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観測における状態ベクトルや波動関数の収縮は、観測者にとっての単なる情報取得による変化なのだろうか?

堀田さんは、「波動関数や状態ベクトルの収縮は、測定によって得られた系の情報に基づいた、物理量の確率分布の単なる更新に過ぎません。その意味で、観測によって古典的なサイコロの目の確率分布が更新されて、特定の目に分布が収縮をするのと本質的な違いはないのです。」というのだが、私には疑問に感じるので、少し書いておきたい。 x方向のスピン$${\sigma_x}$$を測定すると、1/2か-1/2が得られる。その状態のy方向のスピン$${\sigma_y}$$を測定すると、1/2か-1/

    • 「擾乱の存在のために、量子力学における測定による変化は、単なる情報取得による変化とは考えられないのか?」を読んで

      堀田さんの「擾乱の存在のために、量子力学における測定による変化は、単なる情報取得による変化とは考えられないのか?」を読んで、疑問に思うことが多々あったので、少し備忘として書いておきたい。(新しい知識を学習できたら解消することを期待したい。) 1つめ 原理的に下限のない古典力学における測定の影響と下限がある量子力学での擾乱は、下限があるかどうかという点で(それが擾乱という概念の本質であるために、本質的に)違うものであり、古典論における測定の影響を擾乱と表現することは堀田さん

      • 「古典確率とフォンノイマン鎖の『意識』の話」において書き足りていないと思われること

        堀田さんの「古典確率とフォンノイマン鎖の『意識』の話」読んで感じたことをもう一点書いて起きたいと思う。それは、堀田さんが書き忘れているだろうと思われることです。 堀田さんは、 と書いているのですが、単に違っているだけではいけません。何か人類に共通する普遍的なことがあって初めて客観的な科学的な知見となりえるのです。堀田さんは違ってもいいとしか書いておらず、科学として成立するには違わないことが必要なことを書き忘れていると思われます。 の記載についても同様です。 も同じです

        • 「量子力学は情報理論」について

          堀田さんの「古典確率とフォンノイマン鎖の『意識』の話」を読んだ。堀田さんは繰り返し「量子力学は情報理論である」と述べているのだが、私にはその意味するところがずっとよくわからないでいた。今回、「古典確率とフォンノイマン鎖の『意識』の話」を読んで、その投稿の内容とはまるで関係ないのだが、ふと、量子力学は情報理論」とは、“Shut up and Calculate as information theory!” ではないかと思った。これなら、とても良くわかり、全くその通りだとも腑に

        観測における状態ベクトルや波動関数の収縮は、観測者にとっての単なる情報取得による変化なのだろうか?

          異なる温度の状態の重ね合わせ状態および時間反転対称性とエントロピーの増大則の整合性

          異なる温度の重ね合わせ特定温度の量子状態 SugiuraさんとShimizuさんの“Canonical Thermal Pure Quantum State”に倣い、$${\lambda = \Theta(1)}$$として、次元$${\lambda^N}$$のヒルベルト空間$${\mathcal{H}_N}$$を考えよう。ヒルベルト空間$${\mathcal{H}_N}$$の任意の正規直交基底を$${\{| i \rangle \}_i}$$とする。ランダムに$${\sum

          異なる温度の状態の重ね合わせ状態および時間反転対称性とエントロピーの増大則の整合性

          発想を反転すれば意識が波動関数を収縮させても不思議ではない

          物理的に波動関数が収縮する理由がないため、「測定には意識が重要な役割を果たす」という量子力学の解釈が出てくる。Wikipediaでは、 と記載されている。孫引きとなるが、 ということである。この解釈は、 と批判されている。また、 とも批判される。そんな難しいことを言わなくとも、意識が(脳の中のものが)その外の状態を変える力があるというのは、そもそもどう考えてもおかしい(ありえない)。それが大半の自然科学をある程度習得した人の当たり前の意見であろうと思う。 収縮は認知

          発想を反転すれば意識が波動関数を収縮させても不思議ではない

          古典的ノイマン鎖の最初は最後と同等に特別である

          通常、ノイマン鎖の議論は、小澤さんが と書いているように、ハイゼンベルグカットを鎖のどこまでも後ろに持ってくることができて、どこかで射影が起こったとすることができないという話になる。 ところで、人の活動は古典力学に従っているし、実験装置もそうであるから、ノイマン鎖の後ろの方(脳に近い方)は、古典力学に従っている。この古典力学に従っている鎖のどこかで射影が起こる理由はない(理由を思いついた人がいない)ので、無限後退して、射影が起こるのは鎖の終わりの先にある意識のためだという

          古典的ノイマン鎖の最初は最後と同等に特別である

          反事実的条件法と多世界解釈

          私の関心は、量子力学の解釈論である。これは、コペンハーゲン解釈と多世界解釈どちらが正しいのかとか、より正しい解釈は何かとかいうものでは必ずしもない。解釈の正しさは実験では確認できないのだから(実験で確認できるならそもそも解釈ではなく科学的な理論・モデルと呼ぶべきであろうから)、正しいとか正しくないとかという判断基準には、解釈論にはなじまない。 量子力学は、我々の日常の経験とは異なる結果をもたらすものであるから、我々が日常的に使う言葉で量子力学を表すことはそもそもできるはずも

