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自己紹介

はじめまして!
フリホールまめこです。

なにもの?

20代後半で青年海外協力隊に行ったとき、中米で主食のひとつであるフリホール豆を毎日食べて嫌気がさした女。最初は美味しいんですよ。でも、3食365日フリホール豆を食べると、全身がフリホール豆で出来てるような気がしてくるんです。

ガジョピント、フリホールボルテアーダ、ソパデフリホール、コングリース等々。調理方法は色々あるけど、やっぱり美味しいのはおにぎりです。おにぎりは正義。

経歴

助産師資格を取得したあと、大学病院勤務→青年海外協力隊の助産師隊員として中米に渡る→赴任先の情勢不安によってボランティアが続けられず、国を変更→マヤ族の末裔が住む街で伝統的産婆の在り方に感銘を得る→産婦人科クリニック勤務→大学院で地域看護学を専攻→なう!

なんで『助産師×地域×国際協力』を模索しているのか

私は、南米出身の外国人の多い地域で生まれ育ちました。でも、外国人とは生活区域がかっちりと分けられていて、しっかり距離感がありました。「外国人はゴミ捨てのマナーがなってない」とか、「ブラジル人は万引きするから気をつけろ」なんてよく言われていて、外国人に対しては地域全体で距離を取っていたような田舎出身です。

助産師として在日外国人への対応に違和感を持っていた私は、ひょんな縁から青年海外協力隊として中米に渡ることになりました。その際、自分自身がマイノリティになった経験は、私の価値観をひっくり返しました。

地球の裏側に住むアジア人は、とにかく目立ちます。道を歩くだけで"Hola Chinita(やぁ中国人の女の子)"声を掛けられ、何かすれば見た目だけで誰か特定されてしまう。そんな「いつも見られているような日本人代表、もといアジア人代表」のような生活は、時に得をし、時に損をしました。

最初に赴任した国は、貧しいけれどオープンマインドな国でした。私の名前を同僚みんなが覚えてくれて、名前を呼んでにっこり笑って挨拶をしてくれる毎日に「自分は受け入れられてる」と感じて嬉しくなった事を覚えています。

生活に慣れてきた頃、ある事件をきっかけに政治的な不安がじわじわと国内で広がっていきました。私の住んでいた街の外れでは機動隊が動員されるなんてことが起こりました。そんな中でも暢気に片道6時間ほどかかるバスでの移動を試みていた私。同僚に「私はこの国の人間、あなたは日本人。この状況がどれだけ危険かわかってる。今日は絶対に移動するな」と強い言葉で言われました。どうしても行きたくて、地域の警察に電話をして「警察がいいって言ってるよ」って伝えると、他の部署の同僚達に言いふらして(?)、他の部署の同僚たちがぞろぞろと「今日は移動するな、警察は信頼するな」と言いに来ました。

在日外国人に対してそこまで強い思いを持ったことがなかった私は、外国人である私にそこまで一生懸命訴えてくれる同僚たちの姿にとても驚きました。そして、助言に従ったその日、国道の至る所がバリケードで塞がれてしまいました。数十年前まで内戦をしていたその国では、ぐらぐらな不安定さが日常だったのだと気づかされた出来事でした。もし私が彼らの助言を聞かずに移動していたら、帰れなくなっていたことでしょう。その後、平和ぼけでうっかり目立ってしまったことでスパイ容疑がかかったり、日に日に大きくなる砲弾の音を聞いたり、無残な死体が新聞やテレビで公開されるのを見ている内に、日常が不安で不安で仕方なくなっていきました。ニュースは見ても十分にわからず、ホストファミリーに噛み砕いて説明をしてもらっていました。日本に帰国しなければならない状況になったとき、正直ほっとしたことを覚えています。でも、お世話になった人たちにはただお世話になっただけ。お礼を伝えることなく帰国しなければならない現実に戸惑ったし、とてもショックでした。

