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【小説】ダイアログ(3)

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 三

 気付くと車は停まっていて、運転席には誰も座っていなかった。窓の外に目をやると、グレー掛かった寒々しい雲が空一面に広がっていて、この三時間ちょっとの間で季節が先に進んだのを感じた。手続きを終えてセンターハウスから戻ってきた父がドアを開けると、早朝の空気と同じくらいの清涼な塊が一気に車内を駆け抜けていった。思わず肩を上げたけど、「うう、寒いーっ」と恐らく実感している寒さ以上のリアクションをしながら必要十分な力でドアを閉める父と一緒の人間になってしまうような気がして、すぐに何ともない風を装って首筋を真上に引き上げた。首元から入り込む冷気はやっぱり震えるくらい冷たかったけど、それも無いことにした。

「さてさて、どの辺にしますかねー」

 父の大きな独り言と共に、ゆっくりと車は動き出した。ここのキャンプ場はフリーサイトになっていて、どこにテントを張ってもいいことになっている。基本的にどこからでも富士山を望むことができるけど、真ん中辺りから先に行くと、ほとんど独り占めみたいな景色になる、らしい。母がまだいたころにも何度か来たことがあったけど、私達は運悪く一度も富士山の全体像を見たことがない。大体いつも頭から半分くらいまでは雲で覆われていて、例に漏れず今日も裾野がほんの少し見えているだけだった。一度もちゃんと見えたことがないものだから、私はどこにテントを張っても一緒だろうと思っているけれど、父は毎回必ず真ん中辺りを選ぶ。今日は月曜ということもあってか人も少なく、富士山がいるであろうところとサイトとの間に、何一つ遮るものがない場所で父は車を止めた。

「これで晴れてくれたらいいのになー。ね?」

 荷物を降ろすのを手伝う私に向けて、疑問形で共感を求めてくる父を無視しつつ、クーラーボックスやコンテナボックスの間に挟まっている毛布やポールなんかの軽そうなものから順に引っ張り出して、足元に広げたレジャーシートの上に並べていった。父のことは煩わしいと思っていても、さすがに設営を何も手伝わないようなことはしない。幼いころから何度もやっていることだから、手順もある程度わかっているし、何となくそれぞれの役割みたいなものも決まっている。荷物を全て降ろし終えると、父はテント、私はタープの設営に取り掛かった。
 タープを立てる時は、なるべく二人でやったほうが安全だ。前後のポールを立ちあげている途中で、風に煽られて倒れたりすることもある。私がいつ頃から一人でできるようになったのかは覚えていないけど、ある程度勘で何とかなるくらいには設営慣れしている。タープを縦半分に折りたたんだ状態で地面に広げると、グロメットにポールの先端を通して横に倒し、二股ガイロープの中心の輪を引っ掛ける。その両端を広げて、ペグを打つ場所を適当に決める。曇っているせいもあるのか地面の草が微妙に湿っていた。土も緩くなっているみたいだから、少し深めに打たないと強い風が吹いたら抜けてしまうかもしれない。

「ねぇ、ごめん二十そっちに一本ない?」

 聞こえてきた声に対して条件反射で眉間に皺を寄せて、足下に置いてあるペグの束を見やる。タープ用の三十センチのペグの中に、一本だけ短いものを見つけて小さく舌打ちをした。軍手を付けてから乱暴にペグを掴み取ると、父の方に向けて放り投げた。湿り気のある地面にドゴっと重みのある音が吸い込まれていった。

