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北京留学記:有縁千里来相会

必修授業である総合クラスの教科書でまず勉強した文章は「北平的四季」と題された、中国の作家・郁達夫の手によるエッセイだった。北平というのは中華民国時代に北京につけられていた名前で、中国語を勉強している留学生が読みやすいように編集されてはいたが、その文章は人々の生活の様子を交えながら当時の北京の四季を描いたものだった。その中で郁達夫は、冬に北平らしさとでもいうものが表れると書いている。北平の冬は骨までしみ渡るように寒く、北風は強く吹きつけて空も常に重苦しい灰色をしている。しかし一歩屋内に入ると、簡素な造りながらもまるで春の陽気を感じさせるほど暖かく、外の寒さを忘れさせてくれるほどである。酒と羊肉鍋が好きなひとにとっては北の冬は離れがたいものとなり、にんにくと醤油を合わせて煮る香りは白い水蒸気となって部屋中に満ちる。ガラス窓には汗のように水滴がつたい落ちていくが、夜が深まるにつれてそれは不思議な色をした模様へ姿を変える。郁達夫はそのように北平の冬を彩る温かみを描写する。

続いてやってくる春は本来かわいらしいものであるはずなのだが、北平の春は少し様相を異にしている。冷たい風が止まった後、厚く積もった雪はだんだんと消えていくが、春は予告なくやってきて痕跡を残さず去っていくものであるからあっという間に夏になってしまうと郁達夫は説明する。

郁達夫がこの文章を書いたときから七〇年もの年月がたち、どれだけの変化が当時の北平に起きたか、わたしは知ることができない。それは北京へと名を変えた街が体験した年月の長さでもあるし、この街で生活しているひとたちが感じてきたことの積み重ねであるともいえる。

だが、やはり、春は相変わらず予告なくやってくるものであるようだった。いつの間にか寒さがゆるみ、吹いてくる風から厳しさが消え、重苦しく沈んだように見えた灰色の空がどことなく明るくなり、街を歩く女性たちの両手がポケットから出されているのを見て、あ、春になったのだ、と感じたのは四月もほとんど終わりのころだった。校内にある日本から送られた桜園の花が咲きほころんでいるのは四月上旬に見ていたはずだし、北京市内にある桜で有名な観光地が人でごった返しているという話も日本人学生から聞いていたはずだったのだが、春になったと意識することはなかったように思えた。そのころは学校や生活、中国語しかない環境に慣れるので精一杯だったから、そんな些細な変化に気付く余裕がなかったのかもしれない。

「来週は五一なので、学校は休みです」

総合クラスの担当でもありクラス担任でもある王(ワン)又(ヨウ)民(ミン)先生から、ある日授業が始まる前にそのように言われたとき、頭の中には真っ先に「五一」とはなんだろうか、という疑問が浮かんだ。あとで調べたところ五一は「五月一日」のことで、中国では労働節(メーデー)として重んじられており、一日から三日までは公的な連休として認められているということがわかった。せっかくまとまった休みが取れるならばということなのか、どこの会社も学校も土日を調整して一週間くらいの休みにしてしまう。ゴールデンウィークと日本で呼ばれている連休は、中国でも〞黄金周″と呼ばれているが、やはり買い物や観光地などどこかへ出かける人が多いようだった。

北京で勉強し始めてから初めての休みに乗じて、少し出かけてみることにした。北語の近くにある大学で日本語を勉強している中国人学生に誘われ〞万里の長城″へ行ってみることになった。〞万里の長城″として知られる有名観光地は場所によって個別に名前がついており、その中でも一番ゆるやかで登りやすいと言われる〞八(バー)達(ダー)嶺(リン)長城″に登りに行くことにした。「不到长城非好汉(長城に行かねば好漢にあらず)」という若干古めかしいとも思える言い回しが中国語にあると聞き、わたしも友人たちもみな女性であったが、さすがに一度くらいは行ってみたいと思った。ずっと中国語を話し続けなければいけないと思うと、少し尻込みをしないでもなかったが、誘ってくれたのを断るのも気が引けたので出かけることにしたのだった。

しかし考えることはみな同じようで、中国が誇る世界遺産は思いがけないほど人で混み合っていた。万里の長城へと向かう長距離バスに乗るために一時間近く並ばなくてはならず、そのバスも長城入り口付近で渋滞にはまってしまい、結局はバスを降りて歩いて入り口まで行くことになった。やっとの思いで長城入り口に到着し、登り始めたときに真っ先に目に入ったのは、長城に沿って登っていく人の山だった。

中国人といえども今まで万里の長城を訪ねたことがない人がいるというのは意外に思えたが、自分自身、日本の歴史的建築物のうちどれだけ訪ねたことがあるか考えると納得できた。北京市内からバスに一時間ほど乗れば到着できるため、比較的手近な観光地なのだろう。地方から上京してきた大学生の多くは一度行ってみたいと思うのではないだろうか。わたしと一緒に出かけた中国人学生たちにとって万里の長城というのはある意味憧れの観光地なのだということは容易に想像できた。

行列に一度飛び込んでしまうと、もう前に進むほかなかった。今まで中国では見たことがないような青空のもと、何もさえぎるものがない一面の新緑が長城の外に見えた。それをなでるように向こう側から吹き渡るさわやかな風を楽しみながら登りたかったのだが、あとから登ってくる人に押されてそうすることはできなかった。とにかく登るしかない。わたしたちは刺さるような太陽の光に耐えながら登り続け、万里の長城を登ったという感触をある程度得たところで頃合いを見計らって下山した。

そうして疲れきった身体で長城を降りたわたしたちを待っていたのは、またしても大行列であった。彼らはみな帰りのバスを待つ人たちだった。長城で行列をなしていた人たちがほとんど全員バスに乗って帰るとなると気が遠くなるほど待たなくてはならなそうである。中にはタクシーで帰る人もいただろうが、タクシーではおそらく一〇〇元(一七〇〇円)くらいかかることが容易に推測されるため、十二元(二〇四円)で帰ることができる長距離バスを選ぶのはごく自然なことだった。結局何かを話して退屈を紛らわせるほどの話題も体力もないまま二時間ほど並び、北京市内に向かうバスに乗ったのだった。中国は人が多い。それが万里の長城観光で感じた第一の感想だった。

「すみません」

長距離バスの終着駅から北語近くのバス停に向かう路線に乗り込み、日本語と中国語を交互に用いながら中国人学生と談笑しているとき、後ろから日本語で話しかけられた気がした。ほとんど反射的に振り返ってみると、そこには背が小さく目の大きい、黒くて肩まである髪を結ばずにいる可愛らしい女性が立っていた。

勧誘か何かだろうか。思わず身構えてその女性の様子をうかがった。しかし彼女の様子からは怪しさなど微塵も感じられず、むしろ純粋に話しかけたがっているように見えた。外国人と見れば誰かれ構わず話しかけるような人間ではなさそうだった。彼女はあくまで申し訳なさそうにわたしの反応をうかがいながら、はっきりとした意志を抱いたまなざしでわたしを見つめていた。ただ、日本語で見知らぬ人に話しかけられることは日本にいても慣れないことだった。ましてやここは中国だ。身構えておくに越したことはない。

「なんでしょうか」

わたしの警戒が伝わったのだろう、その女性は少し申し訳なさそうな顔をした。しかし何かを伝えようとしている意志ははっきりと見て取れた。彼女はわたしの顔をじっと見つめて口を開いた。

「あの……、どこで日本語を勉強したんですか」

中国語に切り替えて彼女が言ったことばを理解することができず、単語を聞き違えてしまったかと思った。いや、確かにどこで日本語を勉強したのかとわたしに尋ねた。彼女はわたしが日本語を勉強して身につけたと思っているのだろうか。とすれば、わたしが日本語の良い学習法や良い学校を知っているかもしれないと思い、そんな風に声を掛けたということになる。確かに、一緒にバスに乗っていた中国人学生は日本語を勉強し始めてまだ半年程度だったから、わたしたちは日本語と中国語を交互に使ってしゃべっていた。どちらかと言えば中国語を使っているほうが多かったから中国人に間違われたということなのだろうか。それでは彼女は一緒にいた学生たちのことをどう思っていたのだろうか。

「あの、わたし、日本人なんですけど……」

勘違いをしていることを伝えると、とたんに彼女は申し訳なさそうな、しかし確実に嬉しそうな表情を浮かべた。

「そうだったの、日本語と中国語使ってしゃべってるからわからなかった」

そういうと、その女性は慌ててわたしに謝り、何かを一生懸命わたしに伝えようとしている。しかし、バスの中は騒がしく何を言っているのかよく聞き取れない。そうこうしているうちにわたしの降車駅が近づいてくる。その気配を感じ取ったのだろう、彼女は小さなメモ帳を取り出した。

