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南朝正統皇位継承論7-三河吉野朝の伝説3(寛成親王降誕)

三河吉野朝の伝説3(寛成親王降誕)

(1)寛成親王降誕

山口保吉著『三河吉野朝の研究』及び『芳花鶴水園の聖地』に依ると、吉野朝第98代長慶天皇は、三河吉野朝の新宮殿建設中の義良天皇(吉野朝第97代後村上院)の行宮であった三河多賀の里小畑(蒲郡市相良町小畑ケ)に於て降誕になったと述べられています(小畑ケは北畠から来ている)。

相良町小畑ヶ

そして相良町丹野(たんの)という地名は、降誕(たん)を祈念して名付けられた地名だと云うのです。誕生の地という意味です。丹頂鶴の丹で祝賀という意味もあったかと思います。

画像3

寛成親王の降誕日は、「青木文献」に「康永壬午元年八月十三日」と記されてあります。南朝の興国3年、西暦では1342年です。

また、「青木文献」には、寛成親王(長慶院)は、「五井美吉原、隠沢城口全柵、天皇山明燈院」(豊川市御油町西沢)にて降誕になり、6歳の時まで住んでおられ、明燈院の細川貞海和尚と共に吉野に上り皇太子に就任されたと記されています。(明燈院は現在の⛩御油神社のあるところです。)

青木文献(別名千種文献)とは、愛知県豊川市御油町欠間の中西家に伝わる、南朝忠臣千種忠顕の子孫「青木平馬」が、応永30年(1423年)と31年(1424年)に書き残した覚え書の事です。(『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』中西久次郎・家田富貴男/1940年)

御油神社

赤松氏三女玉己寛成王子母五井美吉原隠沢城口全柵天皇山明燈院明頓院二寺有明燈院於玉己女寛成王子生給康永壬午元年八月十三日隠沢於御年六歳迄居城明燈院細川貞海和尚共吉野上太子位就給数年後吉野宮下三洲御所宮在位覚理法皇成望理原於明燈院移錦門御堂住給東西四百五十間南北五百三十間王地南檜殿北長勝寺西高前寺東馬込殿成(「青木文献」原文)

寛成親王の母親は、「赤松氏三女玉己寛成王子母」と出ています。三浦芳聖は、〔長慶院寛成親王の御母は「二条関白の女」となっていますが、実際は赤松氏範の女であります・・・〕と述べています。
 (三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』279頁)

寛成親王が、三河御所宮に来られた時期については、正平11年(1356年)以後としています。(『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』)

その理由は、寛成親王は、正平6年(1351年)正月、9才の時、甲斐の隠城に、尉衛吉見頼武侍講菅原為通外十士を従えて御潜行。到る正平11年(1356年)まで御駐蹄されていたからです。(五條文書)

寛成親王は御年九才におはします正平六年正月、甲斐の隠城に、尉衛吉見頼武侍講菅原為通外十士を従へて御潜行あらせ給ふ。其れより正平十一年正月まで御駐蹄あらせらる。(五條文書)

数えの9才から14才まで甲斐の隠城(富士谷御所)で養育されたと云うのです。ここから、この当時、富士谷御所が南朝の最上の文教地区であった事が窺われます。興国3(1342)年生れの計算では10才から15才です。

私は、上記の五條文書から、寛成親王は正平六年正月には既に皇太子に就任していた。そして、次期吉野朝の天皇になる皇太子をなぜ富士谷で養育したかについては、正統の天皇は富士谷御所を根拠地として活躍中の興国天皇であり、後醍醐天皇から継承した神器は富士谷にあることを教育する為であったと考えます。

(2)寛成親王即位

正平23(1368)年3月11日、後村上天皇崩御の後、寛成親王は吉野朝第98代の天皇に即位されました(27才)。

藤原石山氏は三河で降誕した親王が即位される事が決まった正平22(1367)年、三河では国を挙げて祝賀し、北陸朝廷の皇位継承者・小室門院元子内親王を迎え、天照太神の再現と考え、弥勒菩薩の出現と尊崇して、この年を弥勒元年と称したと述べています。

藤原石山氏は小室門院を尊良親王の皇女としていますが、三浦芳聖は守永親王(興国天皇)の皇女と述べています。

正平二十二年吉野の後村上天皇御不予となられ、寛成親王が皇位に即くこととなった。寛成親王は三河で御降誕になった皇子で、三河の南朝方はこの皇子の即位を国を挙げて寿ぎ奉った。また尊良親王〔守永親王〕の皇女の小室門院元子内親王を迎え、天照太神の御再現と考え、弥勒菩薩の御出現と尊崇してこの年を三河では弥勒元年と称した。
 (藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』52頁、〔 〕内編集者)

