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YOUは何しに北朝鮮へ #2 透明な隣人

 初沢亜利さんの写真集「隣人 38度線の北」 は北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国を扱った写真集の中で随一の出来といえる。写真集に加えて収録された初沢さんの訪朝記が実にいいのだ。そこにはぼくの知っている案内員たちも出て来て懐かしい。

 物理的に隣という意味だけではなく、日朝関係について考えると「隣人」というタイトルは言い得て妙といえる。隣人にも色々ある。例えばいささか先生と磯野波平一家のような隣人の関係。「奥さんちょっと醤油貸してくれない」と裏口から隣宅の夫人がノックもなしにやって来る濃密な隣人関係。あるいは集合分譲住宅の隣人関係。引越し直後に挨拶は交わしたがそれっきりで、エレベーターで朝一緒になればあいさつもするが、理事会にも出ないしイベントもないので相手のことはほとんど知らない。家族構成すら覚束ない関係。もっというなら、単身者向けの賃貸アパートの隣人関係。隣人の顔も性別も、国籍もわからない。今の日朝関係はまさにそれではないか。ただ隣にいるだけ。

 1944年生まれの男性の話をしよう。男性は京都で生まれ育った。「子どものころは朝鮮人部落ってのがあってサ、よくけんかをしたものサ。チョーセンの奴らは明らかに貧しくてサ」。男性は北朝鮮のことを朝鮮と呼ぶ。厳密に表現するなら漢字ではない、カタカナのチョーセン。蔑視が混じる。「高校の時の同級生がサ。高校2年生の時だったかな。『オレ、帰国するわ』って言って新潟から船に乗ってチョーセンに帰ったのサ。以来全く連絡が取れなくてサ。同窓会にももちろん出ないヨ。あいつは元気なのかナ」。

 映画「パッチギ」(井筒和幸監督・2005年公開)の世界を、まさにこの男性は生きていたのだ。


 1926年生まれの男性の話もしよう。19歳で終戦を迎えた男性にとって、朝鮮半島の地名は植民地時代のままだった。「ピョンヤンに行って来た」とぼくが言えば「へいじょう(平壌)に行って来たのか」と返し、ソウルに出張して帰って来ると「けいじょう(京城=ソウル)はどうだった」と聞く。何か差別的な意味で言っているのではなく、子どものころに習った地名が自然と出て来る。そんな印象だった。

 1950年代、1960年代の京都では「隣人」の姿はくっきり見えていた。その眼差しの上下、質はともかくとして。

  1960年代生まれの男性はこんな話をしてくれた。「東京朝校(=東京朝鮮中高級学校)の生徒は本当に怖かった。男子生徒も怖いけど、女子生徒も怖い。『キェーッ!』ととんでもないところから声が出るんだ。君は知らないだろう」。藤子不二雄(Aさんの方)のマンガみたいな声だ。

 男性は当時板橋駅近くに住んでいた。隣駅が東京朝高のある十条駅。このあたりの話を同世代の在日コリアンに聞くとにやりと笑う。「あんまりその時代の話は出来ないなぁ」と。当時は1980年代。金城一紀さんの小説「GO」でも書かれた、日本の学校と朝鮮学校との衝突については、当時東京で高校生だった40代後半以上の日本人男性がよく語ってくれる。特に国士館高校との争いについて。「いや、ホントに怖かったなぁ」と。「いや、東京朝校はホントにやばかったよ」と。
 不思議なことに、自分がその最前線で争ったという”武勇伝”は聞いたことがない。あくまで伝聞として話していたということは断っておく。

 何度か仕事で十条の東京朝校に行ったが、怖い目にあったことはない。学校の先生も、確かに昔はちょっとやんちゃでしたねぇとは認めるが、その荒れた雰囲気を今、感じることはない。むしろ廊下ですれ違う度に生徒に挨拶されて戸惑った。

 ヘイトスピーチや差別の問題について語られるとき、その主戦場はもしかするとネットやSNSの場に既に移されているのかも知れないが、地域差を感じる。少なくともぼくは高校生までは隣人、在日コリアンという存在を意識することはなかったからだ。

 90年代のニュータウンでは少なくとも。

 だから毎晩聴いていた平壌放送と、北朝鮮と在日コリアンが繋がることもなく、ぼくは地方都市のニュータウンで過ごしていた。隣人の姿など全く見えていなかった。

■ 北のHow to その25
 朝鮮学校は年数回公開授業や文化祭をやっている。この時にふらっと入り炭火で焼いた焼肉を食べるのが最高。学校の雰囲気もつかめて一石二鳥。ともかく生徒に挨拶される印象が強い。礼儀正しい。日本語で返すか朝鮮語で返すかよく迷う。

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