「ここに、名前と、電話番号書いてください!」

その申し出に面食らわざるを得なかった。初対面の、それもまったくと言っていいほど話していない人間に頼むことだろうか。しかしなぜ話がそのようになったのかわからないまま、またなぜそうしようと彼女が思ったのかほとんど推測しかねるまま、まるで彼女の言う通りに行動しなくてはいけないという念に駆られたようにポケットからメモ帳とボールペンを取り出して名前と携帯番号を書きつけ、破って彼女に渡していた。彼女はそれを受け取るとうれしそうに、

「ありがとう。連絡しますね」

と言って紙切れをポケットにしまった。

一緒にバスに乗っていた中国人学生たちはすでにバスを降りていた。連れ出してくれたお礼といつになるか分からない次回の約束を一応して別れたつもりだったが、意図したように彼女たちに伝わったかはわからなかった。そもそも突然の闖入者に気をとられてしまったことが彼女たちの機嫌を悪くしたかもしれない。そのことに思い至ったのは彼女たちが降りたあとだった。

バスが北語のバス停に着いたのに気づき、あわてて下車したわけだが、まるで不思議な体験から帰ってきたような感覚がした。先ほどバスの中で起きたのは一体なんだったのだろうかと考え、このような出会いを「何かの縁」と言うのかもしれないと思った。

二日後、その中国人からメールが来た。中国の携帯電話にはメールアドレスというものがなく、電話番号に対してショートメールを送るようになっている。

「こんにちは!わたしはバスの中で会った中国人です。田田と言います。今度一緒に遊びに行きませんか」

バスを降りてすぐにでも連絡が来るかと思っていたのだが、あの日一方的に携帯電話の番号を教えただけで相手から教えてもらっていなかったこともあり、メールを受け取ってはじめて彼女のことを思い出した。

同時にあの時自分がとった行動の奇妙さに、改めて首をかしげずにいられなかった。なぜ見知らぬ彼女に携帯電話の番号を教えたのだろうか。心の中でどこか彼女に対する疑いを持っていたし、番号を教えようとする自分を押し留めようとする声が聞こえていたのも確かだった。しかしその声に耳を貸そうとしなかったのは、彼女がわたしの番号を悪用するような人間には見えなかったから、そしてこちらがおどろいてしまうほど屈託なく話しかけてきた彼女に興味を持ったからなのかもしれなかった。あるいはバスの中で偶然に中国人と出会って話しかけられたことは何かの縁かもしれず、そんな縁に身を任せてみるのも面白いと思ったのかもしれない。わたしは買って二ヶ月たったにもかかわらずいまだ扱いなれない中国語の携帯で、

「田田、こんにちは。連絡をくれて嬉しいです。いつ暇ですか。ご飯食べに行きませんか」

と打って返信をした。

北語南側近くのバス停で待ち合わせをしたが、田田と名乗った中国人はなかなか現れなかった。北語の南側にはバス停が二箇所あり歩いて三分ぐらい離れていたから、バスに乗っていくと言った彼女がどちらのバス停で降りるのかは分からなかった。仕方なく二つのバス停の間を行ったり来たりしながら田田が現れるのを待った。

彼女が来るのを待ちながら、この不思議な出会いについて考えていた。外国語を勉強している外国人が、その言語を母語として話せる人間と友だちになりたがるというのはよくあることである。日本語を勉強したいと思っている田田が、日本人であるわたしと知り合いになりたいと思うのは納得できる。まして周囲に日本語に接することができる環境がなければなおさらだ。だからバスの中で初対面の人間に名前や電話番号を聞くという思い切った行動が取れたのだろう。

日本人の知り合いの中にも、中国人の友だちとしゃべったり宿題を見てもらったりしている人が多くいた。北語では中国語を勉強している留学生とその留学生が使えることばを学んでいる中国人学生が〝語(ユィ)伴(バン)〟という関係になり、お互いにお互いの勉強の助けをする人たちが多く見られた。

語伴になってくれそうな人を見つけるにはいくつか方法がある。構内にある喫茶店や食堂の掲示板には語伴を求める張り紙が所狭しと貼られていたから、その中から自分の条件に合いそうな人を探して連絡を取ればよい。あるいはすでに語伴関係を結んでいる学生からの紹介で出会うこともある。もしくは近くにある大学の日本語学科の学生と北語の日本人留学生会が協力して交流会を開くこともあり、その交流会で出会った中国人学生と積極的に連絡を取ればよい。

わたし自身、日本語を勉強している学生と語伴の関係を結びたくて、交流会に参加し、中国人学生と連絡を取ろうと思ったこともある。だが、どうしても永続きしない。連絡をしても相手に学校の委員会での仕事があったり、こちらの宿題が多かったりで予定がうまく合わなかった。そうして連絡を取るのが億劫になってしまう。仲良くなれるかと思った中国人は何人かいたが、それでも語伴としての関係はどれも続くことはなかった。

今回はうまく行くだろうか。田田と仲良くなれるだろうか。うろうろしながら十分ほど待った後、携帯電話に電話がかかってきた。あたりを見回したがそれらしき人物は見当たらなかった。

「今どこにいるの?」

「バス停にいるよ。北語の南側の」

もうひとつのバス停に向かいながら電話の向こう側にいる田田に言った。

「わたしもバス停にいるんだけど」

田田はそういうと、無言になった。電話が切れてしまったかと思い慌てたが、向こう側から手を振りながらやってくる彼女が見え、電話を切った。

行き違いになってしまい申し訳なく思ったが、彼女は特に気にしていないようだった。

「こんにちは」

うれしそうに挨拶をすると、彼女はわたしの手をとり駅のほうへと引っ張っていった。

地下鉄十三号線五道口駅近くのファストフード店に入り、わたしたちは向かい合って座った。何も注文せずに座り込んでしまったので店に対して申し訳なく思ったが、八時頃で夕食には少し遅いにもかかわらず多くの若者でごった返していたから店の人はわたしたちに気づかないようだった。

中国語では名前の漢字のうち一文字を取り出し、それを重ねてかわいらしくあだ名にするということがあると聞いていたから、彼女の〝田田〟という名はあだ名かニックネームだとばかり思っていた。しかしそうではなく、

「苗字が田で、名前が田」

と誇らしげに教えてくれた。

日本語で読むと重たく聞こえてしまうし、なんとなくかたつむりを連想してしまう。「たた」と呼べば多少かわいらしく聞こえるがどことなくしっくりこない。中国語読みの「ティエンティエン」が一番なじむような気がした。

田(ティエン)田(ティエン)は中国東北部出身で、わたしと同じ八六年生まれであった。高校を卒業してから上京し北京で仕事をしているのだという。姉と弟がおり、今は姉と一緒に暮らしている。弟はまだ高校生で両親と一緒に東北で暮らしているそうだ。彼女ははっきりとした中国語でわたしに言い聞かせるようにそう言った。

「今は何の仕事をしているの?」

そう訪ねると、田田は店の窓から見える巨大なアパート群を指し、

「部屋の掃除をしたりする仕事。まあいい仕事じゃないんだけど。今日掃除してきたところなんて家賃が四〇〇〇元(六八〇〇〇円)もするんだって」

そんな高い家賃のところに住んでいる人がいるなんて信じられないという口調でそう言った。わたしが住んでいる留学生寮の部屋は一人部屋で一日一一〇元(一八七〇円)、月三三〇〇元(五六七〇〇円)という計算だった。中国人学生の寮と外国人留学生の寮では部屋代が大きく異なるということを聞いてはいたが、改めて自分が住んでいるところは高いのだと実感した。もしわたしが寮の部屋代の話をしたら、田田は嫌な思いをするかもしれない。なんとなくそんな話はできなかった。

「どうしてあの時、バスの中でわたしに声を掛けたの」

ずっと考えていた疑問を田田にぶつけてみた。田田ははつらつとした表情で嬉しそうに、

「実はわたしは、東北にいたとき、日本語学校で二年間日本語を勉強したんだ。だけど教科書とかカセットとか全部実家に置いてきちゃって、この一年間全く勉強しなかった。語学の勉強って続けてすることが大事じゃない。何とかしたいなって思った矢先にあのバスのなかであなたに遭遇したの」

と話してくれた。考えてみれば田田はわたしにどこで日本語を勉強したのか聞いたのだ。彼女が日本語の勉強に興味があることはわかっていたはずだ。しかし見知らぬ人に声をかけられたという突拍子もない出来事に気をとられ、すっかり忘れてしまっていたのだった。

わたしたちはファストフード店の小さな机を挟んでさまざまな話をした。日本語の活用はややこしくて覚えられないという話や、日本と中国の考え方はどう違うのか、語学の学習はどうするべきか、どうやったら恥ずかしがらずに外国語を話すことができるのか。

