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最近の記事

発想を反転すれば意識が波動関数を収縮させても不思議ではない

物理的に波動関数が収縮する理由がないため、「測定には意識が重要な役割を果たす」という量子力学の解釈が出てくる。Wikipediaでは、 と記載されている。孫引きとなるが、 ということである。この解釈は、 と批判されている。また、 とも批判される。そんな難しいことを言わなくとも、意識が(脳の中のものが)その外の状態を変える力があるというのは、そもそもどう考えてもおかしい(ありえない)。それが大半の自然科学をある程度習得した人の当たり前の意見であろうと思う。 収縮は認知

    • 古典的ノイマン鎖の最初は最後と同等に特別である

      通常、ノイマン鎖の議論は、小澤さんが と書いているように、ハイゼンベルグカットを鎖のどこまでも後ろに持ってくることができて、どこかで射影が起こったとすることができないという話になる。 ところで、人の活動は古典力学に従っているし、実験装置もそうであるから、ノイマン鎖の後ろの方(脳に近い方)は、古典力学に従っている。この古典力学に従っている鎖のどこかで射影が起こる理由はない(理由を思いついた人がいない)ので、無限後退して、射影が起こるのは鎖の終わりの先にある意識のためだという

      • 反事実的条件法と多世界解釈

        私の関心は、量子力学の解釈論である。これは、コペンハーゲン解釈と多世界解釈どちらが正しいのかとか、より正しい解釈は何かとかいうものでは必ずしもない。解釈の正しさは実験では確認できないのだから(実験で確認できるならそもそも解釈ではなく科学的な理論・モデルと呼ぶべきであろうから)、正しいとか正しくないとかという判断基準には、解釈論にはなじまない。 量子力学は、我々の日常の経験とは異なる結果をもたらすものであるから、我々が日常的に使う言葉で量子力学を表すことはそもそもできるはずも

        • マクロな混合状態の純粋状態への一意な分解について

          以前の投稿「重ね合わせ電圧電池」において、「物理的には、$${|🥎\rangle_\text{P}}$$と$${|◯\rangle_\text{P}}$$を特別視して、$${\frac{1}{\sqrt{2}} |🥎\rangle_ {\text{P}} + \frac{e^{i\theta}}{\sqrt{2}} |◯\rangle_{\text{P}}}$$とは異なる特別な状態と考える理由はないのである。」と書いた。その補足を少し書いておきたい。 ボール全体ではなく、位

        発想を反転すれば意識が波動関数を収縮させても不思議ではない

          重ね合わせ電圧電池

          何度か書いているが、私の主な感心は実験との整合性では白黒のつくことのない量子力学の解釈論(哲学、形而上学)である。 本稿では、量子力学の解釈論を検討する上での参考に、2つの値の電圧の重ね合わせ状態になる電池が開発されたと考えることにしよう。その電池の状態を $$ \frac{1}{\sqrt{2}} | E_1 \rangle_{\mathrm{B}} + \frac{1}{\sqrt{2}} | E_2 \rangle _{\mathrm{B}} $$ とする。ここで

          重ね合わせ電圧電池

          「エンタングルメントにまつわる本当の不思議さ」への回答

          下記の投稿を拝読した。 質問があったので、専門家ではないので自分の勉強も兼ねて、新たな疑問が生まれるだけのように思われるが、簡単に回答を書いてみたい(勉強も兼ねてなので間違っているかもしれません。)。(※簡単にと思って書き始めたものの、結局それなりに長くわかりにくくなってしまいました。) ■分からない点①:「粒子が二つに分かれる?」 「「これ以上分割できない最小単位の素粒子」を扱っているのに、二つに分かれるってどういう事??」かといえば、そもそも素粒子論は、素粒子の生成

          「エンタングルメントにまつわる本当の不思議さ」への回答

          哲学的実在論

          宮国さんの「『超越論的現象学的な自我」』は幻想」の前文(目次の前の部分)を読んだ(目次以降はまだ読んでいない)。 も もまったくその通りだと思うのであるが、 とは限らないのではないかと感じた。 科学哲学には、科学的実在論という考えがある。これは、 である。これと同じように「哲学において措定される直接経験されない認識が存在する」と考えることもできると思うのである。私はこれを、哲学的実在論と呼びたい。 後付けで想定されるに過ぎないものを実在するかのようの語ってはいけな

          哲学的実在論

          Neumannの物心並行論( psychophysical parallelism )は性質二元論( Property Dualism )?

          Neumannは、Mathematical Foundations of Quantum Mechanicsにおいて、 と書いており、物心並行論(psycho-physical parallelism)が正しいと考えていたようである。しかし、Neumannが考えていた物心平行論(psycho-physical parallelism)は、Wikipediaに心身並行説(Psycho-Physical Parallelism)として説明のある ではなく、性質二元論(Prop

          Neumannの物心並行論( psychophysical parallelism )は性質二元論( Property Dualism )?