又、『ウィキペディア』後村上天皇の脚注7に、下記の記事が出ています。

〔八代国治とともに長慶天皇即位確定に大きな役割を果たした武田祐吉は、『新葉和歌集』が「後醍醐天皇」「後村上院」と記していることを指摘して、後村上天皇が生前に譲位して上皇となっていた可能性を指摘している(「長慶天皇を仰ぎ奉りて」 『武田祐吉著作集 第8巻 文学史・歌物語篇』 角川書店、1973年。初出は1917年)〕

藤原石山氏の考察と、上記の記事から考察すると、寛成親王が即位されたのは、正平22(1367)弥勒元年であった可能性があります。国を挙げてお祝いしたという状況から、その様に考える方が合理的です。

また、小室門院元子内親王を三河にお迎えした時期については、興良親王が虜われの身となった文中2年(1373年)以後、あるいは興良親王が崩御された天授元年(1375年)以後と考える方が合理的です。

また、「青木文献」には、寛成親王(長慶院)は、吉野で皇太子に就任した数年後に吉野宮から三河御所宮(御津町御馬長床、下佐脇御所)に来られてお住まいになられたと記録されています。

  「数年後、吉野宮から下り三洲御所宮に在位」(青木文献)

山口保吉著『三河吉野朝の研究』には「御津町御馬長床」が三河吉野朝の御所のあった所と記されてあります(地元の口碑・伝承)。

長床御所1

三河吉野朝「御津府」の痕跡を残す地名「御所」「都橋」「御馬」「玉袋」「玉袋橋」「剣(つるぎ)」「加美(かがみ)」「天神」が見られる豊川市御津町御馬長床、下佐脇一帯の地図(クリックで大きな地図になります)。

この他、御津町下佐脇「都」御津町佐脇神社摂社「御所宮」「剣橋」「御堂山」御津町下佐脇「院田」国府町仙路御津町下佐脇羽鳥御津町赤根「神場」御津町「大草」御津町広石「日暮」、などがあります。

(3)仙洞御所(王田殿)建設

正平23年(1368年)長慶院法皇には、吉野の朝廷を皇弟熈成親王(後亀山天皇)に委ね、三河に移り南朝正統の皇子を守護することに専念せらるることになった。後醍醐天皇の皇女の懽子内親王も来国し、三河吉野朝の基礎は確立する事となった(後略)。
 (藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』2頁)

天授2(1376)年、長慶院法皇、望理郷に王田殿建設(藤原石山)

寛成天皇は、覚理法皇となられ明燈院を望理原に移し錦門御堂(王田殿)にお住まいになられました。その王田殿は、東西450間(814.5m)、南北530間(959.3m)、王地の南に檜殿があり、北には長勝寺、西には高前寺、東は馬込殿が建立されたと出ています。(青木文献)

覚理法皇と成り、望理原に、明燈院を移し錦門御堂に住み給う。東西四百五十間、南北五百三十間、王地南檜殿、北長勝寺、西高前寺、東馬込殿なり(「青木文献」原文漢字のみ)

下記写真は、王田殿内に建立された阿弥陀堂(大日堂)

王田殿念仏堂白黒

(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』40-4頁、大恩寺の境内所在の阿弥陀堂、平成6年焼失、『三河吉野朝の研究』には「大日堂」とある)

寛成親王(長慶院)の年表
興国3(1342)壬午年8月13日、明燈院で降誕(青木文献)
正平2(1347)年、6才の時、吉野へ上がる(青木文献)
正平6(1351)年正月、甲斐の隠城に潜行(五條文書)10才
正平23(1368)年3月11日、即位27才(南朝紹運図)
文中2(1373)年4月、熈成親王に譲位(後太平記)32才
文中3(1374)年1月21日、熈成親王に譲位(長慶天皇紀略)33才
天授2(1376)年、望理郷に王田殿建設(藤原石山)35才

文中三年(一三七四)三河では寛成親王を迎え、遺臣達が結集して正統の皇女小室門院を奉じ、松良親王を皇太子とし寛成親王が摂政(後見役、養父)となられ、懽子内親王を迎え南朝再興のため、三河吉野朝の基礎を開いた。天授二年(一三七六、弥勒十年)丙辰年望理郷の王田殿を建立して御馬下佐脇付近の御所宮からこの地に移った。
  (藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』53頁)

古本大系図

古本大系図の「寛成親王、南方に於て自立、長慶院と号す」の意味が、藤原石山氏の上記の解説でよく理解できます。自立登極とは、本人自身の意思で天皇位に就くことです。寛成親王は、小室門院の皇夫となり松良天皇の養父となり太上天皇になられたと解釈すべきだという事です。