できるだけ彼女に日本語を使って話してもらいたかったのだが、彼女の日本語よりわたしの中国語のほうが自由になると思ったからだろうか、気がつくと中国語で話していた。中国語で話すことができればわたしの勉強のためになる。だが一方では、中国語ばかりで話していることにも不安を感じた。田田のために日本語で話し、もし彼女が意味をつかめなかったら中国語で言い直せばいいのではないだろうか。話しかけたのは田田のほうなのだ。日本語を勉強するために見知らぬ日本人に声をかけるほど熱心な彼女のためになってあげるべきなのではないか。

「ちょっと、そろそろ閉店なんですけど」

店員にそう注意され、時計を見るとすでに十一時になっていた。わたしたちは店を出て寮のある方向へ足を向けた。田田も北語前のバス停から帰るというのでそこまで一緒に帰ることにした。比較的遅くまで露店や若者でにぎやかな駅前も、平日ということもありいつもよりほんの少しだけ静かだった。

「今日は楽しかった。また会おうね」

北語前のバス停まで見送ると田田は人懐っこい表情でわたしに言った。

「わたしも楽しかった。また連絡する」

そう言って握手を交わし、田田はちょうどやってきたバスに乗り込んでいった。

また会って遊びたいというメールが田田から来たのは、そうして別れたわずか四日後だった。まさか読み間違えたかと思いメールを読み返してみるが、やはり明日は遊ぶ時間があるかというメールだった。彼女からしてみればせっかくできた日本人の友人と話をしたい、そうして日本語を勉強したいということなのかもしれなかったが、前回会ってから間もないにもかかわらず連絡をしてくるのに対して、遊びに行くことがあまり得意ではないわたしは少し違和感を覚えざるを得なかった。学校の宿題が忙しいからとかその日は先約があるとか何か理由をつけて断ろうか。しかし断ってしまったら田田は失望してしまうかもしれない。結局その翌日に北語南のバス停付近で田田と会うことにしたのは、わたし自身中国人の友人が遊びに誘ってくれることが嬉しく、中国語を使って話をしたいと思っていたからだった。

翌日、数日前と同じように北語前のバス停で待ち合わせをし、晩ごはんを食べながらしゃべることにした。

「でも、どこに行こうか。わたし、この辺のお店あまり知らないんだけど」

と田田に言うと、彼女は少し迷ったようなそぶりを見せたが、すぐに思い当たったようで、

「それじゃ、あそこにしよう」

とわたしの手をひっぱって五道口駅のほうへと歩いていった。

連れて行かれたのは駅から歩いて五分ほどのところに位置する大型スーパーの一角にあるこぎれいなファストフード店だった。店に入りまず目に飛び込んできたのはレジカウンターの向こう側に大きく掲げられたメニューの写真だった。売っているものと言えば、牛肉の炒め物や鶏肉の照り焼き、豚肉のカツレツのような一品料理に白いご飯がついたセットや、コーラ、オレンジジュースなどのソフトドリンク、それにサラダやコールスローなどのサイドメニューもあった。

店内は暖色系でまとめられていておしゃれな雰囲気を演出しようとしている。店員はみな清潔に保たれたそろいの制服を着、衛生のために帽子をかぶっていた。しかし、店内の机に設置された背の高い樹脂製の椅子は目に刺さるようなまぶしいオレンジ色でどことなく不自然に感じられた。まだ完成してから間もないのかもしれない。店内にすえつけられた椅子や机、それに壁紙や照明器具のようなあらゆるものが無機質に感じられ、店の外に見える雑多な人の往来から浮いているように見えた。

北京では日本にあるようなファストフード店も珍しくないが、日本のファストフード店と決定的に違うのはその価格だった。学食で炒め物を一品と茶碗いっぱいのご飯を注文しても七元(百十九円)程度であるのに、味も量もさほど変わらなさそうな牛肉の炒め物とご飯のセットが十九元(三百二十三円)もするのは高いとしか言いようがない。

一番安い牛肉の炒め物とご飯のセットを注文して座席につき向かい合ってひとまず食べ始めようとしたとき、レジの向こうから店員がやってくるのが見えた。田田が笑顔になり右手を挙げて手を振ると、店員はレジの奥に何か声を掛けてから速い中国語で何か話しかけた。奥からやって来た店員ふたりは田田を見つけるとやはり笑顔で田田としゃべり、しばらくしてレジの奥へと戻っていった。

中国語が速すぎて何を話しているのかまったくわからなかったが、どうやら田田はここの店員と知り合いであるらしいことは理解できた。

「どうして店員さんと話してたの。知り合いなの」

田田はわたしの疑問に対してうなずくと、

「前、ここで働いてたから」

と箸を手に取りながら答える。

とすれば、さきほど話をしていた店員たちは以前の同僚なのだろう。ふと目の前で食事をしている田田と、スーパーや飲食店で働いている名前も出身も知らない若者の店員がなんとなくつながったような気がした。

例えば北語の売店で、休み時間のたびに群がる外国人学生相手に紙パックの牛乳や紙コップに注がれたインスタントコーヒー、菓子パンやチョコレートをめまぐるしく売りさばく店員。例えば北語のちかくにあるチェーン店のスーパーで仕事がないのか壁に寄りかかりながら指先をいじっている店員。町中にある飲食店で無愛想に注文を取り料理を運んでは、合間をぬって客には向けないような笑顔で他の店員となにやら楽しそうにしゃべる店員。例えば日本資本のコンビニで衛生のための白い帽子をかぶり黙々と商品のバーコードを読み込んでいく店員。五道口という北京の一角にもあふれかえるほどいる中国の若者は、だいたいが田田のように高校を出てそのまま就職した若者なのだろう。大学を出た学生は給料の安いスーパーの店員などやりたくないそうだ。成績や経済的条件が揃わないと大学に通うのはなかなか難しいと言うから、大学で専門的に学んだ学生が苛烈な大学受験を潜り抜けて得た優秀な成績を無駄にしないために、そして安くはない学費を出してくれた親のためにも、学んだ知識を生かして仕事をしたいと願うのは仕方ないのかもしれない。しかし大学に通う学生は圧倒的に少なく、田田のように大学に通わず仕事をするほうが一般的といえるのかもしれない。地方から上京している若者も多いだろう。国土の広い中国では実家に帰るのに汽車で十時間揺られることもあるというから「上京」ということばが持つつらさも違うのではないだろうか。

わたしの目には、スーパーや飲食店で働く若者はいつもつまらなそうに、死んだような顔でただ日々を送るための金を稼でいるように見えた。客に対して愛想よく接客スマイルをふるまうこともなく、やるべき仕事をおわらせることだけを考えているように見えた。そんな顔が五道口のいたるところで見られたから、中国ではつまらなそうに働くのが普通なのだと思っていた。しかし仕事そっちのけであるいはひまをもてあまして他の店員と雑談しているときの表情はあまりにも楽しげで生き生きとしていた。店員たちが仕事をしているときの無愛想さと同僚と話しているときの生き生きとした表情の落差には中国で生活をし始めたころから気付いていたが、客としてその様子を眺めていたわたしには、仕事中にもかかわわらず、なぜ私的な雑談に没頭しているのか不思議でならなかった。だが目の前でわたしとおしゃべりをしていた田田がかつての同僚である店員と楽しそうにことばを交わしているのを見ていると、店員として働いている若者はそのひとの一面で、その後ろには一人の若者としての姿があることに気付く。田田と話している同僚たちの顔には、客に対して向けているような無愛想さのかけらも見られない。日々を送っていくための金を稼ぐことはおそろしくつまらないことなのかもしれないが、それでも稼がなくては生きていけない。だから若者は仕方なく、つまらなそうな顔をしながら働いているのだろう。客に接しているときに愛想よくすることができないのは正直な反応なのかもしれない。

おどけてすましたような表情を見せる田田も、死んだような顔をしながらハウスキーパーの仕事をやりすごしているのだろうか。そう考えると目の前にいる田田と仕事をしているときの田田はなんだかまるで違う人のように感じられた。


毎月恒例だから、とクラス長の辛容喆がにこにこしながら言うとおりなのかどうかわからないが、五月も四月同様にクラスで晩会を開くことになった。今回はクラスのだいたい半分が参加して北語の裏側にある韓国料理屋で開催することになった。

北語がある五道口のあたりには韓国人が多く住んでいるらしく、ハングルで書かれた看板をあちらこちらで見かけたり、すれ違うひとから韓国語が聞こえてきたり、韓国のメーカーが作った食品を売る店を見かけることもあった。もちろん北語に通っている留学生の中では韓国人が一番多いという話も聞いていたが、中には中国籍の朝鮮族のひともいるだろうし留学生が集まる場所で店を開いている韓国人もいただろう。今回のお店は、韓国で食べる料理に比べたら味が落ちてしまうのは否めないが、それでも韓国料理と言ってよいくらいにはおいしい、というのが辛容喆・申美英夫婦の認識するところのようだった。

