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恩人Lさんの死

 いわゆる良心的な市民たちというのがぼくは大の苦手で、市民運動的なものに対しては「運動は苦手でして。身体を動かすのも思想の方も大嫌いでして」と言ってのけ相手を絶句させ、いわゆる理想的な訪朝記「北朝鮮に行ってみたら怖くなかった。思った以上に自由だった。思った以上に発展していた。子どもたちの目が輝いていた。また行きたい。これからも日朝交流の草の根運動に尽力したい」という、まんま北のスポークスマンじゃないかこれではと言いたくもなる典型的理想的な訪朝記を読むと今も虫唾が走る。

 ある訪朝記には「次は社会主義国に生まれたい」というとんでもない感想があり、そのとんでもない阿りに「早く転生しねえかな。なんなら今すぐ」と毒づいたりもした。

 間違って欲しくない。ぼくは日本が好きなのである。北朝鮮は推しなのである。日本と北朝鮮が川で溺れていたら、躊躇なく日本を救う。
 
「平壌のホテルのバーテンダーの女の子にツケを残して帰国」
「平壌の商業施設で浮かれて転倒。顔面負傷」
「平壌のボーリング場で北朝鮮一のプロボーラーに魔球を習う」

 対抗するようにこんなおまぬけなことを、あろうことか朝鮮総連の機関紙「朝鮮新報」「月刊イオ」でも書いてきた。きわどい内容でも「北岡さんだからしょうがない」と苦笑いで掲載してくれるようになったし、某幹部には「北岡さんはギリギリでOK」といわれるようになった。編集部にこれを書きたいと交渉したら掲載させてくれるようにもなった。

 きれいごとは嫌いなのだ。底抜けに面白いのだ北朝鮮は。特にことばが出来たらものすごく面白いのだ。相手の公式見解など破ってみせるのだ。そしてひとりの人間の素顔を接写するのだ。へたくそな朝鮮語でも泥臭く話続け相手を笑わせ、日本と日本人のイメージを変えてみせるのだ。本やネットを見ただけでは分からないことをぶつけて、わからない国の姿を、北朝鮮の面白い姿を見せるのだ。

 北側の担当者に100パーセント通訳を任せて、北側が見せたいものだけを見て、北側が話をさせたい用意した人とだけ話をして、これじゃまるで朝貢じゃねえかという面はゆいことばの交換と、日本政府への悪口と謝罪を並べて「まあまあ」という北側のことばを引き出して、美味しいもの食べてお酒飲んでカラオケ歌って、最後統一列車(大人の電車ごっこみたいなものだ)をやって、日朝友好これからも頑張りましょうといって〆る訪朝団と、テンプレート通りの訪朝記にぼくは辟易していたのだ。

 そのイラつきと空回りする行動と、尽きぬ北朝鮮への興味と関心と勢いに気付いてくれたのが在日朝鮮人のLさんだった。当時朝鮮総連京都支部の国際部長をしていた。

 2013年に訪朝団で初めて訪朝した時、IT関係の施設見学は全部NGを出されたのだが最後まで現地で交渉してくれたのが引率のLさんだった。

 平壌一の女性バーテンダーを紹介してくれたのもLさんだった。バーテンダーの彼女にツケを残して帰国した顛末を書いた訪朝記は、朝鮮総連の朝鮮新報に掲載され大きな話題になった。つまりはバズッた。「訪朝記の革命」とまで当時の主筆はいってくれたが、その訪朝記をコピーして配り無名に近かったぼくのトークショーを京都で企画してくれたのもLさんだった。

 ぼくのキャリアの初期において、グイッと引き上げてくれた人。そして初めて知り合った在日朝鮮人でもあった。色々くだらない質問もしたし、時々言い合いもした。

 日朝友好団体でも異端児であるぼくと同じく、多士済々の日朝友好団体でももしかして異端児なのかなという印象をぼくはLさんに持っていた。ぼくもLさんのような人を待っていたし、もしLさんがぼくのような人間を待っていた、買っていてくれたのなら嬉しい。

 Lさんは組織を離れ一般企業で働くことになり、その後一回だけ会った。今日、知己のある人からLさんが数年前に亡くなったことを聞いた。

 Lさんと先斗町の薄暗く狭いバーでぐだぐだと話したことを思い出す。ここ数年LINEを送ってもメッセージがなく、組織を離れ市井の人として生きることを選んだのだと思っていた。そういう人は何人もいる。

 急死と聞いている。少し立ち直るまで時間がかかる。もう一度お話ししたかった。今のキャリアについても、書いたコラムの内容についても。そしてお礼をいいたかった。当時勢いだけしかなかったぼくを今の道に導いてくれたのはLさん、あなたなのですよと。


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