日本に帰国してすぐ、割と大きな地震が起こりました。私の住んでいた地域は、震度4くらいだったと思います。「あ、地震」と思って、窓を開けて、避難経路を確保してテレビを付け、のんびりテレビを見ていました。横揺れだったので次の地震はすぐに来ないだろうと思っていましたし、その夜はテレビの前でワールドカップ日本代表を応援していました。

驚いたのは次の日。新聞で、「外国人留学生(観光客だったかも知れない)は地震で怖い思いをしたのに、日本人は暢気にワールドカップの応援をしていた。そんな気分にはなれなかった」といった内容の記事が取り上げられていました。はっとしました。私は、中米の情勢不安で怖い思いをした。でも、彼らにとってそれは慣れたものだった。それと同じように、私にとっては慣れた地震で、中米にいたときの私と同じ思いをしている人がいるんだ、と。

このような経験から、外国人は、言語ができるようになったとしても、その地域で何十年も生きている人との経験の差を埋めることはできないんだと思い至りました。「在日外国人で何千文字も使う日本語で書かれた新聞やニュースを全部理解する人は限られているだろうし、日本人だけの中で生活している人と比べると日本に特化した情報量も多くはない。日本人との関わりを持たないことは、日本で生活する上で必要な情報をもてなくて損をするんだ」と思いました。私は、現地で繋がりがあったからこそ、同僚達のお陰で帰れない事態を免れることができたのです。

また、スパイ容疑をかけられた体験から、「国籍や見た目だけでこんなに目立つんだ」と思いました。アジア人のイメージ=アジア人全員怪しいって思わないで欲しい!とも思いました。でも、よく考えると、「ブラジル人は万引きする」とか・・・あれ?自分もやってました。ブラジル人が何かしたんじゃない、ブラジル人の中のひとりが何かしたのに、私達はブラジル人で括ってたんだと。そう思ったとき、自分の住んでいた地域では、「在日外国人が日本人との繋がりを持たないようにしていたのか、それとも私達日本人が在日外国人との繋がりを持たないようにしていたのかどっちなんだろう」って思いました。

しばらく日本に滞在したあと、次はマヤ族の末裔が住む街に移動しました。その国には、伝統的産婆のシステムが残っていて、地元のおばあちゃんたちが出産を取り扱っていました。伝統的産婆は、小学校を卒業しただけの人がほとんどで、小学校にすら行ったこともない人も多くいました。共通語も話せず、マヤ語を話します。正直、日本の助産師の目から見ると、何もせずにぼーっとしているおばあちゃんです。でも、「妊婦健診に一緒に来ている近所の信頼出来るおばあちゃん」の姿や「地域のお産や子育て情報を総括しているおばあちゃん」の姿は、その地域に根ざして女性の支援を行っている「産婆」そのもので、なんだか輝いて見えました。

このような経験から、帰国してからは、日本に住む外国人ともっと関わりを持ちたい。自分の専門性を活かしながら日本に住む外国人のお手伝い、中米の同僚たちから受けた恩を別の人に返すことでお礼がしたい。『助産師として、自分の住む地域で国際協力がしたい』と思った。これが、きっかけです。

お産が好き!

臨床から離れれば離れるほど、お産が好きだと感じます。
助産師は、一生に数回の妊娠・出産・育児に関わることが出来る仕事。本来であれば両親しか聞くことのない産声を聞くことが出来る仕事。保健師に憧れた時期もあったけど、保健師は公務員としての制度や役割が雁字搦めで、やっぱり臨床助産師が好きだと思い直しました。惰性で仕事をするのではなく、お産がやっぱり好きだと気づけて良かった。自分の楽しいことをしていると、人に優しくなれるし、魅力的な人と出会うことができる。医療現場という狭い世界が全てではない。人との出会いや繋がりを大事にしたい。現在は、日本語を教えるような団体や多文化子育て支援サロンに顔を出しています。

最後に、イラストはイラストレーターの妹に描いてもらいました。さくらももこ風味で、毛量多め女子の姪っ子を抱っこしている絵です。

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