元来大勢で遊びに出かけること、ましてや学校のクラスメートと集まってパーティをすることなど大の苦手であるわたしであったが、晩会で辛容喆をはじめ、アリヤやファンリェン、イラン出身のアーミンたちと特になにかあるわけではないのに話すことを楽しめるとは思ってもいないことだった。

アーミンは、最初の会話の授業のとき同じグループになり、わたしのしどろもどろの中国語を聞いていたイランの学生である。会えば笑って挨拶を交わす程度ではあったが、なぜか彼と妙なところで気があった。彼の知っているイスラム文化やイラン文化について特に興味があったわけでもなかったのだが、わたしを見かけると、砂漠の多い地域に住む人間に特有の長いまつげをぱさぱささせて、二重まぶたの目でにっこり笑って握手を求めてくる。それが彼個人の性格なのか、それとも何か彼の気にいるようなことがわたしにあったのか、それはよくわからない。だがなんとなく人懐っこい性格をしているとわたしに感じさせるには充分だった。

「韓国料理なんて初めて食べるなあ」

チゲ、白菜キムチ、トッポキ。テーブルに並べられた真っ赤な料理の数々を前にして妙に感心したような口ぶりで感想をもらすアーミンに、斜向かいに座っていた辛容喆があぐらをかきなおしながら、

「辛いのは食べられる?」

と尋ねた。

「辛いの好きだよ」

アーミンのいかにも平気そうな返事を聞くと、辛容喆はにやにやとどこかいたずらっこのような笑いを浮かべた。そしてテーブルにのせられた野菜の中から何か取り出した。それはまだ熟れていないような色をした、細長い形の野菜のようであった。

「それじゃ、これを食べてごらんよ」

笑いながら差し出された野菜を受け取るとアーミンは大きく一口かじりついた。するととたんに顔はゆがみ、テーブルにあったコップをつかんで水を勢いよく口へと流し込んだ。それをみて辛容喆は笑い出した。

「何だいこれ!」

顔を真っ赤にしながら半ば涙目でアーミンは苦しそうに尋ねた。それは青とうがらしだったのだが、韓国料理の辛さには慣れていないようだった。どれくらい辛いものかと遠慮気味に一口失敬してみたが、すぐにそうしたことを後悔した。

青とうがらしに比べれば、キムチやチゲはなんということはなかった。しかし口に入れたときかすかに甘みさえ感じるキムチは時間が経つにつれてひりひりと刺激する辛さにかわっていく。日本で食べたことがないような辛さで、額から汗がにじみ出てくるほどだった。

わたしはいつの間にか、このクラスメートたちと話をすることに抵抗を感じなくなっていた。わたしにとって、彼らはまったく異質な人間ではなかった。お互いにお互いが外国人ではあるけれど同じ教室の中で中国語を勉強する仲間であるということのほうが強く感じられるようになっていたのだ。普段話すことなどたいしたものではなかったが、同じ教室の中で席を並べて勉強するうちに、そしてお互いに勉強している中国語ということばを通して話をするうちに、ひとつのクラスのなかにいる多様な学生としての意識のほうが強くなったのだろう。

相手のことを聞くだけでも、相手の国や文化、ことばのことが垣間見えることは興味深かった。アリヤに兄弟はいるのかとたずねたところ、いるという答えが返ってきた。兄弟全員がアリヤと同じ金髪でグレーの瞳なのかと思ったが、

「兄は赤髪で、弟は黒髪なんだよね」

と付け加えた。よく考えてみれば、髪の色は遺伝と関わるから兄弟で髪の色が異なることがあってもおかしくはない。しかし言われて初めてそれまで兄弟の髪の色は同じなのがあたりまえだと思い込んでいたことに気付く。今まであたりまえだと思っていたことが他の国ではあたりまえではないのだと教えてくれるクラスメートと話をするのはとても楽しいことだった。

「ねぇ、インドネシア語で〝你好〟ってなんていうの?」

インドネシア出身のルイチーに尋ねると、彼女はApa kabar.と教えてくれる。アパカバール、アパカバール……と耳で聞いたとおりの音をまるで子どもが何度も確認するように発音するたびに、ルイチーがうなずく。その発音で正しいと言っているのだろう。しかしわたしの発音はおそらくたいして正確ではない。正確に覚えたかったのではなく、ルイチーに彼女が話すことばを少しでも知りたいと思っていることを伝えたかったのだ。そうしておしゃべりのきっかけをつくりたかった。

すると、アパカバールとつぶやくのを聞きつけたらしい申美英が話に入ってきて、

「韓国語にも似た音のことばがあるんだけど、知ってる?」

とわたしやルイチーに尋ねた。わたしをはじめ、ルイチーも近くで聞いていたアリヤやファンリェン、西村さんも首を横に振る。

「なんていうの?」

「アッパカバール」

申美英が発音した音はまぎれもなく韓国語の音なのだが、インドネシア語の単語と非常によく似ていた。それぞれ顔を見合わせても誰もわからない。

「それ、どういう意味?」

ルイチーがたずねると、申美英は嬉しそうな顔をしながら答えた。

「お父さんの、カツラ」

ルイチーと申美英は顔を見合わせたままくすりと笑った。周りで聞いていたわたしたちも笑う。あまりにそっくりな音であるにもかかわらず、異なる意味をもつことがおもしろかった。偶然がもたらした一致には違いないが、違うことばの中に似た音のことばを見つけ、それを面白がることができるのはたとえささいなことだとしても楽しいことだった。


六月になると、北京での生活にもだいぶ慣れ、学校の周りにも目を向ける余裕が出てきた。たとえば寮から北へ二分ほど歩いたところに割と大きなホテルがあったが、その近くに果物を売る人や、サンダルやタオル、スポンジのような雑貨品を売る人、たい焼きに似た焼き菓子を売ったりする人、〝涼皮(リァンピー)〟という米粉でつくった冷たい麺を売ったりイカや鶏肉の串焼きを売る人たちが集まってくる路地があった。涼皮はきゅうりや乾燥した豆腐、パクチーを加え、ごまだれと唐辛子の調味料で味付けした、きしめんほどの太さのもちもちとした食感の麺である。路地に集まってくる店は八百屋や仕立屋のようにちゃんとした店舗があるわけではなく、どこからか商品を抱えて集まってくるようだった。涼皮や串焼きの店は移動のための三輪車の荷台を改造して料理をつくる簡易コンロを設置していた。雑貨屋や果物屋はどのようにして運んできたのか分からないが、地面にビニールシートを敷いてその上に品物を並べていた。夕方そのわき道を覗くと屋台の人々はどこかへと消えてしまうため、いつでもそこに店を構えているとは限らなかったが、食事時にはそれなりに人が寄ってきていた。

しかし六月のある日、その「屋台通り」で昼食を食べようと思い路地を覗いてみると、普段なら昼食時で最もにぎわっている時間帯にもかかわらず、人の影がまったく見当たらなかった。決して広くはない道の両端に並んでいた屋台も、店の人と客がやりとりするにぎやかな話し声も、串焼きのたれと香辛料のにおいも、そこにかつてあったという痕跡すら残らず消えうせていた。屋台が忽然と姿を消し道の思いがけない広さにいささか驚かされたが、さらに驚かされたのは屋台のひとびとと入れ違いであるかのように姿をあらわした、真っ赤な下地に白い文字で書かれた横断幕であった。

「取締無法経営」

中国ではいたるところでこのような横断幕を見かける。スローガンのようなものなのだろうか、工事現場には「責任重于泰山(責任は泰山より重い)」と書かれた横断幕が掲げられているのをしばしば見かけるし、北語でも「預祝第○回○○会議的成功(会議の成功を祈る)」という横断幕が校内に掲げられていた。だから赤い下地に白い文字で書かれた横断幕が掲げられていたことはとりたてて不思議な光景ではなかった。しかしこの横断幕を見たとたん、かつてここで店を開いていた屋台がすべて違法であったことを悟った。

わたしは何もなくなった路地で横断幕を見つめたまましばらく呆然と立ち尽くした。まさか許可のない違法な屋台だったとは見当もつかなかった。違法経営をしている人間は違法であると吹聴しないから本来こちらで判断をしなくてはならないのだろう。しかしそんなことまったく想像の外であり、あまりに身近に違法経営が存在することに驚愕せざるを得なかった。二〇〇八年は北京、そして中国にとって大事な年であるから、かなり厳しく違法屋台を排除しているのだろう。法律は共同体が円滑に生活を営んでいくために必要な決まりであるとは重々承知しているが、屋台が実際に撤去されてしまったのを目の当たりにして、北京に暮らして日が浅いにも関わらず物さびしさを感じずにはいられなかった。

