ボカコレがボカロ文化に与える影響(後半)
3.ボカコレの目的
利益だ。
当たり前の話だが、ボカコレを主催するドワンゴは株式会社であり、政府でもなければNPOでもボランティア団体でもない。
通常、企業活動は、そこに利益が生じる見込みがあるから行う。
ボカコレは利益事業の一環として行われているはずだ(私は社員ではないので、断定はできないが)。
ニコニコ動画やYoutubeといった動画配信事業は、主に広告費でペイされている。私たちがアップする動画は、視聴者を呼び込み、広告主の広告を見せるためのコンテンツだ。
各ボカロPは、ニコニコ動画に無料でコンテンツを提供する見返りに、動画をブロードキャストする許可を得ていると解釈してもいい。
広告主とドワンゴがどのような契約を締結しているのかは知る由もないが、仮に従量式であった場合、視聴者が動画(ひいては広告を)をたくさん見れば見るほどドワンゴには広告主からのお金が入ってくる。
運営側としては、いかに大量に人を集めるかが重要なポイントになる。
ボカコレはカンフル剤だ。
メディアに露出させる。イベントの知名度を上げる。メジャな企画として認識させる。2023夏のように著名なボカロPをたくさん呼ぶ(勝手に集まったのか取引があったかは不明だが、私が運営ならもちろん取引を行う)。
このような手段をとることで、視聴者を呼び込む。
これら対策は一般リスナ向けといってもいい。
では、投稿を行うボカロP側に対する対策はどうすれば良いか?
これ以降の話が重要になるのだが、何分推論ばかりなので、話半分程度で聞いてほしい。
性格のねじ曲がった小豆沢Qが運営にいたらどう行動するか? という仮定の話と思っていただいてもいい。
私なら、対立をあおる。そのほうがインプレッションが増えるからだ。炎上商法じみた方法である。
なので、ランキングは必須。対立が激化すればするほど、「負けるものか負けるものか」と広告費をつぎこんでくれる投稿者が増えると考える。嬉しい。
毎時ランキングというのもいい。それを見える化しておいて一喜一憂させる。ポイント化はしない。順位だけ表示させる。どの程度差があるかわからなくする。そうすれば、ランキングに載っていても不安になり(1ポイント差かもしれない)、頑張って広告費を追加で入れたり、自薦して再生数に貢献してくれたりする行動を促すことができる。これはかなりいい考えだ。
みんなで投稿して適当に好きな曲探して聞きましょうね、ではいけないのだ。競うように浴びるように再生してくれなくては、カンフル剤としての意味がない。
なので、期間もシビアに数日間とする。長期間になれば競争がだれてしまう。投稿者の精神力がぎりぎり続きそうな3~4日でどうだろう?
参加者数を大量に確保したいから、ランキングを正面切っては出さない。100%コンテストにすると、一部の参加者に尻込まれるかもしれない。そうだ。お祭りだよ、みんな気軽に参加してねというラッピングを施そう。これでさらにインプレッション数が稼げる。ダブルスタンダード感はぬぐえないが、背に腹は代えられない。
他に何か問題はないか。
自薦やマイリスが過激化して困る? 運営さんどうにかして?
馬鹿をいっちゃいけない。過激化=再生数UPなのだ。つまり広告主からのリベートUPなのだ。禁止するわけないじゃないか。
自分の曲を宣伝することは悪いことじゃない。みんなやってる。これは本当に。
以上。私が運営だったらという架空のストーリィだ。
もし、皆さんが運営だったらどう行動するだろうか?
