【日記】属人的

 学ぶべきことはたくさんある。
 属人的な仕事とは何か、考えていた。

 あるラジオで、「金剛組という、平安時代から続いている会社など、世代を超えて続いている企業の特徴は、属人的要素を可能な限り排していることである」ということを聞いて以来、それが印象に残り、少なくとも、会社を回すことに関してだけ見れば、属人的要素は、出来るだけ出て来ない方が良いものなのだと無意識のうちに考えるようになった。
 だが、属人的要素を排するとは、どういう事態のことを指すのだろうか。
 属人的、つまり、「その人でなければできない仕事」を排する。つまり、誰がそこに来てもやることが出来る仕事だけで構成されている……いや、金剛組が生き残ったことを指して言うのであれば、そんな、マックのバイトみたいな部分のことを言っているのではないはずだ。おそらく、会社のトップのことを指しているのだろう。マッキントッシュを生み出した会社の、あの黒いセーターを着ていた男、これは持って回った言い方をしたいのではなく、マジであの男の名前が出て来ないからなのだが……マジで……その人が死んだらアップルは何だかくすんでしまった。どちらかというと、その話の方に近いのだろうか。ビル・ゲイツはまだ生きているものの、もう大きくなり過ぎた会社をまとめたり、方向性を示したりする位置にはいなくなっている。
 彼らのように、会社を大きく大きくしようというモデル自体が、会社の永続というものの邪魔をしているのだろうか。金剛組は、ほんの十何名という社員をずっと保っている。一時期、普通の会社のように振る舞っていた頃もあったが、伝統的な宮大工の仕事に戻ったと、ウィキペディアを見たら書いてあった。
 いや、そもそも、宮大工という、経済圏からこれ以上ない所に隔絶された集団をさして、会社と言ったり、中世と現代の障壁をないもののように指したりすることが間違っているのだろうか。絶対に間違っているのだろうが、この記事はそれは承知で書き始めたことだ……。
 もう一度、会社というよりは、「属人的」という、今まさに自分の身の振り方に関係のある考えに立ちもどることにする。
 僕は、他の人より、どうしても属人的な働き方をしてしまう向きがある。〇〇さんでなければ、と言われたいのだろうか。しかし、それは一時的な快であり、回り回って、たとえば同じことがほかの人にはできないからと言われるなど、従業員と顧客の双方に被害を与えることもある。しかし、回り回って何かが起きていることは、大体気付くことができない。もう因果関係は遠くにあって、何か悪いことが起きてもまるで自分とは関係がないように見えることがほとんどである。
 では、金剛組などが言っている、あるいは直感的に感じて経営に生かしていることは、その場限り、一代限りの因果に捉われるのではなく、何代も先を見据えて、今は透明で一見仕事にも見えないようなものにこだわることによって、何代か先の子孫に利益をもたらすことが出来ると、大げさに想像すればそのようなことなのだろうか。
 経営や社会学的なことは、少なくとも学生時代から、三十に差し掛かるまで、苦手なことだった。物理学とか、科学、また人文系でも小説か何かであれば、嘘をつかない。結果が歴然と出る。小説の場合は、自分が抱きうる感懐だけは、外部的な要素に邪魔されずにそこにある、という感覚がある。
 一方で、社会や政治や経営といったものは、何だか正しいものに向けて動いているという感じがしない。少なくとも当時はそう感じていた。また、正しいものの方向がわからない。そもそも必要なのか、科学なんかのラディカルなジャンルに比べると、前提とする自明ではないものごとが多いので、学として恣意的な感じがある。
 今はそうは考えない。人間が生きる上でのまず大前提がそのような、たとえば社会基盤とか、経済的基盤とかにあるのだから、まず無視することができない。経営にしても、自分が経営しているのではなくても、どこかの会社に属しているのであれば、その会社の経営が、自分の生き死にに関わっているのである。
 それだから、必要であるというのはわかっているんだけれども、青年期に形成された嫌悪感、というと少し語が強いけれども、反射的に無視してしまうような性向は、消えないので、必然的に知識も少なくなってしまう。
 なので、今後はこういったことにも、知見を増やしていこうと思う。
 いや、本当は、こんな話を書くつもりではなかったのだが……。

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