しかし、一転して日本の屋台に目を向けてみると、実は屋台について何も知らないことに気付く。屋台と言われて思いつくのは、神社の境内に立ち並ぶ縁日の夜店くらいのものだが、誰かが取り仕切っているだろう夜店でさえどんな人たちが管理し運営しているのかわからない。ましてや、特別なお祭りがあるわけでもないのに道ばたに突然現れる屋台はまったく謎に包まれているとしか言いようがない。どんな人が経営しているのか、その場所に出店を出す許可はとってあるのか、そもそも屋台の店舗自体どこで仕入れているのか何も知らないことに愕然とする。

意識して考え直してみると、荷車やワゴン車を改造した簡易店舗を商店街の道端に停め、ナシやスイカ、モモのような季節の果物を売っていたり正月飾りを売っていたりする光景を見たことが確かにあることを思い出す。威勢のよいかけ声と共に若い男性が売りさばいているのに気付いて、注意を向けはするのだが、通り過ぎてしまうと、なぜそこで売っているのか、許可はとっているのか、警察官や商店街の管理者が通りかかるとあわてて違う場所へ移ったりするのだろうか、という疑問が脳裏をよぎることすらない。道端のありふれた光景に気を配るひまなどないということなのだろう。

日本にいるときには気付かなかったようなことに中国で気付くのはなぜなのだろうか。朝起きて電車に揺られて学校へ行き、何となく授業を受けて友だちと何となく会話を交わし、授業が終わったらアルバイトにいき、家に帰ったら翌日の授業のための予習をして寝るという生活では、日々を繰り返すのに精いっぱいで気付くひまなどなかったかも知れない。生まれたときから自分の周りにあるものは存在するのが当たり前と思い込んでいて、改めて不思議に思うことは難しいのだろう。

だが、ひとりで見知らぬ土地に暮らしていると周りの景色がすべて見慣れないものでできているように感じられる。四ヶ月経ち生活にはいくらか慣れてきたかもしれなかったが、それでも外に出るたびに見慣れぬものがあることに気付く。町で話される中国語にまだ慣れきっていないからなのか、それとも嫌というほどしみこんだ二十年分の記憶が違和感を掻き立てるからなのか。だが、見慣れぬ何かに対して感じる違和感は決して薄気味悪さをともなったものではなく、むしろ好奇心を刺激するような楽しいものだった。そしてそれが二十年間積み上げた感覚と結びついていくのはくすぐったくもなんだか嬉しい感覚だった。

北京の町で出合うものが楽しく思えてきたころ、田田と会う頻度はだんだんと少なくなっていった。田田と会う約束をしておしゃべりをすることに息苦しさを感じるようになっていた。その息苦しさははっきりと感じられるものではなく、五道口駅近くの大衆食堂で大好物の酸辣土豆絲(じゃがいもの千切り炒め)が山盛りに乗った皿を二人でつつきながら、田田が転職を考えているだとか仕事が大変だとかの話をしているときには心の奥底に眠っているような、ごくわずかなものだった。しかし寮の部屋に帰りふっと息を緩めたときに得体の知れない拒否感のようなものが胸を横切るのだった。田田が遊びに行こうと誘ってくれるのは素直な好意の表れだろうし、彼女が日本語を勉強したいと言っているのを何とか手伝ってあげたいと言う気持ちもあった。だから少しでも一緒に遊びたいと思うのだが、誘いのメールに返信するときにどうしようかと一瞬ためらってしまうことが多くなっていた。遊びに行こうと誘う気はあったが、その気持ちをメールの文面に変えるときにも数文字打っては手が止まってしまい、結局すべて消してなかったことにしてしまうことが幾度となくあった。そうしてほとんど誘いのメールを田田に送ることがなかったから、誘いづらくなってしまったのだろう、田田からメールをくれることもだんだんと少なくなっていった。たまに誘ってくれたとしても、メールの返事を考えなくてはと思えば思うほど、返信するのが億劫に思えてくる。風邪を引いたかもしれないから出かけづらいという見え透いた嘘を理由に誘いを断るが、田田の返信には「それなら緑豆のおかゆを食べるといいよ」と書いてあり、好意を無碍にしてしまったことに得体の知れない申し訳なさを感じるのだった。

ある日パソコンを起動してみると、インターネットのメッセンジャーに登録していたルイチーが、名前の横にあるコメント欄にメッセージを表示させていることに気付いた。

East or west, the home is the best.

まもなく一年の留学生活を終えて故郷に帰ることを待ちわびているだろうルイチーの偽らざる気持ちを垣間見た気がした。おそらく、彼女にとって故郷は何にも変えがたく失いがたいものであるのだろう。だからthe home is the best.ということばを自分の感慨としてコメント欄に表示させることができたというのは想像に難くない。しかし、そのことばを自分に照らして考えたとき、なんだかぼんやりとした、はっきりとそう断言できないような曖昧な気持になった。故郷を一年離れると、故郷に帰れることに喜びを感じられるようになるのだろうか。故郷から離れあちこち旅をして今までに見たことがないものに多く触れるとやはり自分の生まれ故郷がよいと思えるものなのだろうか。わたしがルイチーのコメントに素直にうなずくことができないのは、親元を離れてたった半年しかたっていないからなのか。それとも自分の生まれ育った土地について「故郷」として認めるだけのなにかを感じていないからなのか。生まれてから中国に出発するまでほとんど同じ土地に住み続けていたわたしにとっては、生まれ育った土地というのは特に執着しなくても間違いなく受け入れてくれるような、帰っていくのが当たり前の場所であった。「帰る」とは行っても、毎日学校と家との往復だった生活では「帰る」ことは日々の生活の一環に過ぎないから、故郷を感傷的に捉えることなどなかったのだろうし、そもそも自分の生まれ育った土地を「故郷」などと大げさに捉えることもなかった。日本で暮らしていた家には二十年近く住んでいたが、それでもそこが帰る場所であるような気にはなんとなくなれなかった。半年後には帰ることが当たり前だと知らないうちに思い込んでいるからなのだろうか。それとも、北京で暮らすことに懸命になるあまり半年後に「帰る」ことなど考えられないからか。

授業がすべて終わり、あとはテストを残すだけとなった七月末、クラスでお別れ会をやろうという話になった。ずいぶんと仲のよいクラスだったからか、あるいはもともと集まることが好きな人たちばかりだからであろうか、お別れ会を誰かが重い腰を上げて仕方なしに開くのではなく、同じクラスとして集まることのできる最後の機会を惜しみ、また共に話したり笑ったりして過ごす時間を最大限に楽しみたいという無理のない心構えが見えた。そうして班長の辛容喆がいつかと同じように授業の前にクラスメートの参加不参加を確認しているのを見たとき、クラスメートのほとんどがいなくなってしまうのを寂しいと思っていることに気付いた。ファンリェンやアリヤ、ルイチーや申美英や辛容喆は、たった半年同じ教室で授業を一緒に受け、休み時間にたわいもない話をしたに過ぎない。道ばたで見かけたら声をかけて手を振り、間近に控えるテストがわずらわしいと冗談を言い合ったに過ぎないのだ。それなのになぜ彼らが帰国してしまうと思うだけで、なぜ途方もなくもどかしい気持ちになるのだろうか。漢語進修学院での一年コースに来てまだ半年のわたしは北京に残り中国語の勉強をする予定だったが、半年早くコースを始めた人がほとんどであったため、クラスメートのほとんどは大学院に進学するか北京で仕事を探すのでない限り今学期で帰国することが決まっていた。なんだか夕暮れの教室にぽつんと取り残されてしまうように感じられて、クラスメートたちを何とかして手元にひきとどめておきたくてもそれが叶えられないもどかしさを感じずにはいられない。

場所はいつかと同じ韓国料理屋だった。最後、ということが関係しているかわからないが、参加する人数はいつもより多かった。妙に仲のいい一部のクラスメートたちにあまり積極的になじもうとしなかった日本人や、何が忙しいのかわからないがごくたまにしか授業に来ないメキシコ人の李(リー)鴻(ホン)飛(フェイ)も来た。彼は、アーミン同様、最初の授業で同じグループになった学生だった。香港から中国語を勉強するために来たという、授業中に何かあると、とうとうと話し出す初老の婦人もきていた。話の出だしがいつも「ボドリゴでは……」なので、この人が今暮らしているのはその「ボドリゴ」というところなのだろうとは思っていた。しかし彼女の発音を頼りに辞書を引いても出てこずその土地が一体どこなのかわからなかったし、面と向かってたずねるのも気が引けた。彼女の中国語の名前もなんというのかわからず申美英は彼女を話題に出すときは「那(ナー)位(ウェイ)香(シァン)港(ガン)的(ダ)阿(アー)姨(イー)(あの香港のおばさま)」と呼んでいた。出身は「ボドリゴ」で、現在は香港に住んでいるのかもしれない。「那位香港的阿姨」は若者ばかりのクラスだからクラス会なども参加しにくいのだろうと思っていたから、今回参加することを知って少し驚いた。

