見出し画像

冷静も情熱も感情

無意識は超意識の積み重ねの先にあるものなんじゃないか、と昨夜思う。
無意識というと、無でいなければならない、全く何にも存在してはいけないと意識が行きがちだが、それはその時点で無理じゃんてのはよくトピックにあがる話だ。
そう、そうなのである。
じゃあ誰が無意識になれんだよ、っつう話になるわけで。
しかしウェイト・ア・ミニット。
みんな毎日無意識やってますやん、とタワシは問いたい。
朝歯を磨いたあとに歯ブラシを戻した覚えがありますか?
お手洗いから出て電気はきちんと消しましたか?
今朝も愛する人の頬にキッスをしましたか?
覚えてないけど帰ったら歯ブラシは戻っているし、お手洗いの電気は消えていて、愛する人へのキッスについては愛する人も覚えちゃいないことでしょうけれどきっとしてますから。
これらは毎日毎回やり過ぎてもはや意識には上がってこないだけなのだ。
別に最初から無意識とかなんとかってことではないのだ。
つまり無意識が山の頂上でわっはっはっはっはっはっはっ、と京子と一緒に笑顔で鎮座しているのなら、アニマルと京子のように日々トレーニングを重ねなければいけないし、だから重ねた分だけ無意識に近づいていく。
全く例え話としては成立していないが。
つまり意識を積んで積んで積みまくったら脳がバグって奇遇にも無意識が発動するみたいなそんな感じだと思っている。
楽(らく)ってのはあくまでも楽しくなければ楽じゃない。
楽しいので苦痛と思わないのであって、それが大変なことかと言えば大変なのだ。
よく使われがちな「楽な仕事」というのとはちと違うと思っている。
「なんもしなくていいから楽な仕事」は、なんもしなくていいけれど退屈である。退屈は苦痛だと思っている。
ね。
だから。
全然上手くまとめられないが、つまりそういうことだ。
無意識と意識は真逆にあるのではなく意識の山の頂上にある。
同じ場所にある、と。
最初は何が何だかわからなかった太極拳も少しずつ覚えてきて楽しくなってきた。
ただ順番を覚えるだけでなくひとつひとつの動作をカッチョ良くしたいという欲望が出てきた。
動作の意味を知りたいと思い始めている。
いつか太極拳マスターに到達できるかね。
楽しみだぜ。

それではみなはん、また明日。
この場所で。

※このnoteはオンラインショップのブログ【DIARY - 徒然】と連動してます。
過去のブログはそちらからどうぞ!
https://potolitoputoli.com/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?