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「普通の子ども」って何だろう。

放課後等デイサービス(という言葉は知らないが、優しい大人が見守る中、自分に似たような子どもたちが集まって、のんびりしたり、遊んだり、おやつを食べたりできるところ……と息子は認識している)に、また通いたいという自閉っ子の要望に応え、二か所の放デイを体験。

ああ、久しぶりだな、この感覚。。

一見フツーな子どもたち。
だけどやっぱりちょっとフツーではないハイテンションぶりに、フツーではないだんまり、フツーではない一方的なコミュニケーションや、フツーではない声のボリューム、フツーではないこだわりを持つ子たちの集団……。

思いながら「フツー」って何なんだよ、とわが身に怒る自分もいる。

振り返れば「フツーの人生」なんて、一番つまらないと思って生きてきた結果、フリーランスで生きているのに、子どもを産み育て、教育していく過程で、誰よりも「フツー」というワードに敏感になっている自分に気づく。
なんだ、それ。
ホント自己嫌悪……。

放デイで過ごす息子は、一見「フツー」に見える。
挨拶をして入室して、静かに本を読んだり、周囲を見渡して、騒いで遊んでいる子たちを見てニコニコして、大人に話しかけ、うなずき……。
そんなに「フツー」に見えるのに、それでも本当にこの場が必要なの?
だけど、帰りに確認すると、「ここに来たい」と嬉しそうにしている。

頑張れば(頑張るのは親?本人?それは本当に本人の希望?)、「フツー」になれそうで、なれなさそうで、しかし、「フツー」とはそもそも何か、というと、それは単に「そのコミュニティ・社会の『多数派』と同じ言動を真似られる能力を有する」ことだったりするのよね。

そんなことがわかってるなら、いい加減私自身が、「フツー」の感覚から離れらればいいのに。

そんな中、先日、村中直人さんの「ニューロダイバーシティ」講座を視聴していて、ハッとする文章に出会った。
自閉症の権利運動活動家の、ジム・シンクレアさんの言葉。(講演録『私たちのために嘆かないで(Don‘t Mourn For Us)』の中で、自閉症児を持つ保護者向けに語ったとされる言葉)

「空想上の「普通の子ども」に対する親の 認識から切り離す必要があります(中略)自閉症は付属品ではありません。(中略)その人が閉じ込められている「殻」でもありません。自閉症の後ろに普通の子が隠れているわけでもないのです。
自閉症は存在の方法そのものです(中略)
親が「うちの子が自閉症でなければよかったのに」と 言うのは、本当は「我が子が存在せず、代わりに違う子(自閉症 でない別人)がいればよかったのに」ということなのです」。

いや~、ドキリとしたよね。

息子ではない、別の子どもがいればよかったのに、、そう自分は考えてきた?と自問自答する。

改めて考えてみる。

すごいハキハキと、相手の目を見て理路整然と話をして、相手を気遣い、気候の話題なんかしちゃって、クラス委員として皆を率いて、忘れものなんかしなくて、パスモなんかもしっかり管理できて……という息子は、うちの子だろうかと。

答えは、否(笑)。

担任との挨拶でも目を合わせず、しゃべっているときはウロウロ歩き回り、会話も唐突で理路整然とせず、何をしゃべっているのかよくわからないなと思って聞いていた虫の話だったとかよくあるし、筆箱を開けると常に鉛筆も消しゴムもないし、パスモや水筒、帽子はなくしまくるし……。
でも、その全てがうちの息子だ。

そんなこんなで、とにかく彼がのんびり、背伸びせず、あるがままに過ごせる環境を確保せねば。
(裏を返せば、家庭に「あるがままで過ごせる環境がない」ということにもなるのか?? というこれまたドキリとする気づきももってしまったが)

とりとめのない文章。
とりとめのない思考。
でも、この問題って、ずっととりとめのないまま続いていくんでしょうね。





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