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ベジータはなぜ“不老不死”を願ったのか(#70)

2024年3月22日、サウジアラビア政府は漫画ドラゴンボールのテーマパークを建設すると発表しました。

奇しくも3月1日に原作者である鳥山明さんがお亡くなりになったタイミングと重なり、世界中で悲しみに暮れている矢先でした。
このところサウジアラビアでは国を上げてコンテンツビジネスを強化しています。
サッカークラブへのスター選手招聘を始め、ボクシングのエキシビジョンマッチなどもこの流れを汲んだものです。

元々は“西遊記”風アドベンチャーアニメ?

そんなドラゴンボールの主人公は孫悟空で、孫悟空の名前からも分かる通り、元々は西遊記風のアドベンチャーアニメでした。

なお、西遊記とは“玄奘三蔵の長年の旅を記した地誌『大唐西域記』をベースに、道教、仏教の天界に仙界、神や龍や妖怪や仙人などが入り乱れた口語調の小説”で、玄奘三蔵の波乱の人生と無敵の仙猿・孫悟空の活躍を交差させながら、玄奘三蔵一行が天竺(インド)を目指し、最終的に取経(お釈迦様の悟りを知る)を果たすまでを描かれたものです。(引用:Wikipedia)

ドラゴンボールの世界観はそんな西遊記の「旅」に通じるものがあるかもしれません。

ドラゴンボールを探す旅」、そんな感じです。

ただその中心テーマが分かりやすい形で残っているのはフリーザ編まででその後のセル編、魔人ブウ編ではこのドラゴンボールを探すというアドベンチャー要素より、むしろ戦いの要素が色濃くなった印象があります。

ところでドラゴンボールの最大の特徴は何でしょうか。

それはドラゴンボールを7つ集めると「1つだけ何でも願いが叶えられる」ことです。
※1つというのは改良前のドラゴンボール(後のセル編以降)の話

写真:Dragon Ball Wiki

そしてこの「1つだけ何でも」がサイヤ人編からだんだんと戦い要素が濃くなった影響もあり、「死んだ人間を一度だけ蘇らせることができる」ことへ重きが置かれるようになっていきます。

このドラゴンボールにまつわる「生死」と戦いの旅という要素がちょうどいい按配で融合していくのが「サイヤ人編とフリーザ編」です。

ちなみに孫悟空もサイヤ人です。
純粋なサイヤ人は悟空の活躍する時代に悟空を含め、4人しかいません。
そのうち2人は地球での悟空たちとの戦いの中で亡くなります。
悟空以外で残ったサイヤ人はベジータで、彼はサイヤ人の王子です。

写真:Dragon Ball Wiki

ベジータはドラゴンボールの存在を地球で知ったのですが、彼が使用していたスカウターを通じでフリーザもドラゴンボールの存在を知ります。
情報化の時代といえども、遠隔でこの速度にて伝達する技術は驚異的です。
また情報共有する妙な結束力に感心せずにはいられません。

ベジータは地球での戦いで九死に一生を得たのち、先んじてナメック星遠征しているフリーザを追い掛けるようにナメック星へ向かいます。

同時に地球のドラゴンボールは石化してしまいました。
理由はピッコロの死で、ピッコロは元々ドラゴンボールの作り手である神の分身でどちらかが死ぬとどちらも死んでしまう、そんな関係でした。

地球での戦いで悟空たちはピッコロのことをナメック星人だと知るのですが、サイヤ人との戦いで死んだ仲間たちを蘇らせるためにナメック星を目指す――そこまでがナメック星へ向かうまでの大まかなあらすじです。

フリーザやベジータが“不老不死”を願った理由

フリーザもベジータもドラゴンボールで叶えたい願いは共に「不老不死」でした。
ふと「どうして?」と感じたのですが、面白いことに「不老不死」は「ドラゴンボールを探す」旅であった西遊記風に通じる古代中国の思想に繋がります。

「不老不死」とは神仙思想の一角をなすものです。
尚、中国文明以外の三大文明であるインダス文明、メソポタミア文明でも不老不死に関する記載は残っています。
古代思想を形成する一つとして中国文明、そしてその文明から通ずる神仙思想の神仙とは神、仙人、仙女を指し、それらは不老不死を求める人々の象徴的存在でした。
仙人、仙女は不老不死を希求し、修行の後に到達した人です。
大雑把にいうとこの神仙へ至る過程を「道」といい、その教義を「道教」といいます。
この思想は現代中国の最大民族でもある漢民族の思想形成とも密接に関わっているものです。

ベジータの“不老不死”が実現したら…

話を戻します。

結果的には実現していませんが、宇宙人でもあるフリーザやベジータが「不老不死」を実現したらどのようになったか想像してみましょう。

フリーザは当時全宇宙最強の戦闘力を備えていましたから、永遠のフリーザ帝国を築くイメージができます。

しかしながら、ベジータについてはなかなか腑に落ちません。

まず「不老不死」を実現したところで戦闘力がフリーザ以上になるわけではありませんから、それを手に入れたところで長い“苦難の道”が待っています。

不死身になっただけでフリーザを抑えるほど強くなるわけではないのですから。

それどころか痛みは若さに関係なく痛いですから、誰かがフリーザを倒さない限り嬲られ、いたぶられ、負け続ける時間を過ごすしかなくなります。

すなわちあるのは「生き地獄」ーーそれなのにどういうわけかベジータは「死ななければ」という願いに盲目的でした。

北野天神縁起絵巻(承久本)部分(北野天満宮蔵)

実はこの「永遠に続く生の苦しみ」や「死による終わりのない苦しみ」として愚行だと戒める寓話や神話など古今東西より多く残されています。

しかしそれらを合わせて考えてみるとベジータは“仙人”を目指す、まさに道教へ敬虔な存在とも言い換えられるかもしれません。

ベジータにあるのは常に“強さ”を求めるモチベーションであり、生きる目的であり、目標です。

彼は“強さ”に純粋で“苦難をも打ち勝つべき対象”としてみていたのかもしれません。

そんなベジータの「戦闘民族」サイヤ人の王子たる自尊心はどことなく神々しささえ感じてしまいます。

ドラゴンボールで出てくる西遊記風の“突飛さ”は現実の中で混交した“理想”をベジータを通して覗かせるようでした。

生き馬の目を抜く現代社会の中で、我々は否応なく競争に晒されています。それは年齢を重ねるごとにライバルが増え、各々勝負のスタートラインも条件も変わっていきます。
もしサイヤ人のように「強くなっていく」ことが人生の目的だとしたら、我々にとって本当に大切なのは“死にかけながらも死なずに強くなっていく”サイヤ人のような気概なのかもしれません。

勝ちも曖昧なように負けも曖昧です。

ただ明確なのは“死ななければ(諦めなければ、「ベジータでいう「強さを求め続け』るならば」)、負けではない”――

ぼんやりベジータを考察してみたら、少し見直した、というそんな話でした。

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