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ぼくのパンケーキヒーロー

「パンケーキ」と聞くと、あなたは何を思い浮かべるだろうか。

ぼくの頭に真っ先に浮かぶのは、生クリームもりもりのあれではない。

バレーボールだ。

バレーボールにおけるパンケーキとは、床に接着した手のひらの上でボールをバウンドさせる、レシーブ技術のひとつである。
バレーボールの試合を観戦したことがある人ならご存知かもしれないが、この技は難易度が高く、そしてかっこいい。

敵も味方も観客も「落ちた」と思うようなボールを紙一重でつなぐ技。
「いや、まだ落ちてないぞ!!!」と周りをどっと沸かせる技。

小学生のとき、テレビで観た全日本の試合で高橋みゆき選手が繰り出したパンケーキに、ぼくは心を奪われた。それからというもの、ぬいぐるみを投げて飛び込み、手のひらに乗せる「パンケーキごっこ」に没頭した。

当時嫌々やっていたサッカーはまったく上達せず、当然活躍もできなかった。けれども、誰かをあっと言わせてみたい、活躍してみたいとどこかで思っていた。

そんな少年ぼくにとって、パンケーキは、ピンチを救う「ヒーロー」になれる技、憧れのファインプレーだったのだ。ぼくはパンケーキを習得したい、ヒーローになりたい一心で、中学校入学時にバレー部の門を叩いた。


バレー部の顧問はとても厳しく、ぼくたちは徹底して基礎を叩き込まれた。
いくら走っても、手を伸ばしても届かないような場所にボールを投げられ、わけもわからず身体を床に打ち付ける日々。ボールを追いかけなければ罵声を浴びせられ、手が届かなければ練習は終わらない。

身体中をあざだらけにし続けているうちに、いつのまにか憧れていたパンケーキを習得していた。パンケーキが成功すれば、つらい練習が終わるからだ。同時に、ヒーローになりたかったぼくはどこかへ行ってしまっていた。

心は荒み、「届かないものに一生懸命手を伸ばすなんて、むだなことだ」と思うようになった。ただやらされているだけのこの練習に、できないとわかっているのにがんばることに、何の意味があるんだ。
そう思いながらも、冷め切った心とぼろぼろの身体に鞭を打って、形として「がんばる」ことだけを覚えて中学校生活を終えた。



時は経ち、大学生になったぼくはバレーボールサークルに出会った。
ぼろぼろだったあの日々を憎んではいたが、バレーボールは嫌いになれずにいたのだ。

初めてサークルの練習に行った日を、ぼくはよく覚えている。
新歓係の先輩が駅まで迎えにきてくれた。体育館に近づくにつれて、わーわーと聞こえる声が大きくなる。ドアを開けると、熱気がぶわっと全身を包み込んだ。そこには、全速力でボールを追いかけ、大声で鼓舞し合う人たちがいた。

正直に言うと、熱苦しい、と思った。だってぼくは、「届かないものに一生懸命手を伸ばすなんて、むだなことだ」と思ってきたから。けれどそこには、ぼくが軽蔑していた「むだなこと」に全力を尽くし、厚かましく他人に求め、声を枯らして応援する人たちがいた。それが、この団体の文化だった。

ぼーっと練習を眺めていると先輩に声をかけられた。初めて練習に参加する身であるにもかかわらず、ぼくも「むだなこと」を求められた。熱苦しくて若干引いてしまったが、渋々同じようにやってみた。

「楽しい」

不覚にも、そう感じた。感じてしまった。

ぼくは知らなかった。
心から楽しんでいる人とするバレーボールが、こんなにも楽しいことを。
そもそも、バレーボールがこんなにも楽しいものだったということを。
もしかすると今までぼくがしてきたのは、違う競技なのではないか。頭をぶん殴られたような衝撃だった。

ここでもう一度、バレーボールを頑張りたい。この人たちみたいに、馬鹿みたいに声を出して、求め合って、暑苦しいバレーボールをしてみたい。誰かを心から信じてみたい。そう思い、ぼくはこの団体への入部を決意した。

そんな団体の中に、他より抜きん出て目立つ人がいた。
彼は、人一倍どこまでもボールを追いかけ、飛び込み、誰よりも仲間を鼓舞し、喜びも悔しさも表現していた。決して技術的に飛び抜けているわけではなかったが、「むだなこと」を誰よりも楽しんでいた。

ぼくは自分にないものを持つ彼の魅力に、次第に引き込まれていった。
いつのまにか、本当の兄貴のような存在になっていた。


入部から2年。ついに先輩たち最後の引退試合がやってきた。
この日のためにたくさんの練習を積み、妥協することなく仲間と向き合ってきた先輩たちの姿を見てきたからこそ、全てを出し切って終わってほしかった。
ギャラリーから応援するぼくの目には、いつにも増して気合いの入った先輩たちと、慕っていた兄貴が映っている。兄貴はいつも通り熱く、時にはベンチに激突しながらも懸命にボールを追っていた。
相変わらず、熱い。

