難しいこと何も考えたくない感情を動かしたくない疲れてしまった
好きなものであってもマイナスな意見をよく見てしまう。それで耳の痛い意見だなと思いつつスクロールしてしまうのはなぜ?
キラキラオタクが世に蔓延して 私のような生き方がオタク、何にハマっても地の底を這いずり回る人間には「推し活」はできないんだなと実感。 好きなバンドはファン内でちょこちょこ燃えるようになった。元から中高生に刺さりやすい感じではあったけど、だるいのはコロナ禍入り中高年ファンだ。 どこから入ったのかまじでわからんな。配信ライブもやってなかったし、単純にYouTubeの MVや、ライブ映像からか? 今から愚痴を書くが、分かる人には分かると思うし、意見が違ったらそっと携帯を投げてく
好きなものをなんでも「推し」と呼ぶな ①語義が人によってバラバラだし、下手に「推し」という言葉が広まったせいでモヤモヤする 私は自分の中で細かく概念を分けるタイプなので、 好きなアーティストは「好きなアーティスト」というし 好きなアイドルは「推し」と呼ぶ。 分けている。自分の中で明確な違いがある。 本人たち自身がが受け取り手に消費されることに合意しているか、だ。 (ここでアイドルを消費していることについては省く。オタクのアイドルの消費の仕方には色々あるし、それに対して
正月。帰省シーズン。 今年は心を決めて、帰省した。 私の地元は田舎だ。最寄り駅は今だにICカードが使えない。そんな場所。 母親と父親の二人暮らし。 今年祖父が亡くなり喪中なので 親戚の家に行く前のバタバタとした準備も、 大掃除もほどほどで、三社参りもなく、 みんなが家にいる、そんな正月になるのは見えていた。 母親がご飯を作るのをただ待ち、野菜を持っていけと姉に言う父親 夕飯の準備と友達と会う姉の送迎でバタバタしている母親 友達に野菜を持って行く旨の連絡をし、野菜を袋
オタクって何か疲れるなって思った。 こういう時期が時々来る。 推し自体に冷めている訳ではないから 冷め期とかじゃない。きっと、 応援ってなんだろう。 ただ好きで、心の中で思っているだけでは ダメで、 何かを買ったり、投票したり、ライブに行ったり 何か成果の見えるものにしないと行けない 見えないノルマがあるような気がして 最近疲れてる。 思いは、冷めるのは早い。 私はそそっかしくて余裕がすぐ無くなる 人間だから、推しを見て救われる時もあれば、 そんな暇ない!!って時もあって
楽しかった 自分の行動を客観視する癖は やっぱり抜けないけど 楽しかったな 好きなバンドと好きなバンドが リスペクトしあって音を鳴らして 私はそれを楽しむ ライブは楽しい 心臓が私のものじゃなくなって 向かい合う演奏者に取られちゃって その音が鼓動になってる感覚 言葉も鼓動も 全部委ねて楽しさで眠るような わくわくしてもう寝なくてもいいんじゃないかって錯覚して もう何も食べなくてもいいんじゃないかって腹具合見誤って これを何回もしたい何回でも馬鹿になりたい 楽しそ
今日から毎日何かしらについて書いていきたい。アウトプットの練習。
1人の時間は自分の汚さに気づく。外見ではなく内面が。
学校の先生になれる気がしない。 学校が好きだった時もあるけど、人間関係はむずしかった。 「友達を作る用」の私がいて人に合わせるための趣味があり、「人に示す用」の私のパブリックイメージを作った。 学校にいた時全部が全部そうだったわけじゃない。もちろんでも素で出た行動が理解されないと悲しかったし「変わってる子」というレッテルがまた付いた。 小学校の時、友達が女の子・男の子に変わっていった。 私たちはそんなものに縛られずただの友達だったじゃないかと悩んだ。 自認は女だけど、「
教師になりたいって思ってた。 子供のころの私を褒めて欲しかったから。 自分のことを認めて欲しかったから。 他の女の子たちと同じものを好きになれなかった自分を受け入れて欲しかったから。 私の嫌なところさえも認めて欲しかったから。 親が何もしてくれなかった訳じゃない、 けれど、どれだけ褒めてくれても足りなかった。 言えなかった。自分のことを打ち明けるのが怖かった 自分の好きなもの、好きなこと、 うまく伝えられなかった。 小6の時の先生は楽しそうだった。 自分の好きなこと
感情が動くのは疲れる。 楽しくても、ニュートラルに戻す力が必要になる。嫌だったり、悔しかったりすると負の感情から抜け出さなくてはならない。
人生って、ネプリーグのトロッコの第4問目の落ちるとこに似てる。 正解しても不正解でも、不安で、 どうせ落ちるって不安になるって分かってても 怖くて、どうあがいても、くるって知ってるのに、 戻ることもできないのに、戻りたいってやめたいって思う。 落ちてる瞬間は何が正解なのか知れない