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2年前の今日

2020年3月22日、
私はセブシティから帰国した。

基、帰国せざる終えなかった。

現地の日系英語語学学校で学校職員として、生徒さんの生活や英語学習のサポート、講師人とのレッスンのブラッシュアップ、フィリピン人スタッフとの日々の業務改善に必死だセブ時代。

日本政府の慎重な意思決定とは真逆に、フィリピン政府はなんでも実行までが突然。特にこういうパンデミックな状況ではね。

一夜にしてあらゆることが変わり、職場は営業停止業種のため仕事ができなくなり、飛行機は軒並みにいきなり飛ばなくなって、結果現地の日本人会の皆さんの努力の甲斐あって、チャーター便が飛ぶことになって帰ることができた。

この頃はまだ北米や欧州からの帰国者のみが帰国後施設隔離の対象だったので、フィリピンから帰ってきた私は、入国審査の時に通るサーモグラフィーの前を通るだけで、なんの検査も隔離もなく、そのまま国内線に乗り換えて地元に帰った。

すでにこの頃セブでは、夜間の外出禁止やマスク・ソーシャリディスタンスの徹底がなされてたけど、日本ではお花見やモールのセールなど全てがまだコロナ仕様じゃなかった。
なんだか別の星に来たかの感覚。

政府の隔離対象国じゃないとこから帰国したから、帰国翌日から普通に出かけてたら、行きつけのカフェからは入店を断られ、一緒に住んでる母は職場から2週間お休みを命じられ、なんだかんだで自主隔離した2週間。

セブでキャリアを作った後に、したいなーと思ってた色々が急に白紙になり、私は何がしたいのか全く分からなくなった。

どこかに勤めに行く気にもならず、オンライン英会話の講師の求人に数社応募してみるも、需要が上がっていたのと同時に、講師の質も基準が上がって、どこにも採用してもらえなかった。

「英語でもダメなら、私にできることってないよ…」と凹んだこの頃。

気持ちを癒すように、趣味のスクラッチアートをひたすら削り、自然はドキュメンタリー見て現実逃避ばかりしてた。

貯金は数ヶ月でそこをつきそうになったので、7月は1ヶ月だけ派遣でコールセンターで働いてみた。
御用聞きは、やっぱり向かないなーとしみじみ知ったこの時。
でも同じ期間一緒に働いてた子で、ワーホリ帰りの子と出会い、似たような価値観を共有できる存在ができたのは嬉しかった。

秋からは、思いつきで県主催の無料のプログラミング講座に通ってみた。
プログラミングは好きになれなかったけど、受講生仲間に英語を教えるのは楽しかった。

秋冬にかけてのお仕事は、セブいく前から何年もお世話になってた国際交流イベントを運営してる会社で、単発的なイベントのお手伝いを数回。
国際色豊かなメンバーとのひとときは、国内にいながらいろんな価値観に触れられて楽しかった。

年末にはプログラミング講座も終わり、そろそろ真面目に就活するかと重い腰を上げた。(貯金が限界だったのが大きいけどね)

時は2021年になってた。

1月末にはなんとか1社内定をもらったが、配属部署が希望部署ではなかったので、結局お断り。
結局は地元のパン屋さんでバイトを始め、気長にやりたいことを探すことにした。

お休みの日にいくスタバが癒しだったり、またに会える友達との時間が楽しかったり、美味しいご飯屋さん発掘したり、定期的に相棒とインスタライブやったり、なんだかんだで充実してたなー。

あっ、五輪前には、事前キャンプのボランティアもやったなー。

そして秋頃、パン屋さんで働き出して半年ちょい経った頃かな、なんとなく、
「人と電磁波から離れた仕事してみたいなー、農業とかどうだろー」
なんてふと思って、まずは地元の農家さんに行ってみた。

自分の今までの経歴や、なんで農作業に興味あるのかって話を軽くすると、
「そんなに国内外で経験あるのに、うちなんて勿体無いですよー」
と言われ、なんとなくこの農家さんにはご縁がない気がした。

別に家族と仲が悪いわけではないけど、実家暮らしでの日数が増すたびに、知らない土地への関心が増してきたこの頃。

「ガッツリ農作業やるのも不安だし、数ヶ月だけ住み込みとかもありだな💭」
なんて思って探してみると、求人めっちゃあるやん。

セブから戻ってから南国が恋しかったので、無意識的に沖縄を選んでる自分がいた。

そして年は2022年になり、2月末にパン屋さんを辞め、3月には南の島で島暮らしスタート。


わー、全然安定してないけど、色々やってたじゃんこの2年。
2年前の今日、きっとどれも予想してなかった。

人生ってほんとに【予測不可能】ですね。
だから面白い。

そんな人生の面白さを学んでるこの2年。

これからも自分のペースで、その時々でときめくこと、やってこ。そーしよ。👣

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