考えてみて欲しい。ぬるいことをやって利益が出なければ、最悪プラットフォーム自体消滅するのである。
(旧Twitterは驚くほどの赤字を垂れ流し続けていたことはご存じだろう。イーロンマスクの改革に対して結果を見ずに文句を言うのは、単なる感傷でしかない。何も変化させなければプラットフォーム自体が消滅するのだから。彼がさらに赤字を膨らませたときに初めて文句を言おうじゃないか)
個人やグループが主催する投稿祭と決定的に違う部分がここにある。
彼らは何も見返りを求めていない。ボランティア精神や好奇心で自分の時間を使って運営している。
解釈を誤ってほしくないのだが、この架空のお話、運営のスタンスが悪いと言いたいのではない。社会の歯車に飲み込まれていれば当然の行動だと考える(私ならこうするという話なので当たり前ではあるが)。
4.ボカコレがボカロ文化に与える影響
ここまで考察してきた限りでは、誰も致命的に悪い人はいないように思えないだろうか。
利益を追求しなくてはならない会社として当然の行動。
それにより分断され、当然の不満を述べる参加者。
しかし、ここには合成の誤謬とも言える致命的な欠陥がある。
合成の誤謬とは、一人ひとりの判断は、その人にとっては正しいが、全体としては良くない方向に進むことを言う。
ここで、この方針を続けると、将来的にどういう問題が生じるか考えてみたい。
ランキングというものは、味噌もクソもまとめて一本化する作業に他ならない。
チャイコフスキーのくるみ割り人形と、AC/DCのBack in Blackはどちらが優れているのか?
普通に考えれば「ジャンルも違うし……わからない」という回答になろうかと思うが、ランキングをつければどちらかが必ず上にくる。
そして、前編で述べたが、人の好みというのは社会的に左右されやすい。
もし、くるみ割り人形が上にくれば、「ああ、クラシックが流行ってるんだなぁ」と思うだろう。「クラシックを聴いてみようかな」とも思うかもしれない。
ボカロPであれば、「次はクラシックな曲調のものを作ろう」と思う人が必ず出てくる。
もっと具体的に言えばこうだろうか。
Aさん
ボカコレで前回トップだったのはこんな曲、じゃあ、それが流行ってるんだな。よし、次のボカコレではそんな感じのを作ろう。流行りは取り入れなくては。
Bさん
ボカコレで前回トップだったのはこんな曲、じゃあ、それが流行ってるんだな。オレの曲調とは全然違う。もう見込みはない。筆を折ろう。
ランキングの弊害は、多様性を殺すことにある。
伸ばすためには流行りを取り入れろ、というアドバイスもよく見かける。つまり、多様性を殺し同じような曲を量産しようという圧力だ。
ボカロ文化、ニコニコ動画の文化はアングラと共にあると私は解釈している(それは違うと思う方がいらっしゃったらごめんなさい)。
アングラの良い所は多様性である。
メジャでは見ることのできない変な(失礼)作品が跳梁跋扈する世界だ。
そこから次のブームが生まれることもある。文化のゆりかごなのだ。
こんなことを述べながら、私はボカロ文化もボカロ曲も全く詳しくない。なので、ボカロ曲といえばこんな感じ、というステレオタイプがいまだにある。早口でペラペラしゃべるイメージだ。
ボカロPになって周りを見渡して少し修正した。ボカロと言えばEDMだ。
そう感じたということは、すでに文化的な席巻が始まっているともいえる。
実際、ボカコレの曲を聴いてもEDMが多いと感じた(統計無し、個人の感想。間違えてたらすみません)。
ボカロック、という単語がある。
こういうワードがわざわざ存在するということ自体、ボカロでロックをするのは珍しいということの裏返しだ。
※注意 ボカロックはEDMに次ぐ一大ジャンルとの意見あり(コメント欄参照下さい)。
このまま、徐々にEDMが増えていき、ボカロと言えば4つ打ちの……という認識になったとしても私は驚かない。全員でそういう流れを作っているからだ。
当たり前だが、EDMが増えるのが良くないと言っているわけではない。最初のゆらぎが異なっていれば、ボカロといえばロック、という平行世界もあり得たのだから。
ランキング至上主義が蔓延することで、単一的になることへの危惧である。
ボカロ曲が好きな人は、コマーシャルソングに無いものを求めているという話を聞いたことがある。
それはつまり多様性だ。
私はそろそろ書くのも調べるのも音楽を聴くのも面倒くさくなってきたのでやらないが、
ボカコレのトップ10と、オリコンのトップ10を比べてみてはどうだろうか。
どちらが多様性があるだろうか。
もし、オリコンのほうが多様性があると感じたならば、文化のゆりかごとしてのボカロ文化は終わりを告げ、すでに「ボカロ曲」という単なる1ジャンルに変容しているのかもしれない。
その時、コマーシャルソングよりもコマーシャル化されてしまったボカロ文化に何を思うだろうか。
5.おわりに
疲れた。寝る。
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