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南朝正統皇位継承論8-三河吉野朝の伝説4(三河玉川御所)

三河吉野朝の伝説4(三河玉川御所)

1、三河玉川御所

藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』(南朝史学会、1979年)64頁には、長慶院法皇・松良天皇の「三河玉川御所」が、豊橋市石巻本町の和田地内に存在したことを山口保吉氏の著書を引用して考証しています。

松良親王が豊橋市石巻本町の和田地内の玉川御所におられたことについて、三河吉野朝の研究家山口保吉氏は昭和十八年発行の『芳花鶴水園の聖地』に次のように述べている。
 玉河宮は、松良親王であらせ給へる古説あり。(中略)既に松良親王和 
 田尉盛勝の居城玉川に御移りあらせ給いしは理の当然にして、世人の伝
 説また然りとす。御座所の地名を呼びて玉川宮と申し上げしものならん。

玉河御所

豊橋市石巻本町の和田地内には、玉川玉川小学校御所嵯峨(春興院)若宮広福枇杷出口太夫橋東家門西家門和田辻等の地名が残っている。

その主なものだけ、根拠を示しながら解説します。

玉川(たまがわ)の名前の由来は、松良天皇が、山梨県都留市玉川の富士谷御所「玉川の宮」で御降誕になった事に起因するようです。(三浦芳聖は法能を降誕地としていますが、ほぼ同じ地域です。)

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三輪義熈『長慶天皇紀略』によると、天授六庚申年「三月十日、富士勝山谷の玉川の宮に於て、皇子誕生。母は、皇太后小室門院。其産室を、宝野の宮と称す。皇子を正良親王と名づけさせ給ふ。」と出ています。(三輪義熈『長慶天皇紀略』62頁、旧漢字は新字体に改めました。)

降誕の年月日は三浦芳聖の説「正平19年(1364年)8月8日」と異なっていますが、玉川の宮、母(小室門院)、正良親王の三つで松良天皇が「玉川の宮」と呼ばれたと断定します。

正良親王と松良天皇(成龍法皇)が同一人物であることは、名前の音読みが同一の「しょうりょう」である事で証明できると考察済みです。

【参照】松良天皇(正良) (№79)9、松良親王と正良親王について

嵯峨(春興院)は、松良親王が長慶天皇の春宮(皇太子)であった事に由来する名前です。若宮も同じです。

松良親王は、正統の皇位を継ぐ皇太子であられたので玉川御所の春興殿(東宮殿)に住まわれ、現在の曹洞宗の寺院である春興院はその遺蹟に建てられたもので、この附近を嵯峨御所と称した。
  (藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』64頁)

嵯峨御所(春興殿)の近くに和田城があったようです。
【参照】威徳山春興院と玉川御所 和田城 嵯峨城 

広福(こうふく)は広成親王(松良親王の別名)の副(身代わり)の意味。

正統の皇子には必ず身代わりの王子がつきもので、身代わりの皇子を当時副御所と称した。松良親王の身代わりには後亀山天皇の流れである小倉宮の王子がなられた。副御所のおられたところを広福殿と云い、和田地内には昔広福寺という寺があって今もその跡を広福と称している。〝広福〟は広成親王の副、即ち身代わりの意でこの附近を昔から俗に小倉と呼び現在も小倉橋と云う橋がある。(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』64頁)

現在も愛知県豊橋市石巻本町字西屋敷に「廣福寺」が存在している。

和田辻(わだつじ)は、千種忠顕の子孫・青木和田尉(わだのじょう)盛勝に由来する地名で青木和田尉盛勝の名前が「青木文献」に記されています。

 寛成親王金剛心院皇夫大士/天授五年九月二十日崩御/青木和田尉盛勝三河国王田淵王田天神御祀
 長慶院法皇崩御/青木和田尉盛勝王田天神祀/御尊毛納王田天神/御尊体五井一本木納萬福寺(青木文献)

豊橋市石巻本町附近を昔和田郷と称したが、通称を玉川と称し今以って小学校を玉川小学校と云い、又部落名に和田と呼ぶ地域があってその名残をとゞめている。(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』46頁)

【参照】前田豊著『古代神都 東三河―日本の源流』 彩流社 (1996/4/1)

2、青木和田尉盛勝

青木神社2

延元元年正月の合戦で、白河口を守っていた千種忠顕が流れ矢に当って戦死したため、その一子盛勝は父忠顕忠死の功に依って、三河の守護職に任じられ、細井信濃の守、細井一衛守を連れて三州玉川村に赴任し、青木和田尉と名乗って東三河に於ける青木一族活躍の基を築いた。

