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生きる

生きることが辛いと、これまでの人生で何度思っただろう。
その度に私は、どれだけの涙を流してきただろう。

生きることが辛くなったのは、大学生のころだ。

入学当初、欲張りな私は勉強もその他課外活動も全部頑張りたいと思っていた。浪人していたときの友達に誘われ陸上競技部に入り、憧れていたカフェで働き始めた。
欲張った結果、全部が中途半端になって、完璧主義な私は耐えられなくなった。
勉強ができる周囲の友達と比較して自分はダメだと思い、部活は怪我をして練習が積めなくなったことと、カフェでの仕事が楽しくなったことで足が遠のき気まずくて顔を出しづらくなり、カフェでも仕事に楽しさを見いだしつつも、仕事ができる先輩と比べて自分はなんて仕事ができない人間なんだろうと一人で悶々としていた。

周囲の人はとても温かかった。
勉強で分からないところを教えてくれたりノートを取りそびれたところを見せてくれたりする友人がいて、部活も行けば優しく接してくれる先輩や同期がいて、カフェでも的確にアドバイスをくれたり見守っていてくれたりする優しい先輩がいた。
ただ自分が勝手に卑屈になって、殻に閉じこもってしまっただけなのだ。誰に何をされたわけでもなくて、一人で沈んでしまっただけ。

勉強も部活も頑張っている友人に憧れて、どちらも頑張れていない自分を見て苦しくなったり、徐々にイベントのみの参加になっていた部活でサボりなどと陰口を言われているのではと(実際そんなことはなかった)不安になったり、カフェでも自分がいないほうがみんな仕事がしやすいのではないかと考えて落ち込んだりした。

キャパシティも優先順位も、仕事の覚えも人それぞれなのだから、気にせず自分のできる範囲の努力をすればよかったのだと今となっては思うけれども、当時の私は“できない”ということを極度に恐れていた。

何かうまくいけば悩んでいたことも忘れて元気になったし、歯車が合って成功することが続けば何でもできる気がして(スーパーマリオの無敵状態)何でも頑張ることができた。
逆に何か少し失敗すると自分はダメな人間だと感じて極端に落ち込んで負の連鎖。感情の上げ下げが激しかった。

次第に生きづらさを感じるようになり、生きていることが辛くなった。
自分なんて生きている価値がないと何度も思った。
そのたびにたくさん泣いて、それでも周囲の人が温かかったから何かしら希望を見つけて生きてきた。

一時期カウンセラーさんにお世話になったりもしながら、少しずつ回復してある程度精神的に安定した。
たくさんの人に協力していただいて、好きな仕事に就くこともできた。
それでもやはり、生きづらさを感じることはあった。

最近、とても辛いことがあって、本当にもうダメだ、と思った。
それまでも生きることが苦しいと感じることは何度もあり、なんとか乗り越えてきたのだけれど、今回は無理、と感じた。
心が思いきり折れてしまって、修復不可能だった。

好きなことも楽しめなくて、何がしたいのかもよく分からなくて、何も食べたいと思えなくて、何もかもがどうでもよくなった。

たまたま大学の友人から連絡が来ていた。
何往復かして、私の近況の話になった。
辛いできごとの内容を話して、最後にこう言った。
「消えたい」

言ってはいけないということを頭では理解していた。感情がそれを抑えられなかった。
いつも間違いを犯すのは理性ではなく感情。

「そんなこと言わないで、そんなこと言ったら悲しくなるじゃん」
「あなたと話したいし、会いたいと思ってるから」
「大切に思ってくれる人はいるから、その人たちを大事にすればいいと思う」

涙が止まらなかった。
ごめんね、と何度も言った。自分の言ったことで友人を悲しませたことが申し訳なかったし心苦しかった。
そして、友人に心から感謝した。この人と出会えてよかったと思った。

必要としてくれる人がいる、私がいなくなって悲しいと思ってくれる人がいる。
自分の力で生きているのではない、周囲の人に生かされているのだ。
いなくなってしまいたかったのではない、必要とされたかったのだ。
そう気づかせてくれた友人にはずっと感謝し続けていたいし、今度は私が支えになりたいとも思うし、二度と傷つけたくないと思う。

生きることが辛い、そう思うたびに流した涙はきっと、本当はまだ生きたいという心の叫びだったのだろう。
本当に生きたくないと思っていたら、涙なんて流せないはずだから。

友人、恋人、家族、周囲の親しくしてくれている人、本当の本当にありがとうございます。
私がいなくなって悲しいと思ってくれる人がいるうちは、私と会いたい話したいと思ってくれる人がいるうちは、私の存在を愛してくれる人がいるうちは、生きようと強く思う。

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