机の上に並べられた韓国料理が食べつくされていくにつれ、中国語でのおしゃべりもはずんでいった。たいしたことを話したわけではなかったが、中国語でささいなことを言えて相手の話していることがわかることが嬉しく、離れたくないと感じていた。半年間担任として世話になった王先生とも離れたくなかった。それは他のクラスメートも同じだったのだろう、以前王先生が授業中に「学生にうちの国に来てくださいと言われ、その時は社交辞令だと思ったけど、その次の学期に学校に言われて実際その国に行くことになった」という話をしていたのを思い出し、「タイの○○大学に来てください」だの「ベトナムの△△大学にぜひ!」だの言い出した。できることならわたしもまだ王先生に中国語を習いたかったから、その冗談に加わった。王先生は「大学はどこですか」と聞いたので、わたしは「東京外国語大学です」と答えた。それを聞いたとたん、王先生はいつも生徒に向けている優しい笑顔を少しだけ真剣な表情にした。

「……可能性はありますね」

その一言を聞いて、もしかしたら王先生は学校から派遣されうる立場にいるのではないかという直感が頭をよぎった。そういえば、東京外国語大学で学生の中国語の授業を担当していた中国語ネイティブのうち、一人は北語の先生だということを思い出した。中国語を勉強したくて中国に留学したいとおぼろげに思っていた大学二年の秋に、北語から来た蘇先生という先生にどうしたらよいかと単語を並べただけの中国語で相談し、北語についてあれこれ話を聞いたのだった。王先生に蘇先生のことを聞くと、蘇先生のことも知っているという。もし本当に東京外国語大学に来るとしたら、蘇先生の後任としておそらく二年くらい中国語を教えることになるだろうから、日本に帰ってもまた王先生に習うことができる。王先生に中国語専攻のようすをあれこれ説明しながら、実現すればよいのにと思った。

そうして料理もお酒もなくなって、そろそろお開きかというころに、誰からともなくクラス写真をとろうということになり、店員に頼んでクラス写真を撮った。クラスメートがみなカメラを持ってきていたため、カメラがかわるがわる写真を撮っていくのを見て、そういえば、今学期の一番初めに中華料理屋でクラス会を開いたとき、わたしはなんだかお客さんのような気分でいたことを思い出した。あの時はこのクラスがなぜ仲がよいのか不思議で仕方なくて、その輪の中には入れなかった。大皿に盛られた肉料理を取ろうとしたがうまく切れていなかったので、なんとか切ろうと箸で奮闘していたとき、まだ名前もまったく知らないクラスメートが見かねて箸を出して切るのを手伝おうとしてくれた。ひとつのものを二人の箸でつまむというその光景に反射的に嫌悪感を覚え、いぶかしげな顔をしたクラスメートにその嫌悪感の理由を説明しようとしたものの、単語がわからずに説明できなかった。そんなことを思い出しながらクラスメートとともに中国語を勉強してきたこの半年があっという間に過ぎてしまっていることを実感した。

クラス写真を撮り終わり自分のカメラを受け取ると、そのまま先生やクラスメートたちと写真を撮ってまわる雰囲気になった。別れを惜しむ気持ちと、会えたことに感謝する気持ちを不思議と共有しているような気がした。たった半年間教室という空間を共有したに過ぎないのに、この晩会ではクラスメートのひとりひとりと握手をし、一言二言話したいという気持ちに自然と突き動かされるような気がした。

年をとってもこの半年のことを忘れないでよ、と言えば、ファンリェンはぼけたら忘れるかもしれないけど、それまでは忘れないよという。ほとんど話すことはなかったけれど、香港に帰っても元気でいらしてくださいと少し身を正して「香港的阿姨」にいえば、いつも一生懸命だなと思っていたよと右手を差し出してくれる。いつも笑っていたアリヤがどことなく目を赤くして「もしショウウーがみんなのことを忘れなければ、みんなも絶対忘れないよ」といったことばに対して、ほんとうにそうなるのだろうとまったく根拠のない自信を持って「アリヤも忘れないでね」と伝えることができるのは実に不思議だった。

国境を越えて違う国のひとたちと知り合いになれた嬉しさに押されて、突き動かされたように話をしたくなるのだろうか。彼らとともに授業を受けたことで、わたしがこれまで過ごした日本という国は世界に存在する国々のほんの一部分に過ぎず、海を挟んだ先には広い陸地がずっと続いていることに気付く。果てしなく続く陸地にはいろんな国が点在するが、ことばや文化の境界線は国境と一致するわけではない。外側から眺めているだけではすべてが単調で均一に見えてしまうとしても決してそうではない。それは日本にとどまっていたとしたら気付くことができなかったかもしれないのだ。気付くことができたとしても、長い時間がかかったことかもしれない。そう考えるとクラスメートが気付かせてくれたといっても間違いではなかった。彼らが外国人だったということがどれだけ関係あるのかわからないが、彼らは素直に優しかった。彼ら自身の考え方や価値判断を行うときの基準それ自体は、ひょっとしたらわたしとは大きく異なっているのかもしれない。しかしこれまでの四ヶ月間、異国の地でまったく違うバックグラウンドをもつ人々ばかりの中にいて、とまどいや不慣れこそ感じたものの、不快さを感じたり怒りを感じたりすることがほとんどなかったのは、彼らクラスメートたちが意識的にせよ無意識的にせよ寛大な心で接していたからなのだろう。彼ら自身、世界のあちこちから集まってきた留学生という自分とは異なる背景やことば、文化を持った人々と接してきた中で、見知らぬ文化を持った人々とどのように接するか戸惑いながら身につけてきたのだろう。あるいは、北京に来る前から、故郷の国で違う文化を持った人々への接し方を心得ていたのかもしれない。だが、国や文化が異なる人々に対して自分が持ってしまっているある種偏見と呼べる思い込みにとらわれずに、日本人のひとりとしてではなく高級上のひとりとして彼らに接することができたのは、同じクラスでいることが楽しかったからなのだろう。同じクラスで半年学び、たわいもないことで笑い、時には相手の知っていることばの音や生活の中で出合ったできごとについてたずねる瞬間がなにものにも代えがたく楽しい時間だと思えたから別れたくないのかもしれない。

店を出て写真を撮ったり話をしたりして騒いでいると、男性の警官二人と女性の警官一人に声をかけられた。

「Hello.これ何の集まり?」

英語だった。確かに外国人が集団で騒いでいるのは不審に思われても仕方がないといえば仕方がない。地域の治安を守ることは警察の仕事だから声をかけられても仕方がなかった。パスポートを出せと言われたが、誰も持ち歩いていない。わたしたちが顔を見合わせているのを見て警官は、

「もしかしてdormitoryにある?ちゃんとパスポート持ち歩かないとダメだよ」

と言った。

警官の言うdormitoryが「寮」のことであると気付くのに、数秒かかった。まわりのクラスメートも同様だったらしい。何か返事をしようにも、今まで中国語で話していたのだからすぐに英語に切り替えることができない。しかし、同時になぜ英語で話しかけられなくてはいけないのかと不条理にも思った。外国人ならば、英語で話しかけられなくてはいけないのだろうか。中国語で話しかけたところでわからないと思われているのだろうか。

そこで、金髪でいかにも「外国人」という風貌のアリヤが、「わたしたちに話しかけるなら英語より中国語のほうがいいですよ。ここにいる人みんな中国語わかりますから」と中国語で返した。今度は警官たちが顔を見合わせ、ばつが悪そうな顔をしながら、そうだったのか、悪いことをしたね、でもパスポートは持ち歩いてよ、と中国語で話す番だった。アリヤが中国語で返事をしたのは、明らかに見た目で判断されたことに対する、中国語を勉強した人間の意地だったのだろう。ひと目では中国人と区別できない日本人であるわたしと、どうしても見た目で判断されることが多いアリヤとでは、中国での暮らしの中で感じることもまた違うのだろうとぼんやりと思った。

テストが八月上旬に終わり、それから二週間後、わたしは成績表を受け取るために久しぶりに北語の教一楼へ足を運んだ。テストが始まるころにはすでに北語の寮をひきはらい、五道口の駅の近くにある華清嘉園という団地に住んでいたユミコさんという日本人女性の部屋に転がり込んでいたから、北語に行くのも久しぶりだった。教一楼の指定された部屋がある階にあがってみて、そこが半年前に時間割を登録した部屋だということに気付いた。広めの教室に会議用らしき机が円を描いて並べられており、書類の束を机の上において談笑していたことから考えると、どうやらその部屋はもともと教師たちの控え室か教務準備室かなにかのようだった。