延元元年から天授五年までの四十余年間、盛勝は終始一貫、細井両将を左右の手として、東三河にその勢力を張った。盛勝の居城は三河玉川村の「和田城」であった。【参照】和田城

天授6年(1380年)1月7日、山名氏清率いる甲斐の軍兵が東三河に押し寄せ、和田城に拠る盛勝は善戦したが、多勢に無勢遂に三河落合城の合戦で討死し、豊川市御油町青木前の「青木神社」に祀られていたが、明治維新の際遷祠され、現在は豊川市御油町膳ノ棚31番地の御油神社内の「青木神社」に祀られている。【参照】青木神社

(『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』3~4頁、51~52頁)
(藤原石山著『三河に於ける長慶天皇伝説考』45頁)

3、三河玉川御所の神風串呂

三浦芳聖により、三河玉川御所(豊橋市石巻本町和田辻)の神風串呂が解明されていますので、ご紹介します。

和田4串

⛩多賀大社と三浦芳聖晩年の住所との神風串呂 (№29)
「和田野」-「卍正善寺」-「和田」-「阿弥陀山」-「⛩多賀大社」-「松永」-「天皇」-「⛩上地八幡宮」-「卍願成寺」-「松良天皇御陵・三浦家墓地」-「三浦芳聖晩年の住所」-「和田辻」-「和田地区」

和田辻

上記の神風串呂で「和田辻」が、三河玉川御所のあった所です。この串呂は和田四串で「⛩多賀大社」「松永」「天皇」「松良天皇御陵・三浦家墓地」「三浦芳聖晩年の住所」を串線する正に「神風串呂」です。

   松永ー天皇ー松良天皇御陵ー松良天皇の三河玉川御所

平成時代、この串呂上に安城市古井町の「天皇」が串線している事が判明し松良天皇、三浦芳聖が「神皇正統の天皇」であった確証を提示する事が出来ました。

この串呂上に「三浦芳聖晩年の住所」を串線するのは、三浦芳聖が神武、応神、後嵯峨、後村上、松良、五皇一体の再現・八幡大明神であるからです。松良天皇=三浦芳聖、共に六白金星甲辰年陰暦8月8日生れです。

また、阿弥陀山、多賀大社は「救済・延命」を表わします。三河玉川御所が、神皇正統「松良天皇」の東宮御所であり、天授5(1379)年、三河玉川御所の崩壊に当って、松良天皇は、辛くも危難を逃れて助かったという事を表わしています。

安城市天皇

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山口保吉著『芳花鶴水園の聖地』にも、玉川宮、松良親王に関する串呂の事が出ていますので、ご紹介します。

玉河宮は松良親王であらせ給へるの古説あり。依て呂径の道〔串呂〕を研鑽し之が真相を明かならしめんと欲す。青木家古文書中松良親王は五井美吉原へ落ち給ひ。薙髪法名成龍と号し給ふ。薬師寺を御建立遊ばされ応永二十四年御坊に崩し給ふ。又別の文書に筑前ヶ谷御坊塚へ納め奉るとあり。茲に於て不肖先哲澎翁師より教示せられし宗風線路〔神風串呂〕の坙によりて研鑽し奉るに。松良親王は玉川宮と申上げしに間違ひなからんと考究したるに付、参照の資として記すこととす。
  (山口保吉著『芳花鶴水園の聖地』122頁、〔 〕内編集者)

上記の様に記されてあり、下記の串呂が存在する事が説明と共に記されています。

京ヶ峰は皇室の御陵墓を神示する基点。御坊塚は松良天皇御陵。大通寺は松良上皇が開基した薬師堂。寶光山玉林寺は玉川宮を表わす。諏訪山明光寺は松良天皇の法号・明光院成徳大士を表わす。玉は寶の別れなりとあります。(玉川神社の存在・位置が不明です。)

京ヶ峰(岡崎市)-御坊塚(御油町)ー寶光山玉林寺(御油町欠間)ー淡洲神社(小田渕町)
大通寺(御油町)-淡洲神社(小田渕町)ー諏訪山明光寺(豊川市宿町)
大通寺(御油町西沢)ー寶光山玉林寺(御油町欠間)ー玉川神社
神明社(岡崎市淡渕)ー長慶寺(豊川市当古町)-玉川神社
神明社(岡崎市淡渕)ー御坊塚(御油町)ー大通寺(御油町)
寶光山玉林寺(御油町欠間)ー船山(八幡町上宿)ー寶蓮寺(石巻本町)


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 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖の伝記及び三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
 三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

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串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
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