この1日だけでも、生まれてきた価値がある。
そんな気持ちが、心の奥底からやってくる時がある。
この気持ちが訪れるシチュエーションは様々。けれど初めて体験した日は今もはっきり覚えている。
23歳の春のことだ。
当時の私は、毎日がとても辛かった。
家庭はトラブルが続き、親子関係は険悪で気が休まらない。
証券会社の営業職だったが、ノルマが辛くてキツくて毎日辞めることばかり考えていた。そのくせ踏ん切る勇気がない自分が憎かった。
小さな目標を抱いていたけれど、全然うまくいかなくて。砂地に吸い込まれる水みたいに、努力がすべて無駄になっている気がしていた。
もちろん恋人もいない。
すべてが不安で怖くて、でも平気なふりをしていた。他にどうしたらいいかわからなかったから。
毎日、毎日、「きっと大丈夫、きっと上手くいく。これは過程なんだから」と自分に言い聞かせて、何とか1日をやり過ごしていたと思う。
支えは音楽、そして本。耳から流れる歌詞に、目から入る文字にすがるようにして歩いていた。
健康で、収入があって、食べるのに不自由しない。それでも苦しいなんて甘えかもしれないが、どうにもならなかった。
当時、職場の近くには並木道があって、一人になりたい昼休みに私はそこへ出掛けてぼんやりしていた。
ぼんやりと言っても、頭の中は午後からの仕事、あの人に投げつけられた言葉、先の見えない未来が渦巻いていたのだけど。
その日は、本当に良い天気で空は抜けるように青く、小さな雲がときどき流れては消えていく。
自分の苦しみだらけの私にも伝わるほど、気持ちの良い午後だった。
初夏の萌芽が木々から感じられ、命の匂いがする。
その隙間からさす日の光は柔らかかった。
ふと空を見上げると風がザーッと吹いた。それを身体中で受けた時。
突然心の深いところから、強い強い多幸感が押し寄せてきたのだ。
なんて美しいんだろう。
なんて美しいんだろう、ほんとに。
空は青くて、風が吹いて、緑まぶしく鳥は鳴き。
これ以上何を望むことがあるだろうか。
例えこの先、何一つ事態が好転しなくても。
家族とは理解し合えず、夢は砕け、愛する人がいないまま死んでも。
今日この瞬間を過ごせただけで、この世に生まれた価値は十分にあった。
痛いぐらいの喜びにふるえながら、私は立ち尽くした。苦しみはどこかに消えてしまっていた。
まあ職場に戻り、個性の強いお客さまと接するうちに、その喜びは埋もれてしまったけれど。
劇的に人生が好転したりも、しなかったけれど。
そんな、役に立つのか立たないのかよくわからないこの激しい多幸感は、それからもたまに訪れた。
立ち止まって、涙ぐんだりふるふるしているので、はたから見たらちょっと変な人(かなり?)かもしれない。
でもしょうがないんだ、やってくるのは突然で私にはコントロールできないもの。
きっかけとか季節とか、シチュエーションがいつもバラバラで、気持ちを受け止める準備もできない。
ある時はスーパーへ行く途中だったし、またある時は冬の夜道を急ぐときだった。
ただ、共通することがあるとすれば、「ただの、何でもない1日」ばかりということ。
「これは特別な日」と思うような時ではない。「気が狂うほど幸せ!」と感じた日でもない。「かけがえのない誰か」といる時でもない。
ごく普通の、他愛もない日常にそれはやってくるのだ。
私は「幸せ」の答えがそこにあるような気がしている。
そして、たとえ1時間でも生きる価値はあると本気で思っている。
そう見えなくても、そう思えない時があっても。
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