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『多様性』が抱える大きな矛盾とは


「多様性」という言葉、誰しも聞いたことがあると思います。

多様性:幅広く性質の異なる群が存在すること。

辞書的な意味だと上記のような感じですが、
要は「色んな価値観や考え方、他者との違い」みたいなところかなと。


なので「多様性を認めよう」というのは、
そうした"違い"を受け入れて歓迎しようぜ、ということですよね。


人によって物事に対する色んな考え方があっていいし、何が好きで何に価値を感じるかも当然その人次第。そこに他人がとやかく口出しするのはお門違いであり言語道断!

というのが世の中の"常識"とも言っていいでしょう。


それこそ、例えばある芸能人が

「多様性なんかクソくらえだ!『みんな違ってみんないい』なんて寝ぼけたこと言ってんじゃねぇ!」

なんて発言しようものなら、それこそあらゆる方面から寄ってたかって袋叩きにされるでしょう。ネット民も報道番組のコメンテーターも鬼の首を取ったかのように騒ぎ立てます。もうボッコボコです。

それを傍観してる人たちも、まるで対岸の火事かのように「まぁこんなこと言ったら叩かれても仕方ないよね~」なんて澄ました顔をしています。


…けど、本当にこれは健全な状況なのでしょうか?


この芸能人は、なぜ叩かれなくてはならないのでしょうか?


「叩かれても仕方ない」という空気感とか、「正義は我にあり!」と言わんばかりに束になって襲い掛かる人たちの怒りは、何によって生まれているのでしょうか?


それはやはり、「多様性は認められるべき」という考え方ですよね。

この考え方を強烈に支持しているが故に、「多様性を認めない」という人達に銃口を向けるのだと思います。


けどそうなるとここに、ある種の"矛盾"が発生するのではないでしょうか。


要は「多様性なんかクソくらえ!」という意見も、これもこれで一つの価値観なわけです。多様性とは、色んな考え方や価値観を認めて受け入れることでしたよね。

となると、多様性を認めるという立場に立つのであれば「多様性は認めない」という考え方も同時に受け入れざるをえないのではないでしょうか?


「多様性なんか認めない」という人に対して、「何言ってんだ!多様性は認めるべきだろ!」と声を荒げることは、「あの人のTwitter、いっつも承認欲求丸出しで馬鹿みたいだよね。ねぇみんなもそう思わない?」とツイートするのと同じことです。要は自己矛盾を起こしているわけです。

ここに『多様性のジレンマ』が存在します。


「多様性を認めるべき」という立場を押し通そうとすると、それに抵抗する「多様性を認めない」という立場の人を押し退けないといけない。

けどそれは「色んな考え方を受け入れる」という、多様性を認める立場の前提に反することになる。

じゃあどうすりゃいいの?というところで、まだまだ私も自信を持って答えられるわけではないんですが、何よりまずは、こうしたジレンマが存在することを認識するのが大事なのかなと思います。

その上で、何に対しても「Aか、Aでないか」という二分法で考えることからなるべく脱却することが大切なんじゃないかなって思います。


このジレンマを抱えていることに目を背けたまま「多様性は認めるべき」という考え方だけが過保護にされてしまうと、個性という名を借りて自分の価値観や権利だけを主張し合う世の中が待っているんじゃないでしょうか。



…という話を熱く友人に語り、「それは屁理屈だね」と一蹴されたことに「何を言うかっ!」と激昂する私もまた、壮大な自己矛盾の中に生きているのです。




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