          反事実的条件法と多世界解釈

          マクロな混合状態の純粋状態への一意な分解について

          以前の投稿「重ね合わせ電圧電池」において、「物理的には、$${|🥎\rangle_\text{P}}$$と$${|◯\rangle_\text{P}}$$を特別視して、$${\frac{1}{\sqrt{2}} |🥎\rangle_ {\text{P}} + \frac{e^{i\theta}}{\sqrt{2}} |◯\rangle_{\text{P}}}$$とは異なる特別な状態と考える理由はないのである。」と書いた。その補足を少し書いておきたい。 ボール全体ではなく、位

          マクロな混合状態の純粋状態への一意な分解について

          重ね合わせ電圧電池

          何度か書いているが、私の主な感心は実験との整合性では白黒のつくことのない量子力学の解釈論(哲学、形而上学)である。 本稿では、量子力学の解釈論を検討する上での参考に、2つの値の電圧の重ね合わせ状態になる電池が開発されたと考えることにしよう。その電池の状態を $$ \frac{1}{\sqrt{2}} | E_1 \rangle_{\mathrm{B}} + \frac{1}{\sqrt{2}} | E_2 \rangle _{\mathrm{B}} $$ とする。ここで

          重ね合わせ電圧電池

          「エンタングルメントにまつわる本当の不思議さ」への回答

          下記の投稿を拝読した。 質問があったので、専門家ではないので自分の勉強も兼ねて、新たな疑問が生まれるだけのように思われるが、簡単に回答を書いてみたい(勉強も兼ねてなので間違っているかもしれません。)。(※簡単にと思って書き始めたものの、結局それなりに長くわかりにくくなってしまいました。) ■分からない点①:「粒子が二つに分かれる?」 「「これ以上分割できない最小単位の素粒子」を扱っているのに、二つに分かれるってどういう事??」かといえば、そもそも素粒子論は、素粒子の生成

          「エンタングルメントにまつわる本当の不思議さ」への回答

          哲学的実在論

          宮国さんの「『超越論的現象学的な自我」』は幻想」の前文(目次の前の部分)を読んだ(目次以降はまだ読んでいない)。 も もまったくその通りだと思うのであるが、 とは限らないのではないかと感じた。 科学哲学には、科学的実在論という考えがある。これは、 である。これと同じように「哲学において措定される直接経験されない認識が存在する」と考えることもできると思うのである。私はこれを、哲学的実在論と呼びたい。 後付けで想定されるに過ぎないものを実在するかのようの語ってはいけな

          Neumannの物心並行論( psychophysical parallelism )は性質二元論( Property Dualism )?

          Neumannは、Mathematical Foundations of Quantum Mechanicsにおいて、 と書いており、物心並行論(psycho-physical parallelism)が正しいと考えていたようである。しかし、Neumannが考えていた物心平行論(psycho-physical parallelism)は、Wikipediaに心身並行説(Psycho-Physical Parallelism)として説明のある ではなく、性質二元論(Prop

          Neumannの物心並行論( psychophysical parallelism )は性質二元論( Property Dualism )?

          科学哲学とは

          カピ哲!さんの「言葉の意味は脳科学(における実験)が成立するための前提である」を読んだのであるが、個人的な感想としては、科学哲学とは、Wikipediaに書いてあるように であり、 ことではないだろうと感じた。「言葉の意味は脳科学(における実験)が成立するための前提である」はそのとおりだと思った。 だとすると、科学哲学は哲学ではなく、どちらかというと社会学であろうと私は思う。科学は、「科学者が考えていること」であり、科学者の思考を一種の文化だと考えれば、文化人類学に近い

          物理学の内容とは無関係に行なうことができる数学

          山口さんの をすこし読んだ。哲学的議論を物理学の個別的な内容とは無関係に行なうことができるという意見には同感なのだが、その理由として示された は言い過ぎのような気がするので、山口さんが言いたかったことを誤解している可能性もあるが、備忘として書いておきたい。 量子力学 一般的に分配律は論理法則だと思われていると思うのだが、量子力学では成り立たないことが知られている。wikipediaには と記載されている。これは、「この世界の物理的側面がどのようなあり方をしていようと

          物理学の内容とは無関係に行なうことができる数学

          シュレディンガーの被告抗弁ー認識論的な量子力学と応報刑論ー

          現実のサイコロの目も重ね合わせ状態になる 電子のスピンとかとは異なり、現実のサイコロの目については、 というのが普通の科学的な考えだと思われる。しかし、これは誤っていると私は思う。 サイコロが左右のどちらに傾くか五分五分の確率になるように着地した際、その先端の(着地点)の原子・分子の位置は確定しておらず、異なる位置の重ね合わせ状態だろう。したがって、左右のどちらに傾くか決まっておらず、重ね合わせの状態にサイコロはなると考えられる。机からの反射の力も原子・分子の位置により

          シュレディンガーの被告抗弁ー認識論的な量子力学と応報刑論ー