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💟第12話 聖護院の学び舎-恩師中根正親先生


🟡聖護院の学び舎・両洋りょうよう学院

三浦芳聖は、大正7年(1918年)4月8日、京都市左京区聖護院西町にあった両洋学院の中学科4年に入学しました。

両洋学院は、それまで京都正則せいそく予備校という名称でしたが、大正7年(1918年)4月、「東西両洋文明の融和ゆうわ体得者たいとくしゃの育成」を校是こうぜにするという中根正親なかねまさちか学長の発案で「両洋学院」と改称されました。

芳聖の入学当時、両洋学院中学部は、旧帝国大学への正則予備校(旧制中学校の正式認可校ではない)でしたが、安楽寺の富永慶法老師が芳聖に課した上級学校に進学する条件「中学を2年で終える」を達成するために神々が用意した唯一の学び舎でした。

富永慶法老師が課した条件のお蔭で、芳聖は両洋学院中学科に入学する以外の選択肢は有りませんでした。大正7年(1918年)当時、3月15日に上洛して、中学4年に編入できる学校は両洋学院のほかに無かったのです。

京都市左京区聖護院(地図マピオン)

聖護院は、り育てる学院という意味で、天照大御神の教導計画に基づき、大御神の御子 芳聖の学び舎を設けるために、神々が長年月を掛けて用意した地名なのです。(神風串呂史観)

🟠志学の神風串呂
志学与位-卍嵯峨天竜寺-聖護院-尊良親王御陵-卍伝正院(太子堂)

また両洋学院という国際的な校名は、芳聖のために命名された校名だといってもよいと思います。芳聖は、両洋学院の第一期生なのです。

💟こうした事を思えば、心憎いほどの教導計画により、三浦芳聖は中根正親校長の経営する聖護院の両洋学院に入学するよう仕組まれていたのです。

三浦芳聖は、大正7年(1918年)4月から大正9年(1920年)3月までの2年間、この聖護院にあった両洋学院で学び、卒業後の3年間は、仏教専門学校に通学の傍ら、両洋学院の英語講師として、あるいは学生演劇の名優として、熱血校長「中根正親先生」の慈愛に満ちた訓育に預かり、天賦の才能を開花させる事が出来ました。

三浦芳聖伝 8、京都の学生時代(2)

🟠両洋学院のその後の歩み
大正11年(1922年)京都市中京区壬生上大竹町13番地に移転
大正14年(1925年)旧制中学校として認可を受け両洋中学校を開設
昭和26年(1951年)、学校法人両洋学園設立 両洋高等学校
昭和62年(1987年)、京都両洋高等学校と校名変更

学校法人両洋学園(京都市中京区壬生上大竹町13番地)

🟡天才熱血校長・中根正親先生

両洋学院に入学した芳聖は、そこで中根正親校長という教育者に出会いました。中根正親校長は両洋学院の創立者で、学院長(学校長)でありながら自ら率先して教鞭をとる熱血教師でした。

(『中根正親先生回想録』巻頭写真、1986年出版)

中根正親校長は、大正3年(1914年)、満23才という若さで、日本で初めて話すスピードで書ける「中根式速記法」を創案した天才で、日本の速記史にその名を残す人間国宝級の偉人でした。

ところが、中根正親校長は、「速記の普及」は弟にまかせて、教育界に転進し、「教育法の速記」というか、記憶法や学習法などのユニークな教授法の研究に没頭し、後に「要体教育ようたいきょういく」と呼ばれる独特の新教授法を創案しました。

中根正親校長は、大正4年(1915年)に京都市左京区聖護院に「京都正則予備校」を開設し、昭和58年(1983年)5月、病気で入院し退職するまでのおよそ70年間、終始学校長として活躍し、また生涯ユニークな新教授法の研究に精進しました。そのため、昭和41年(1966年)11月、京都新聞五大賞第一回教育賞の栄誉に輝きました。

芳聖は、両洋学院の第一期生として、この偉大なる教育者「中根正親校長」のもとで、今の学校とは一味も二味も違う、少人数教育による、きめ細かい訓育を受けることが出来ました。

大正7年(1918年)当時、中根正親校長は、29才の若さで、教育こそ吾がいのちと、はりきって教育活動に邁進まいしんしていました。

中根正親校長は優秀な芳聖を特別に愛し、厳しいお寺の生活でこおりかけ、やや萎縮いしゅくしていたであろう芳聖の心に、肉親ですら到底及ばぬ、暖かい愛のそよ風を吹き込んで、豊かな人格形成を可能ならしめたのです。

三浦芳聖の著書から引用します。

私(注、三浦芳聖)は苦学していて昼食を食べるだけの余裕がないので、昼食の時間に運動場に出て待っていると、そこへ「中根正親先生」が廻って来られて、「三浦はなぜご飯を食べないのか」「はい、私は二食にじき主義であります。」「そうじゃないだろう。お前は調べて見ると苦学をしている。二食主義じゃない。食べられないのだろう。よし、明日から俺のパンを半斤はんきんやるから食べなさい。」と言われて中学四年の時、まる一年間この「中根先生」がパン半斤をお与え下さいました。
 
そして五年の時には、アルバイト(注、学習塾)を御斡旋ごあっせん下されましたので、もう新聞配達もせずに、その月謝で私は無事卒業することが出来たのであります。それから更に先生のお蔭で、私は英語の教師をしながら専門学校を卒業することが出来ました。実に私にとって大恩師であり、しかも大恩人であります。だから時々先生を御訪問して謦咳けいがいに接してきたのであります。
(三浦芳聖著『神風串呂』159号17~18頁、1969年2月28日発行)

長崎県出身の中根正親校長の遠祖「中根正恒なかねまさつね」は、三方原合戦の勇士で、愛知県額田ぬかた箱柳はこやなぎ村(現岡崎市箱柳町)に住んでいた事が、歴史家の研究によって明らかになっています。(『中根正親先生回想録』26頁、1986年)

昭和46年(1971年)に帰幽した三浦芳聖は、上記の歴史を知りませんでしたが、中根正親校長の先祖は、大宝天皇から出ていると串呂で解明しています。

💟天照大御神の御子教導計画に基づく神謀援慮しんぼうえんりょにより、三浦芳聖の学び舎は中根正親校長の経営する聖護院の両洋学院と決定されていたのです。中根正親校長は三浦芳聖の為に、この世に派遣された教育者だったのです。

💟第13話 仏教専門学校に進学-古今東西の宗教哲学を研鑚
🟢天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録

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