王田殿内の阿弥陀堂の格天井裏菊の紋

王田殿天井白黒

(山口保吉著『三河吉野朝の研究』巻頭写真、平成6年焼失)

(4)御鏡と仙洞御所(王田殿)の神風串呂

天授2(1376)年、望理郷に建設された王田殿に於て、長慶院法皇が「御鏡」を同床同殿にお祀りされていたと思われる「超機密事項」を、神風串呂で考察致します。最後までご覧下さい。

「望理郷」のあった所は現在は「豊川市森」ですが、以前は、宝飯郡国府町森村でした。望王里(もうおうり)→望理(もうり)→森(もり)と変遷しているようです。

望王里とは、月の王の御所という事です。長慶院法皇は、興国3年(1342年)壬午8月13日生まれ(青木文献)、山口保吉著『 芳花鶴水園の聖地』では、興国3年(1342年)壬午11月15日生まれとしています。

【参考】山口保吉著『 芳花鶴水園の聖地』71頁に、興国3(壬午)年11月15日の満月の日に降誕の故を以って長慶院法皇を「月」であらわす。また、同頁に午年生まれの守り本尊が月天子(勢至菩薩)であることから、長慶院法皇を「月」であらわす。

ここを王田殿(おうだでん)と呼ぶのは、いざという時のために、自給自足で生活出来るように、この御所内には田や畑などが存在したからで、地元の人々は今でも王田(おうとうも)と呼ぶようです。田を「とうも」と呼ぶのはこの地方の方言だそうです(藤原石山氏)。

王田殿(おうだでん)→小田淵(おだぶち)町と変遷しているようです。

「国府町地区」(豊川市)・1906(明治39)年9月10日 以降の宝飯郡国府町
国府村、為当村、森村、白鳥村(白鳥・白鳥町・桜町・小田淵町・久保町)(『ウィキペディア』国府町 (愛知県)

王田殿の面影を残す豊川市国府町地区の地名

王田殿跡

望理→森、王田→小田淵、西北方の仙路、千路は仙洞御所への道を表わす。佐脇神社南の犬田(いぬた)は、院(いん)の田から来ているのでは。(クリックで大きな地図になります。)

前回の「南朝正統皇位継承論6(№194)」で、下記【 】の様に述べましたが、この王田殿は、下記の「国府町地区」(豊川市)に建立されたのです。

【船山古墳の南西が名鉄国府駅(豊川市国府町)です。神秘的な事に、下記の串呂(№28)の「国府町」(豊川市)でリンクしています。

船山御陵(天皇神社)を中心とする神風串呂
⛩伊勢神宮ー⛩廟社神明宮ー天皇山ー国府町ー船山御陵ー天龍寺ー本宮山ー宇連山ー聖山ー卍長慶寺

【参照】石清水八幡宮と三浦芳聖晩年の住所との神風串呂 (№28)
国府町地区-的場-天王-加賀美-大門-⛩石清水八幡宮-国府町・天王山-玉垣町-国府町(豊川市)-三浦芳聖晩年の住所】

それぞれ、我が国二所の宗廟と云われる「⛩伊勢神宮」と「⛩石清水八幡宮」とを起点とした神風串呂です。王田殿は、上記の串呂が交差する豊川市国府町地区に建設されたのです。

まだ測量術の無い時代に、この様に的確な位置に建設されている点、何という神秘的な事でしょうか。祭政一如とはこういう事を云うのではないでしょうか。

上記(№28)の串呂に「加賀美(かがみ)」と有ります。また、上記「船山御陵(天皇神社)を中心とする神風串呂」を東北方に延長しますと、鏡(かがみ、栃・小山市)に到達することが解明されています。

【参照】皇大神宮内宮と船山御陵の神風串呂(№63)
三浦-⛩皇大神宮内宮-⛩廟社神明宮ー大塚町天皇山-国府町-船山御陵-市川大門町-川浦-日之出-

長慶院法皇と御鏡については、既に「三浦芳聖伝 57、長慶院法皇と御鏡(№180)」で、下記のように考察しました。

長慶院法皇は、文中4年(1375年)5月、皇大神宮内宮に参篭され、「今日のように南北朝の争いがおこるような事態になったのは、宝鏡を同床同殿にお祀りしないからだ!」とお考えになり、宝鏡を拝受して常に奉戴されるようになったので、文中から天授(天から宝鏡を授けられたを表わす)に改元された・・・【参照】三浦芳聖伝 57、長慶院法皇と御鏡(№180)

以上の考察から、長慶院法皇は天授2年以降、王田殿に於て「御鏡」を同床同殿にお祀りされていたと思われます。

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 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖の伝記及び三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
 三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

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(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
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