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【1000字書評】星野博美『世界は五反田から始まった』 土地の記憶のかけらから見えてくるもの

さて、2022年12月の書評講座の課題は、星野博美世界は五反田から始まったでした。

世界は五反田から始まったってどういうこと? 
五反田って歓楽街ちゃうの? 
だってアメトーークとかでいつもケンコバが言ってるやん?? 

とお思いかもしれませんが(思ってるのは私だけか)、この本では、上京して五反田に居を構えた作者の祖父の手記を紐解きつつ、グレーターロンドンならぬグレーター五反田、つまり〝大五反田〟という概念を導入し、五反田界隈から東京、そして日本、さらには世界の近現代史を考察することによって、歴史に翻弄された庶民がどうやって生き延びてきたかを解き明かしている。

1000字書評

1916年、13歳の星野量太郎は漁師の六男として育った岩和田から上京し、芝白金三光町の町工場で働き出した。1927年に独立して下大崎に工場兼住まいを借り、1928年に結婚して西五反田へ移り、1933年に長男の英男が生まれた。1936年に戸越銀座へ引っ越し、その翌年から戦争が忍び寄ってきた――

『世界は五反田から始まった』では、量太郎が死の間際に綴った手記を基にして、昭和初期から敗戦までの五反田界隈の動きを掘り下げている。
五反田という地域にとことんまでこだわり、しかも支配層や富裕層には一切目を向けず、ひたすら町工場や商店街での庶民の生活に焦点を当てている。

それほどまでに限定された視点であっても、小林多喜二や宮本百合子が描いた無産者闘争、小林の拷問死、生き残りのために軍事用品を作り始めた町工場、空襲警報に逃げまどい、家族を田舎に疎開させる人々……と戦争の一連の流れがくっきりと浮かびあがることに驚かされる。

五反田から見えてくるのは日本だけではない。武蔵小山商店街から送った満蒙開拓団からは中国やロシアでの悲惨な戦況、空襲の激化からはドイツの降伏によってアメリカ軍が東京を狙い撃ちするようになった世界情勢も読み取れる。

五反田の歴史から教えられるのは、なんとしても生き延びようとする庶民のたくましさである。
戦時中の庶民は「大本営の情報をただ鵜呑みにして独自の判断力を失った無知蒙昧な」被害者だと言われることもあるが、戦中の庶民の記録を調べた作者は、「無知蒙昧な」被害者という見方を否定し、「自分の頭で考え、生き延びる方法を必死に模索していた」と述べる。

この視点は、自分たちが加害者であるという事実からけっして目をそらさない作者の姿勢にもつながっている。祖父の工場で作った部品が軍事用品に使われていたという事実。満蒙開拓団の悲劇についても、開拓団は軍部に踊らされた被害者ではあったが、現地住民にとってはまぎれもない加害者であった事実を指摘する。

それでもなお、加害者となった庶民を簡単に糾弾することはできない。
生き延びるためにはそうするしかなかったのだ。祖父が焼け野原に杭を打つ覚悟を抱いて家族を疎開させ、軍需工場の下請けを引き受けたからこそ、星野家は生き延びることができたのだ。

庶民が被害者もしくは加害者にならざるを得ない戦争は許されない、というのは散々学んだ教訓だと思っていたが、人間は学ぶことのできない生きものなのかもしれない。

作者星野博美について

ノンフィクション作家の星野博美は、2001年に『転がる香港に苔は生えない』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、2012年に『コンニャク屋漂流記』で読売文学賞「随筆・紀行賞」を受賞している。
そしてこの世界は五反田から始まったで、2022年の大佛次郎賞を受賞した。

そのほか『島へ免許を取りに行く』『謝々!チャイニーズ』といった数々の著書があり、その多くは海外や日本の僻地への旅の記録を基に書かれているが、私がとくに好きな一冊は、生まれ育った地元を描いた『戸越銀座でつかまえて』である。

自由に生きたい、とにかく縛られたくない――
と、「自由」を人生の最優先事項とし、故郷を離れて海外やさまざまな土地に移り住んできたが、気がつけばその「自由」に苦しめられるようになってしまった。もうこのままでは自分がおかしくなってしまう。

そう思った作者が、ある意味「自由(業)」の象徴であった中央線沿線でのひとり暮らしをやめて、猫を連れて地元の戸越銀座に戻り、年老いた両親とともに暮らしはじめるまでの心の葛藤が赤裸々に綴られていて、はじめて読んだとき、胸がしめつけられるように感じた。

今回の書評講座においても、あえて故郷から離れていた作者と五反田との距離感がこの本の最大の魅力だと指摘している人もいて、そのとおりだと納得した。いったん離れたことでより見えてくるものがあったのだろう。

一方、故郷が不便な田舎なら戻ろうと思わないのではないかという意見や、東京に家も土地もある恵まれた立場からの声だという指摘もあり、それもたしかに、と思った。とくに地方住まいの身からすると。
だが、上の書評にも記しているように、一般的に地元の歴史というと、その地の支配層に焦点をあてるものになりがちだが、この本は地べたに生きる庶民に目を向けている点が、単なる郷土史ものと異なる特徴であることはまちがいない。

土地の記憶

この世界は五反田から始まった』をはじめとする星野博美の一連の著書は、地べたに転がる記憶のかけらを拾い集めて、どこまでも個人的でささやかな物語を綴りながら、まるでタペストリーのようにいつのまにか大きな物語が編まれているところに唯一無二の魅力がある。

土地の記憶を探る本として、もうひとつお勧めしたいのは、アンナ・シャーマン『追憶の東京:異国の時を旅する』(吉井智津訳)である。
外国人である作者が東京の町を巡り、その町の来歴を語り部たちから教えてもらうことによって、現在と過去が交錯し、ふだん見ているものとは異なる町の様相が浮かびあがる。極彩色の現在とセピア色の過去が目の前に立ちのぼり、そして不思議なことに、セピア色の風景の方がその土地の人々の息遣いがリアルに伝わってくる。
この本においても、異国からやってきた作者と東京の距離感が重要な要素だと言えるだろう。

年末年始という空白の時間、これらの随筆を読んで、そこに描かれている東京と、自分が知っている現在の東京とのちがいについて思いを馳せてみてはどうだろうか。
あるいは、自分が育った町や住んでいる町に置き換えて、実際に訪ね歩いてみると、これまでまったく知らなかったなにかが見えてくるかもしれない。
(22/12/29)

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