想定する代わりに、実在の記述としての量子力学までを否定する。波動関数はやはり存在するが、それは粒子や場のような実在ではない。ただ単に測定が行われたときにいろいろな結果の確率を予言するために使われる道具にすぎない。
わたしには、このアプローチの問題は、単に古代からの科学の目的、つまりいまそこで実際に何が起こっているか描写するとこと、を諦めているだけではないように思われる。このアプローチは、科学の格別に不運な敗北である。道具主義者のアプローチでは、自然界の基本法則として、人間が測定を行ったときにいろいろな結果を得る、その確率を計算するときに、波動関数をどう使うか?という(ボルン則のような)ルールを仮定する必要がある。そのため、もっとも根源的なレベルで「人間」が自然法則に持ち込まれてしまう。量子力学の創始者の一人であるウィグナーの言を借りると、「意識に言及することなく量子力学を完全に無矛盾な形で定式化することはできなかった。」ということなのだ。
それ故、道具主義者のアプローチは、この世界は、人間の振る舞いを含み他のすべてをコントロールする、脱人間的な物理法則によって支配されている、という、ダーウィンの後に可能になった世界観に背を向けることになる。ここで言っていることは、人間について考えることにわたしが異議を唱えているということではない。むしろ、人間と自然との関係を理解したいと思っているのである。人間と自然との関係を、ただ単に、自然の根源法則と考えているルールの中にもともと入っていると仮定するのではなく、人間を明示的に言及しない法則から演繹したいと思っているのである。もしかしたら、いつかはこのゴールを放棄しないといけないのかもしれないが、わたしはまだギブアップしたくない。」
ちなみに、ダーウィン云々は、アメリカでは進化論を教えるか教えないかなど、政治的な問題があるわけで、「進歩的知識人」(とアメリカでは言うのかしら?)に訴えるための雑誌上でのリップサービスだと、わたしは思います。ワインバーグはテキサス大学に属していたことや、同時期に彼は科学史の本を書いていることにも注意しましょう。
さて、ここまでは、ワインバーグのお気持ちの表明なので、まあそうかなあと思うのですが、次の段落はとても面白いです。量子力学が情報理論で何が悪いのだ。波動関数の収縮は古典的な確率の収縮と何も違わないのではないか?と言われることがありますが、そうではない、とワインバーグは言います。ワインバーグは物理の根源法則に確率が現れることを拒否しているのではないのです。ここからが彼の真骨頂です。
「道具主義者のアプローチを受け入れる物理学者の一部から、波動関数から人間が計算する確率は、その人が観測をするかどうかとは独立に存在する客観的な確率である、と主張されることがある。しかし、わたしはこれは筋違いだと思う。量子力学では、これらの確率は、人間が何を測定するのか、例えばスピンのある方向とか別の方向とかを選ぶまでは存在しないからだ。古典物理の場合と違って、(確率を語るためには)何を測定するのか予め選択されていないといけない。なぜなら量子力学ではすべてを同時に測定することはできないからだ。ハイゼンベルグが気づいたように、粒子は同時に確定した位置と確定した速度を持つことはできない。1つを測定するともう1つは測定できない。同じように、1つの電子のスピンを記述する波動関数を知っていたとすると、その電子が、もし北方向のスピンを測定したならば、その方向に正のスピンを持っている確率を計算することができるし、その電子が、もし東方向のスピンを測定したならば、その方向に正のスピンを持っている確率を計算することができるけれど、そのスピンが北と東の両方の方向に正のスピンを持っている確率などと言うのものは議論できないのだ。なぜなら、両方の方向に決まったスピンを持っている電子の状態はないからだ。」
ワインバーグにとって、問題は、神がサイコロを振るか振らないかではなく、古典確率論で、サイコロを振った後で事後確率分布が変化することでもなく、どんなサイコロを振らせるのか?そのサイコロを用意するのが人間であるというところにあるというわけです。
あなたが死んだ後に宇宙はあると信じられますか?波動関数は存在しますか?
ワインバーグの教科書からも彼の魂の叫びを拾ってきましょう。
「物理的な系が、構成している粒子のすべての位置と運動量の数値から記述されることを放棄して、ヒルベルト空間のベクトルで記述されるというのはまだ耐えられる。しかし、物理的な系の記述というものは一切なく、あるのは観測するときの確率を計算するアルゴリズムだけだというのは耐えられない。」
耐えられないの英語は "live up with" です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?