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毒親と子供ガチャ【箱庭の詩】

『家族とのつながりを責める前に、自分の心に問いかける』


私は親の理想の子供にはなれませんでした。

親の期待には応えられない子供のまま、大人になりました。

そんな自分の子供の頃を振り返ってしまいます。

頭が良い子供が欲しかったんだろうな。

スポーツ万能な子供が欲しかったんだろうな。

勉強ができる子供が欲しかったんだろうな。

いつも笑顔いっぱいの子供が欲しかったんだろうな。

手のかからない子供が欲しかったんだろうな。

何でも言うことを聞く子供が欲しかったんだろうな。

友達がたくさんいる子供が欲しかったんだろうな。

いい子が欲しかったんだろうな。

いじめない子供が欲しかったんだろうな。

積極的できらきらしている子供が欲しかったんだろうな。

受験も頑張って合格して欲しかったんだろうな。

優秀な子供が欲しかったんだろうな。

国家資格のある学科の大学に行ってほしかったんだろうな。

部活にバイトに忙しくても充実している子供が欲しかったんだろうな。

お金をたくさん稼いで楽させてくれる子供が欲しかったんだろうな。

若くして結婚して欲しかったんだろうな。

私が子供を作って自分の孫を世話をしたかったんだろうな。

自分の世話をしてくれる子供が欲しかったんだろうな。

お墓に積極的に参ってくれる子供が欲しかったんだろうな。

この子を産んで良かったと思える子供が欲しかったんだろうな。

と、申し訳なさで頭がいっぱいで、私は涙を抑えきれませんでした。

私はどれにもなれなかった。

何も恩を返してあげられなかった。

迷惑ばかりをかけて、恩を仇で返していた。

恩を返そうとは思っていた、というのは言い訳だった。

どうにかして自分を変えようと努力して、結局破綻して引きこもって助けられるのを待つばかり。

私は泣いたり、せびったりする天才だったから。

なぜ変われないのだろうか?

なぜ理想を叶えてあげられない自分がこの世に存在しているのか、分かりませんでした。

私など死んでしまった方が、幸せに貢献できるのにと、死を願うばかり。

AD(アダルトチルドレン)だとか鬱だとかなにかしらの病気だとか、多分きっとそうじゃない。

枠組みにはめてしまえば、とりあえず自分のせいではないと安心感を覚えるし、他にもそんな人がいるから君は悪くないと言って欲しいから、そういう所に逃げてしまっているだけ。

そんな自分にさえ嫌気がさして、そうして自分を殺していく。

自分を殺して理想になれば、生きてていいのかな? 生きることが許されるのかな? と思っていました。

でも、そうじゃなかった。

そこに本質はなかった。

私はあることに気づくことになりました。

それは、私こそが『理想の親』を求めていたんだということに。

その本質に気づきます。

よく頑張ったね、偉いと言ってくれる親が欲しかった。

愛しているよと言ってくれる親が欲しかった。

ありのままの君が好きと言ってくれる親が欲しかった。

自慢の子だと言ってくれる親が欲しかった。

どんなことも応援してくれる親が欲しかった。

勉強ができなくてもいいよと言ってくれる親が欲しかった。

何も聞かずにぎゅっと抱きしめてくれる親が欲しかった。

好きなことをして生きていいよと言ってくれる親が欲しかった。

いつでも帰ってきていいよと言ってくれる親が欲しかった。

幸せになってねと言ってくれる親が欲しかった。

生まれてきてくれてありがとうと言ってくれる親が欲しかった。

私はただ、『無償の愛』が欲しかっただけで、愛を貪り喰いたいだけだったことに気づきます。

お互い様だったんだと思います。

こんなどうしようもない自分でも許してくれると信じていたんです。

私達は他人にはあまりにも無関心のくせして、身内になったとたんに理想や欲望を惜しみなくぶつけてしまいます。

恋人だろうが、配偶者だろうが、子供だろうが、親だろうが、親戚だろうがです。

身近な存在になった途端、自分と同化していると勘違いするなんてどうかしています。

『親と子供は別々の一人の人間です』なんていわれても言葉の意味を何一つ理解できていないのです。

私達は弱い。

理想を他人に預けようとしてしまうほどに、私達はとても弱い。

では、強くなるためにはどうしたらいいのでしょう?

どうすればよかったのでしょうか?

これからどうすればいいのでしょうか?

まずは、『どうしようもない自分を認めること』。

どうしようもない自分だったからこそ、この事実に気づけたんだと認めることです。

この言葉の本当の意味を理解することができる時があるのだとしたら、自分が死ぬ瞬間しかないのだろうなと思います。

だからせめて子供としての理想を叶えられなかった以上に、自分は親に理想を押し付けていた事実を認めるしかないのでしょう。

これには自分を省みず、相手を思いやる力がとても大切です。

生半可ではつぶれてしまうのでとても難しい事です。

そして『親(と理想)を許すこと』。

親も自分と同じ一人の人間であり、自分と同じように理想をぶつけ合ってきた仲です。

できるできない、理想を叶えられるか叶えられないかはとりあえず脇に置いて、許します。

相手を、自分を『許す』というのは親切よりも難易度が高いです。

私達は生まれた時点で、『許す』という難易度の高い人生に必ず挑むことになります。

理想をぶつけ合ってきた親子の仲なのに友達にはなれないなんて一周まわって摩訶不思議です。

それもまた親子の関係というものなのかもしれませんね。

そして親子の間柄でしか築けない(気づけない)学びなのでしょう。

『どうしようもない自分を認め』、『親(と理想)を許す』こと。

それ以外にはないと思います。

もしも親の理想を叶えようとすると自分を殺すことになりますし、どうしようもない自分を認めないままだと、いつまでも自分が成長せず自立することができません。

理想を叶えることは、結局は八方塞がりなんです。

本質ではないから、その先に道はないのです。

それほどまでに『許す』ということは大事だと思うのです。

そうして『許す』を乗り越えると、道ができます。

というより、生まれる前から決めていた道を自分で暗雲を搔き分けて乗り越えたといった方が近いかもしれません。

許しとはしがらみから解放されることでもあるからです。

親は誰でもなれるわけではないけれど、誰しもが子供時代を経験します。

今回は子供としての自分に焦点を当てて思索しました。

もしも、どうしようもなく救いようのない私でも言葉で、文章で少しでも助けになれたのなら、私にとっても救いになります。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

私を救っていただきありがとうございました。

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