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「人生年表」を書いてみる

昨年あたりか、とある大学の先生に取材をした。テーマは学問的なことだったのだが、強烈に覚えているのは雑談で出た「人生年表」の話。

曰く、「大学時代の友人が、10代の頃から『人生年表』なるものを自作し、壁に貼っていた。その後、彼はそこに書かれたことほとんどすべてを実現しており、今では自分も、自ら『死』に至るまでの道筋を、『人生年表』に表し、貼ってある」とのこと。

私は驚愕したのだが、そんな私の驚きに対して、逆に先生に驚かれた。

「だって、今日は〇〇に行って、▽▽の取材をしよう。来週は◇◇と、◆◆の原稿の締め切りがあるとか、ちゃんとスケジュールを管理しながら仕事しているでしょう? それなのに、一番大切な自分の人生のスケジュールを何も考えずに生きているなんて……、そんなことは僕は怖くてできませんね」と。

ふか~~~く、納得した。
「散歩に出かけて気づいたら富士山に登っている人はいない」「高みを目指す人は、ちゃんと目標と日時と事前準備をしている」みたいな言葉は聞いたことがあるけれど、要するにそれと一緒よね。

言われてみれば、ガクンガクンと深くうなずくしかないが、それを実践してきたかと言われると……、まぁ、何もしてないよね。少なくともここ10年は。
そりゃ学生時代とか、社会人なりたての頃は、自分のキャリアアップも含めていろいろ思い悩み、書き記してもいたけれど、家庭を持ち子どもを持ち……もすれば、子どもの成長記録や、習い事や塾などの先々も考えるが、自分自身に関しては、完全に白紙状態だった。

ライター仕事も、野望とか目標とか思う間もなくスタートして、以来14年くらい???常に目の前にある「依頼」に対応するのが必死で、自分で「これをやりたい」「この媒体で書きたい」「こういう文章を書きたい」というのは、明確に思わずに来てしまった気がする。

もちろん、そうして常に目の前に現れる「依頼」「仕事」はありがたく。自分一人ではたどり着けなかったところまで、「仕事」が自分を運んできてくれたことには感謝している。

本来の自分なら興味もなかった分野、むしろ敬遠していた世界、偏見の印象を持っていたジャンルも、出会ってみれば、話を聞いてみれば、書いてみれば、どれもこれも深い世界で、面白かった。

が、それは「わたしの世界」なのか?と聞かれると、違う気もする。
「仕事の依頼」がなくても、私が書きたい分野、やりたいジャンル、「これをやり切った」と思える仕事は何なのだろう。
もちろんライターなので、これからもずっと文章は書いていきたいが、それはどういうスタイルなのだろう。

という、そもそも論も考えずにきたこの14年間(だったかな?)。
愚かなり……。

で、「人生年表」書き始めました。

書くとね、ガクッと来ますよ。

まず、自分の年齢を書く時点で。
5年後、10年後、15年後、20年後の自分と家族の年齢を書く時点で。

正直、初日はショックが大きすぎて、それ以上は書けんかった。

20年後、私は〇歳なんかい!!と。

でも、「〇歳」を本当に迎えられたら、それはそれだけで、とてつもない幸せなことなんだよね。
20年後、その〇歳を迎えられても、迎えられなくても、自分の人生が終わるまでが自分の「人生」。

自分の仕事の成果や、進むべきジャンルや到達点、
自分の趣味や楽しみ、旅行先や読むべき本、やるべきこと。

不思議とね、書き始めて半年後とかに読みかえすと……、そのうちいくつかは達成したりしているんですよ、これがまた。
脳内にある時点では、(叶ったらいいなという淡い)「夢」や「願望」。
でも、書き始めるとそれらは(淡々とこなすべき)「タスク」として、脳が処理してくれるみたい。

まあね、そんなことは今さら私が言うまでもなく、古今東西えらい人たちがとっくの昔に発見、発信していることなんだけどね。
改めて、それを実感したというわけで。

さあて、3年後の「夢」に向けて、次は何を書こうかな。
……って、まずはこれを書くために、現実逃避していた原稿から書くか。。

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