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自分の名前が嫌いだった話


ずっと自分の名前が嫌いだった。
コンプレックスだった。
私の名前は春に子どもで春子なのだが、
どうしてこんな古臭い上にかわいくない名前なんだろう、、と何度思ったか分からない。

眠れない時の空想は、さらちゃんだったし、
(〜中学まで「さら」と言う名前に猛烈に憧れていた)

親戚中を見渡しても、私の名前は古臭く圧倒的に魅力が無く感じたし、
"昔感"に於いてはギリひいおばあちゃんが並ぶレベルだと思えた。

幼稚園児の頃は、クラスで一番キラキラしてる女の子のももこちゃんと自分を比べて、
「どうせなら私だってももこちゃんとかななこちゃんとかが良かった」と思っていた。
(幼稚園生の頃は人見知りで本ばかり読んでる子どもだった)

小学生の頃は、女の子同士だと半数以上の子が名前で呼ばれていたのに、
自分は苗字呼びだったため、より自分の名前を嫌いになるようになった。
(実際、一年生時は幼少期の人見知りを引きずっていたのがあると思う)

中学生の頃は、所属していた部活の決まりで全員名前呼び指定だったので、当時の私は心底ホッとしたし少し解放されたような気持ちになった。
しかし、やっぱり私の名前は学年で一番かわいくないし、仲の良い子たちの名前を呼ぶたびに、少し諦めたような気持ちになっていた。

高校に入っても尚、
自分の名前は好きじゃなかったし、
自己紹介の際に名前を言うのが毎度毎度どうしても恥ずかしかった。


昔、1/2成人式の時に親にその由来を聞いたことがある。
母親曰く、
「お父さんとお母さんが春が好きだからだよ」
らしい。
尚のこと納得できなかった。
私、冬が好きだし。春は一番嫌いだし。ていうかそんな短絡的で直感的な由来なんて!
まあこれで改名を考えたり両親を恨んだり、などといったことはなかったが、
やっぱり自分の名前は嫌いだった。

古臭い、かわいくない、という名前の印象そのものはもちろんだが、たぶんそれだけではない。

学生時代の私は学年で目立つ類の人間だった。
しかし、
ももこちゃん、まりちゃん、えいみちゃん、、
などかわいい名前のみんなに好かれる女の子を目にする度に、
「私はどうしたってあんな風にはなれない。名前から負けてるし」
なんて不貞腐れていた。

多くの人に愛される太陽のような人間性とかわいい名前を兼ね備えた彼女たちに、
自分の"足りてなさ"を感じていたのだろう。

私がかわいい名前だったら、彼女たちみたいにキラキラ眩しい女の子だっだだろうか?
彼女たちがかわいくない名前だったら、私みたいに捻くれた面倒くさい人間だっだだろうか?

その答えは分からないが、
ただ一つ間違いないことは、
名前は自分自身を表す ということだ。

自分以外の誰かから与えられたもので、それに従うように強いられるわけではない。
でも、どうしたって影響を受けてしまうものだと思う。
例えば、すごいなーと思う人がいたとして、
その人の名前が素敵だったら
「あー勝てないわ」となぜか名前に敗北感を覚えるのではないか。

名前は呪いなのだ。

とまあ、ここまで書いたが
今はハルコちゃんでも悪くないかな〜
と思えている。

そう思えたのは、
これまで出会った、私を名前で呼んでくれた素敵な人々のおかげだ。
誰しも、好きな人に名前を呼ばれるのは嬉しい。
家族じゃダメだったのは、おそらく私の名前嫌いは周囲と比較することで生まれた感情だからだろう。

友人や過去の恋人、尊敬する人、、
私にとって大切な人たちが名前を呼んでくれることで、
積み上げられた無駄な自意識たちを、少しずつ溶かしてくれた。

名前は呪いだけど、祈りでもあるのだ

だから、好きな人、大切にしたい人は名前で呼ぼう、ね。

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