王先生は何人かのクラスメートと話をしていたが、部屋に入ってきたわたしに気付くと、つくえに積まれた紙の束から一枚取り出して、

「よくがんばりましたね」

とわたしに手渡した。二つ折りになったその紙を開いてみると成績表だった。成績表には必修科目と選択科目の題目と、その右側に点数らしき数字が並んでいたが、点数が示す成績がどれくらいのものなのかよくわからなかった。ひとまず次学期に高級下のクラスに入れることがわかったのは安堵するに値したが、点数を見てもよい成績を収めただとかもうすこし頑張れたはずだなどという感想を何一つ抱かなかったのは、授業で学んだことは点数で示されるよりも前に納得してしまっていたからだろう。

「ショウウー、そういえば、来学期のことなんですけれど」

突然発したことばに反応して成績表を眺めていた顔を上げると、呼びかけた王先生と目が合った。王先生はやわらかい笑顔を崩さずにことばを続けた。

「来学期、東京外国語大学に行くことになりました」

中国語を聞き間違えたと耳を疑った。聴解力には自信がないから、聞き間違えたのではないか。聞き返そうとしたが、それよりもその場にいた日本人クラスメートが「え~、うらやましい!」と声をあげたので、王先生は間違いなく東京外国語大学に来ると言ったらしい。

クラスの担任であった王先生は、中国語に自信をなくしかけ、授業に必死についていくしかなかったのを何も言わずにこやかに見守っていてくれた。発音が標準的だとか、北京出身だとか、中国語を勉強する学生が教師に求めがちな条件を満たしていて、教え方がわかりやすいのは感じていたことだったが、わたしを含めたクラスメートが王先生を慕うのはそのような理由だけではなかった。晩会でも学生の前では決してお酒を飲まず、馬鹿みたいに大口を開けて笑うこともなく、自然と敬意を払いたくなるような静かな威厳を持っていた。かといって偉そうに振舞って学生との間に厚い壁を作り冷たく突き放すのでもなかった。授業中には少し大げさな身振り手振りや表情で体全体を使って学生に語りかけ、授業が終われば話しかけてくる学生のことばにじっと耳を傾けていた。それぞれの国を離れて中国語を学びに北語へとやってきた学生に対して常にあたたかく接していた。王先生の学生として半年中国語を学べたことで、中国語を好きでいていいのだと心の中で確かに感じることができたように思う。

成績が返ってくれば九月の頭に授業が始まるまでは夏休みだったが、わたしは日本に帰らなかった。日本に帰ったところで特にすることもなかったし、人の部屋に転がり込んで居候させてもらっている身分だったから、香港旅行に行ったついでに帰国したユミコさんの荷物を放置してどこかへ行くのはためらわれた。ユミコさんのもともとのルームメイトであるダンダンという中国人女性が飼っている子猫のミミと遊んだり、近くの喫茶店で中国の物価で考えたら高いだろう一杯十五元(二百五十五円)のコーヒーを飲みながら、中国人観察をしたり、インターネット上で日本の友人とたわいもないおしゃべりをしたりする毎日を送っていた。

久しぶりに田田からのメールで遊びに行かないかと誘われて外出することにし、五道口の駅からバスに十五分ほど揺られてから田田につれられてしばらく歩き、到着したのは教会であった。田田の話によると、数日後にこの教会でイベントがあり、聖歌隊に所属している彼女はそのイベントで賛美歌を歌うという。今日はその練習があるのだと言った。田田がキリスト教徒だということは初めて知ったが、田田に対しての印象は特に変わらなかった。キリスト教を信じているわけではないわたしが中国の教会に足を踏み入れるのは、部外者が無遠慮に覗きをしているようで少しためらわれた。しかし、田田が教会にわたしを連れてきた本意を計りかね、おとなしく彼女に従うほうがよいだろうと思い、階段を上って道路を見下ろすように立っている教会の扉を開ける田田の後ろについて中に入っていった。

まもなく夜になろうとするのに依然としてからっとした熱気を帯びている空気が徐々に心地よくなっていくのを感じながら進んでいくと、黒いグランドピアノが置かれている部屋についた。そこは階段状に席が設置された小ホールのようなところで、高校にあった音楽室が思い出された。ピアノと階段席のあいだの平らな床の上にはパイプ椅子が整然と並べられており、すでに何人かが腰掛けていた。彼らは田田を見かけるとなにやら声をかけ、田田もそれに応じるように椅子に腰掛けてわたしに隣に座るよう促した。言う通りに座ると、まわりの人と田田はにこにことしながら話し出した。辺りを見回すと田田と同じ聖歌隊の人が次々にやってきているのが見えた。どのように練習するのかまったく知らないわたしがひとり紛れ込んで座っていることがいたたまれなく思われたが、いまさら帰るとも言えず、かといって田田に話しかけることもなんとなくためらわれた。しばらくすると黒いマントのようなものを纏った背の高い男性が部屋に入ってきた。そのいでたちでなんとなく神父か牧師だとわかった。その男性が何か挨拶を述べると、わたしの周りに座っているひとがおもむろに立ちだした。立たずにいようかと思ったが、ひとりだけ立たないと何か言われてしまうのではないかと思い、周りに合わせてとっさに立ち上がった。頭を垂れてその男性が中国語でつぶやく祈りのことばのようなものを聴き、周りの人がお祈りをつぶやくのを身動きせずに聞き、そのまま座った。

その後講話を聴くことになったが、中国語が速いのか単語になじみがないのかほとんど聞き取ることはできなかった。男性が話し終わると周りに座っていた人々は自分のカバンをごそごそと探り、ファイルや紙の束のようなものを取り出した。見れば田田もファイルを取り出している。中を見せてもらうとそれは楽譜であった。田田をはじめ他の人々もみな立ち上がり、ピアノの音に合わせて発声練習を始めた。これから練習に入るのだと思い、賛美歌についてもこの聖歌隊の練習の順序についても知らない。わたしがまぎれこんでいるのはさぞ邪魔だろうと階段席のほうへ移動した。

田田たち聖歌隊の人々がさきほどまで講話をしていた男性の指揮にあわせて歌の練習をしているのを階段席から眺めながら、もし自分がキリスト教徒だったら、あるいは他の宗教を信じていたら、その集まりに参加することで中国に来てもすぐに知り合いをつくることができたのではないかと想像した。留学を始めてまもなく五ヶ月になろうというのに「中国人の友人」と呼べる知り合いがほとんどおらず、どのようにすれば中国人の友人をつくることができるか考えていたのだ。もし何か共通の話題をもっていたら、そしてその話題について話が尽きないほどの興味を持っていたら、きっとたやすく友人をつくることができたのではないか。しかし、キリスト教徒であることを利用して友人を増やそうとするのは、自分の利益のために他の人間との共通点を利用しているに過ぎず、まるで昔のつてを頼っていかがわしげな壺を売りつけるようなものだと思った。それにたとえ共通の趣味を持っていたとしても、どうしても馬の合わない人間はいるだろう。あまりに単純で焦った考えであることに気付き、恥ずかしくなった。

どのようにしたら中国人の友人とうまく仲良くしていけるのか。答えが出そうにない問いに思いをめぐらせていると、田田たちの聖歌隊の練習がひと段落ついたようで、聖歌隊のメンバーは部屋の外とぞろぞろ歩いていった。三十分ほどの練習でもうおしまいかと思ったが、田田がわたしのところへやってきて、

「これから大講堂で入退場の練習するの」

と教えてくれたので、わたしもその列の後ろについて移動することにした。

聖歌隊の人々について到着したのは、千人は座ることができるかという大講堂だった。聖歌隊の人々が演台の置いてある舞台上へ移動すると、マッチ棒くらいの大きさになった。もしかしたら海淀区一帯のキリスト教信者はみなこの教会へと集まってくるのではないかと思わせるほどの大きさにわたしは驚かざるを得なかった。舞台上で入場と退場の段取りを男性の指示で確認して練習を数回繰り返すと、聖歌隊の人々が三々五々散らばっていくのが見えた。

「おまたせ。練習終わったから、どこかでご飯食べて帰ろう」

田田が笑顔でわたしのところへと駆け寄ってきた。わたしたちは近くの店を探すため教会を後にした。

山のように盛られた酸辣土豆絲をはさんで、田田は牧師だか神父だかが話してくれた講話について説明をしてくれた。家族みんなキリスト教徒なのだとも話してくれたが、小さいころからそうだったから自分にとって教会に来ることはごく自然なことだと言った。そこまで話すと田田は箸を止めて、

「別に勧誘しようとか、キリスト教のよさを宣伝しようとするつもりはないよ。神さまを信じるとか信じないとか、個人の自由だし」

と付け加えた。今日遊びに誘ってくれたのは田田がわたしと遊びたいと思ったからで、別に宗教に勧誘したいからというのではなかったのだ。必要以上に身構えてしまったことに申し訳なさを感じた。田田は社会人で、仕事をしている以上それなりに忙しいのだろう。それでもせっかく出会うことができた日本人の友人と時間を過ごしたいと思ったから、教会へ誘ってくれたのだろう。田田自身のためか、わたしへの配慮からなのか、近頃ほとんど連絡を取らず遊びにも行っていないことを気にかけていたのかもしれない。