          科学哲学とは

          カピ哲!さんの「言葉の意味は脳科学(における実験)が成立するための前提である」を読んだのであるが、個人的な感想としては、科学哲学とは、Wikipediaに書いてあるように であり、 ことではないだろうと感じた。「言葉の意味は脳科学(における実験)が成立するための前提である」はそのとおりだと思った。 だとすると、科学哲学は哲学ではなく、どちらかというと社会学であろうと私は思う。科学は、「科学者が考えていること」であり、科学者の思考を一種の文化だと考えれば、文化人類学に近い

          科学哲学とは

          物理学の内容とは無関係に行なうことができる数学

          山口さんの をすこし読んだ。哲学的議論を物理学の個別的な内容とは無関係に行なうことができるという意見には同感なのだが、その理由として示された は言い過ぎのような気がするので、山口さんが言いたかったことを誤解している可能性もあるが、備忘として書いておきたい。 量子力学 一般的に分配律は論理法則だと思われていると思うのだが、量子力学では成り立たないことが知られている。wikipediaには と記載されている。これは、「この世界の物理的側面がどのようなあり方をしていようと

          物理学の内容とは無関係に行なうことができる数学

          シュレディンガーの被告抗弁ー認識論的な量子力学と応報刑論ー

          現実のサイコロの目も重ね合わせ状態になる 電子のスピンとかとは異なり、現実のサイコロの目については、 というのが普通の科学的な考えだと思われる。しかし、これは誤っていると私は思う。 サイコロが左右のどちらに傾くか五分五分の確率になるように着地した際、その先端の(着地点)の原子・分子の位置は確定しておらず、異なる位置の重ね合わせ状態だろう。したがって、左右のどちらに傾くか決まっておらず、重ね合わせの状態にサイコロはなると考えられる。机からの反射の力も原子・分子の位置により

          シュレディンガーの被告抗弁ー認識論的な量子力学と応報刑論ー

          数式は言葉だから哲学を述べるにも数式は役立つはず

          kasatateさんの と を読んだ。「数式に使われる記号は略記としてできた、つまり数式というのは意味のある文章と言え」「抽象化するから抽象的な内容を表す文章として最適なのである」にまったく同感である。 そのような考えで、哲学も抽象的な思考だから、心の哲学を数式を使って、 を書いた。書く前からわかりきったことであるが、哲学を数式で書くと、読める人が少ないという問題がある。しかし、同じことを言葉で書くと、長くなりすぎてこれもまた理解できないように思われる。写像・関数をわ

          数式は言葉だから哲学を述べるにも数式は役立つはず

          量子力学と虹色のサイコロと人間原理の沼

          以前の投稿でも記載したが、私の主な感心は量子力学の解釈論(哲学)であり物理学ではない。本投稿の内容は、量子力学(スピン)のサイコロを用いたアナロジーによる解説を含んでいるが、量子力学の解説を意図したものではなく、主題は、物理学者でない部外者の立場から物理学の価値観について比較整理することにある(他人の意見だけだと面白くないので私の価値観の表明も多いが)。その点で、本投稿も科学哲学に分類されると私はうれしい。 堀田さんは、最近出版した量子力学の教科書で、次のように書いている(

          量子力学と虹色のサイコロと人間原理の沼

          充足理由律の誤謬

          カピ哲!さんの下記の投稿 を読んで、哲学には古代から、充足理由律 が成り立つという誤った考えが広く行き渡っていて改善して行くべきではないかと以前に思ったことがあったことを思い出した。(終わり)

          充足理由律の誤謬

          異射影星人と多世界解釈

          先日、時間反転星に住む宇宙人について書いたので、今回は、異射影星人について書いてみたい。 異射影星とは 時間反転星が、地球に対して時間が反転している星であるのに対して、異射影星は、地球人とは観測時の射影の起こり方が異なる宇宙人が住んでいる星である。簡単のために2準位系のみとし、実験結果として、地球人にとってAかBの実験結果を示す実験装置を考えよう。すなわち、実験後に実験装置は、 $$ \alpha | A \rangle + \beta | B \rangle $$

          異射影星人と多世界解釈

          時間反転星宇宙人の密度行列を測定する時

          堀田さんが、地球人が時間反転星に住む宇宙人に会う場合の考察「ある1つの時間の矢のパラドックス ~時間反転星に地球から宇宙船が到着する時~」を書いていた。量子論の場合にも触れているので「そうした考察は初めてだ」と思って感激したのだが、実際に読むと「この量子力学の問題も、まだ解かれていません。」だけでほとんど内容がなかったので、私の思うところを書いておきたい。なお、他の記事と同様に私の書くことに、特段の物理学的な根拠があるわけではありません。 量子論の場合 量子論の場合に古典

          時間反転星宇宙人の密度行列を測定する時