ふと隣から、「馬鹿じゃねえの?」と声が聞こえた。
びっくりして目をやると、敵チームのサポーターが、
「あんなに全力で追いかけたって届くわけねえのに」
「むだに走ったって意味なくない?ウケるんですけど」
と、耳を疑いたくなるような言葉を放っていた。

もしも昔のぼくが聞いていたら、彼らと同じように兄貴を馬鹿にしていたのかもしれない。
「むだなこと」に全力な兄貴を鼻で笑っていたかもしれない。
でも、もう違う。
ぼくは、昔のぼくではない。
たとえむだだとしても、信念にまっすぐなその姿こそが誰かを救うんだと、兄貴に教えてもらったからだ。

たしかに兄貴のパンケーキは、成功していなかった。
ボールに手は届いていなかった。
けれど、ぼくは知っている。
見えないところで誰よりも努力していた兄貴を。
チームから心が離れている仲間を見捨てずに、声をかけ続けた兄貴を。
手を伸ばし続ければいつかは届くと信じ、上手くなることを諦めなかった兄貴を。

そうだ。兄貴こそが、ぼくがずっとなりたかった、「ヒーロー」だった。
ぼくはパンケーキができるようになって、大勢の人を沸かせたかったわけじゃない。兄貴のような、信念を貫くかっこいいヒーローに、誰かにとってのヒーローになりたかったんだ。

あの人を馬鹿にするな!
ぼくのヒーローは、冷めきっていたぼくの心を救ってくれたんだ!
誰かの信念を笑うなんて、絶対に許さねえぞ!!!!

気づいたら、ぼくは隣のクソ野郎の胸ぐらを掴んでいた

、と漫画ならなっていたはずなのだが、ぼくにそんな度胸はなかった。
悔しさと憤りを必死にこらえてごくりと飲み込んだ。
目の前の兄貴たちに声援を送ることに、全精力をかけた。

結果、先輩たちは負け、引退した。
肩を落とし泣きじゃくる先輩もいる中、兄貴だけは、凛と胸を張っていた。
思い残すことなくやりきった人、最後の最後まで信念を貫き通した人の顔は、あまりにも清々しかった。
試合には負けたけれど、ぼくのヒーローは最後までこんなにもかっこいいんだぞ、ざまあみろ、と勝手に誇らしく思っていると、兄貴が近づいてきた。

「声、聞こえてたよ。ありがとう」

このとき交わした握手を、ぼくは一生忘れないだろう。
豆だらけでガサガサの、世界一かっこいいヒーローの手を。

バレーボール人生を終えた兄貴ではなく、なぜかぼくのほうが、わんわんと泣いていた。



よくよく考えてみれば、バレーボール、もとい「スポーツ」とはそもそも「なくてもいいもの」だ。しなくたって、死にゃあしない。競技化されたスポーツがなくたって、適度な運動さえあればぼくたちは生きていける。
それでも、人間はスポーツを生み出した。時には偶然に、時にはよりおもしろいものを追求し、ルールが作られ、世界中に広まった。文化として脈々と受け継がれ、進化してきた。それは、スポーツが人の人生をより豊かにしてくれるからだ。

「なくてもいいもの」に一生懸命になれる余白。「むだなこと」をおもしろがれる余白。そんな余白が人生にあるからこそ、彩りが舞い込んでくる。リズムと抑揚が生まれ、いきいきとした日々になる。今なら、そう思える。
そしてスポーツが、思いがけず誰かを救うことも、ぼくは知っている。

バレーボールは素敵なスポーツだ。
みんなでボールを繋ぐことで、誰かの生き方や信念も繋がっていく。
きっと兄貴は、誰かを救うために信念を貫いていたわけではない。
スポーツに一生懸命な人たちも、「国のため」「子どもたちのため」とは言うものの、突き詰めれば「自分のため」だとぼくは思う。

それでいい。
それがいいんだ。
打ち込みたい人が自分のために打ち込んで、誰かに勝手につながって、勝手に救われる。
そんな世界が、素敵じゃないか。

今は未曾有の事態で、スポーツが気軽にできなくなってしまった。だからこそ、「なくてもいいもの」の価値が改めて浮かび上がってきた。

本来人間にとってスポーツは「なくてもいいもの」かもしれない。
でも、ヒーローにとって、ヒーローを求める誰かにとって、スポーツは「なくてはならないもの」になった。

スポーツに全力を注ぐすべての人を、ぼくは応援したい。
一刻も早く、みんなが思いっきりスポーツに打ち込める世界に戻ることを願う。

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