食事を終えるとすっかり遅くなっていた。教会のある中関村のあたりから五道口へ戻るバスがすでに終わってしまっていたため、歩いて帰ることにした。中関村は五道口の南西に位置し、多数のIT産業や研究所が集積する「中国のシリコンバレー」である。しかし秋葉原のような電子製品街としてのほうがなんとなくなじみがありパソコン関連商品の安売り店などがたくさん並んでいるところというイメージがあった。

夏の夜の表通りは「電子城」と呼ばれる建物群の明かりやおびただしい数のタクシーのヘッドライトでまぶしいほどに明るかったが、すこし道を外れていくと表通りの騒がしさが嘘のように静かだった。空気がきれいとはいえない北京の中で空気がよりよどんで見える中関村にしては珍しく星がいくつか見えた。わたしたちは遠くに見える看板を横目に、たわいのない話をしながら歩いた。

ふと、道の右手にIT産業の会社名が書かれたネオンが見えると、田田は、

「あれだよ。今行こうかどうか悩んでるとこ」

と指差していった。見ると電気商品の町である中関村の中でも目立つ、とりわけ大きなビルだった。以前、田田が仕事を変えようか変えまいか話していたのは覚えているが、聞き取れなかったのかあるいは田田が話さなかったのか、中関村にある店だという話は知らなかった。

「それで結局どうするの」

「お給料はこっちのほうがいいんだけど、でも今働いてるところにもよくしてもらってるから。メンツってものを考えるとね」

と少し困ったように言った。中国人はメンツを重んじるということは聞いていたが、田田のような若者の口から出てきたのにはすこし驚いた。これまで、いい格好をしたがるとか、見栄を張るとか、外面よく振舞うということを、あまりいいものとして考えたことがなかった。しかし田田の話から考えると、メンツには相手がしてくれたことに対してふさわしい対応をするということも含まれるらしい。自分の利益だけを求めて周りに感謝しないのと比べたら、メンツを重んじるということも理解できるように感じられた。

「そうだ、日本で流行ってる歌をなんか教えてよ」

ぼんやり考え事をしていると、田田がだしぬけにそういった。そのふいうちの依頼にわたしはただ戸惑うしかなかった。半年中国で生活しているわたしは日本の流行歌に対して敏感にアンテナを張っていたわけではなかったから、日本で今まさに流行っている歌はすでにわからないものとなっていたし、たとえ日本にいたとしても流行の歌を積極的に知ろうとすることはなく、一部分をあいまいに口ずさむことはできたとしてもはっきりと歌うことはできない。ましてや歌を歌うのだって苦手で恥ずかしさを感じてしまう。

「ごめん、よくわからないや」

「そっか」

田田は残念そうだった。何か教えてあげられたらよかったのに、とリクエストに答えられなかったことを後悔した。

それから田田からのメールは来なくなった。何度かメールを送ろうと思って携帯電話を開いた。だが田田を遊びに誘うことに対して感じるいくばくかの違和感が邪魔をしたこともあったし、一緒に過ごしている時間のあとに感じる息苦しさを思うとどうしてもメールが打てなかった。そのうちまた田田からメールをくれるだろう。その時に気が乗れば遊びに行こう。そう言い聞かせて結局携帯電話を閉じてしまった。

八月中ごろにユミコさんが中国に帰ってきて、わたしたちは新しく部屋を探すことにした。

結局、これまで住んでいた部屋の九階上に部屋を借りて、ふたりでルームシェアを始めた。そうして、新学期がまもなく始まろうかという八月末、メールを一通受け取った。出かけることが多いユミコさんは家にいたし、前学期のクラスメートのうちわたしにメールを送りそうな人は思い当たらない。誰からだろうと思い、携帯電話の画面を見るとそれは田田からだった。

「今日と明日は世界の姉妹デーだよ。これを最も大好きな姉妹に送ってね。八通以上送ると幸せな一年が待っているよ。君に伝えたいだけなんだ、ベイビー、君はわたしの一番好きで一番大切な姉妹だよ! 返信可」

チェーンメールのようなもので、おそらく文面は田田が考えたものではないだろう。姉妹デーというものがある程度公式に認められているものなのか、あるいは若者の間で流行っているものなのかは掴みかねたが、「姉妹」ということばからは、田田が私のことを大切な友人と思っていることがわかった。そう気付いたとき、田田の気持ちに対して申し訳なさを抱いていることに気付いた。

わたしは中国人の友人をもつことにこだわりすぎていたのかもしれない。確かに田田は中国で生まれ育ち小さいころから中国語を話していただろうし、話を聞く限りでは両親も間違いなく中国人だったから、田田は中国人に違いなかった。だから田田と遊んだり話したりして、中国語を聞いて話す機会を増やすことができたし、中国人の友人ができたとよろこぶこともできた。しかし、実際に田田が「中国人の友人」となり、中国語で話す練習ができるようになると、奇妙な違和感を覚えざるを得なかった。

田田のことを「中国人の友人」として捉えていた。しかしなんとも説明がつかないけれど、話が合ったり離れがたかったりする人間のことを友人と呼ぶならば、そこにわざわざ中国人という説明を付す必要はない。それでも「中国人の友人」として田田を捉えていたとすれば、それは中国人であるということに重きを置いていたことになる。「中国人の友人」を中国語の練習に付き合ってくれたり、中国のことを教えてくれたりする人として考えているということは、田田という人間の中国に関係ある側面しか見ていなかったのではないか。しかも中国に関する側面のうち、中国語を勉強する日本人に対して見せる面にしか興味を持っていなかったのではないか。もちろん、誰かほかの人に田田のことを話す場合、「中国人の友人が……」と話を切り出すほうが、イメージをつけやすく相手にとって理解しやすくなることはあるかもしれない。しかし、それはあくまでも第三者とのあいだのことであって、田田との間で持っている必要はないのではないか。

田田はきっとわたしと仲良くなりたかったのだろう。それは一人の日本人としてのわたしや日本語で育ってきたわたしではなく、あの日バスの中で出会ったわたしだったはずだ。日本人とふれあい、日本の文化を理解しようだとか、ネイティブの日本語に触れてリスニングの力を向上させたいとか、大上段に構えてはいなかった。バスの中で出会ったときには日本語を勉強していることを口実にしたが、本当はそうではなかったのだろう。わたしも同様に彼女と仲良くなりたかった。だが田田となにを話してよいかわからなかった。何かが決定的に足りなかった。彼女と話すことができるものを何一つ持っていなかった。

おそらく、「友人」として必要な何かが足りなかったのだろう。田田とは中国語でたくさん話すことができたし、少しすましたような彼女とたわいもないことを話すのはそれなりに楽しかった。しかし話題になることは日本語のことと、中国語のこと、中国の生活のことそして田田の仕事のことだった。留学している北語のクラスのことを話すこともできたはずだった。授業で勉強した文章の内容を話題に、たとえば昔の北京の姿のこととか、中国の男女の役割分担についてとか、あるいは京劇のこととか、こんな文章を読んだのだけれど田田はどのように思うのか聞いてみてもよかったはずだ。あるいはクラスメートの留学生にこんな人間がいてこのようなことを話していたとか、この国ではこんな行事があるらしいとか、わたしが一番長い時間を過ごす空間のことを話してもよかったはずだった。しかし田田とのおしゃべりの中に中国語を勉強する大勢の外国人を登場させるのはなんだか気が引けた。ほんとうは一番好きな教室のなかのことを話したかったはずなのにそうすることはできなかった。外国人が中国で感じたことを田田が理解してくれるとは考えづらかったのではないか。それでも田田とは仲良くしていたかったから、何とかつながりを持ち続けたくて、中国語の練習ができる中国人の友人ができたと喜び、中国人としての彼女と接していたのかも知れない。

一人の中国人である田田と出会ったことは、飾らない彼女と話す機会を私に与えてくれた。しかし、北京という各地から多くの若者が集まってくる街で、若者がなにをどのように感じ、どのように暮らしているかわたしが知ることはできても、それは話を聞いただけの理解にしかならなかった。ことばを学ぶだけなら田田と話をすることはできたかもしれないが、なにかそれ以上のことはすべてもやのような厚い壁の向こう側にあるように感じられ、それを破るには何かが足りなかった。

縁があれば遠いところにいても出会えるが、縁がなければ向かい合っていてもめぐり合えない。それを中国語では「有縁千里来相会,無縁対面不相逢」というのだと教えてくれたのは田田だったが、縁だけでは物足りないときもあるのだろう。だが、まず縁があって出会えたことを喜ぶべきで、そのあとのことはまた違うことなのかもしれない。


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