「あ、サンキュー。良かった良かったー、無くなっちゃったかと思ったー」

 くそくそくそ。そもそも私が一本間違えてこっちに持ってきてしまったことは棚に上げて、心の中で吐き捨てた。くそくそ、うざ、くそ。そのうちハンマーを打つリズムに合わせて、声に出すか出さないかくらいの不機嫌な息を漏らしながら、ペグを斜め四十五度の角度に突き刺していく。前後のポールに通したガイロープの端四ヶ所を打ち止めた後、前の長いポールを立ち上げ、後ろのポールも同様に立ち上げる。物干し竿に大きな掛布団を掛けてるみたいな状態になると、さあっと弱い風が吹いてきて、垂れ下がっているタープがばたばたと音を立てた。一瞬倒れるんじゃないかとヒヤッとしたけど、風が収まるとタープもたゆたうのを止めた。二股ガイロープをそれぞれしっかりと張ってから、残りのガイロープをペグで留めてバランスを見ながら少しずつテンションを掛けていく。今日は結構上手くできたんじゃないか?皺もほとんど無いし、前から見るときちんと線対称になっている。ピーンと張ったタープは雨が降っても水が溜まることなくしっかりと地面に落ちていってくれる。ポールを立ててロープを張っただけなのに、先週の英語の小テストが終わった瞬間くらいの充足感を味わって、少し頬が緩んだ。多分英語は平均点以下だけど、これは九十点近いんじゃないかと思う。
 タープの側面に沿ってアイアンラックを組み立てて、キッチン用品やランタンを並べていく。まだ私が小さかったころは、落としても平気なようにプラスチック製のコップやお皿を使っていたけど、気付いたら金属のものばかりに替わっていた。黒のアイアンラックに乗せられた木の天板に、焼き色の付いたチタン製のシェラカップやケトルが並べられていくと、大人っぽい雰囲気で何となくお洒落、といった感じにはなるけど、正直なところ私はあまり好きじゃない。小さい頃は、母がカラフルでポップなプラスチックのお皿やフォークを取り出すのを見ていると、これからキャンプが始まるんだとワクワクしたけれど、いま目の前にあるこれらの無機質なギア達を見ても、私はいつも自分でも引く程の虚無感を味わう。そこまで嫌?と自分でもかなり疑問だけど、やはりここでも、この一つ一つのギアに父の細かな拘りを感じ取ってしまって、単純な好みの問題とはまた別の反発力が生じている。これをお洒落だとする感性(というか、それを持つ父)に自分が寄っていくのを全力で拒否したい気持ちと、もっと気分が高まるような弾け飛ぶ高揚感を求めて、とにかく色を足したい私の欲求とがぶつかり合って相殺されて、結果虚無になる。なんかもう、どうでもいいやという気持ちで充たされていくと、先程緩んだはずの頬が硬直していく。
 傍から見たらきっと笑っちゃうくらい情緒不安定に見えるんだろうけど、これくらいの短いスパンの浮き沈みが、ここ最近は毎日のように襲ってくる。そこに一つの感情が継続していかない苛立ちが加わると、楽しくても辛くても、とりあえず無理やりゼロに戻ってしまう。ミヤコとどうでもいい話をしているときでもそれはやってきて、とりあえず意味は通じないだろうと思って唐突に「はぁ、なんか虚無。超虚無」と口に出してみると、大体「え、やば。うけるけどわかるわ、それ。虚無いきなり来ない?」とミヤコは笑いながら返してくる。私とミヤコの虚無が一緒の虚無なのかはわからないけど(なんだ、一緒の虚無って)、ひとりぼっちの感傷のままにならずに済んだような気になって、少し安心する。きっと私たちのこれは、仕方のないことなのかもしれない。
 あらかたギアを出し終えたあと、焚き火台の組み立てをすることにした。夜になると風が強まるみたいだけど、風向きは北のまま変わらないと天気予報で言っていたので、タープの後ろ側に置くことにした。キャンプ用の分厚いアルミホイルで焚き火台の部品をそれぞれ包んでいると、いきなり後ろのほうから子供の声が聞こえてきた。

「おねえさんはキャンプすき?」

 十センチくらい飛び跳ねたんじゃないかと思うくらい体がびくついて、私は一人で勝手に赤面しながら女の子の顔を見た。

「え?えっと、あー、まあまあ?」
「まきちゃんはねー、キャンプすきなの」
「へぇ、そう…。あぁ、やば、ごめん。あー、キャンプ好きなんだね、そっかぁ。お姉さんもね、好きだよキャンプ。楽しいよね」

 返答している途中で、目の前にいる五歳くらいの子供に先程から充満してる私の虚無をそのまま晒してしまっていることに気づいて、それなりに子供相手の喋り方に変えた。女の子は特に気にするでもなく、私の手元にある銀色の塊を不思議そうに見ていた。

「それ火のやつだよね?しってるよ、まきちゃん。どうしておにぎりみたいなの?」
「ん?おにぎり?」
「おべんとうのぎんにろのおにぎり。そうやってママがやるよ。まきちゃんアンパンマンのがいいのに、いつもぎんにろ」

 きっとアルミ箔で包んだおにぎりのことを言っているのだろうけど、最近はアンパンマンの柄なんてものもあるのだろうか。この歳ですでにジェネレーションギャップを感じることになるなんて、私もババアに近づいている。

「そっかぁ、まきちゃんのは銀色のおにぎりなんだね。これはね、こうしておくと焚き火したとき汚れないんだよ。お掃除も楽になるの」
「へぇ。ピッカリンのまんまなの?」
「ピッ…?あー、うん、そう。ピッカリンのまんま」

 女の子がへらっと笑ったので、私もつられてへへっと笑顔になってしまった。子供は怖い。なんでこんなに感情に対して無条件を振りかざせるんだろう。しかも大人はそれに抗えないようにできている。私もまだ全然子供なはずなのに、一桁世代の手にかかれば立派な大人の振る舞いを強要されてしまう。

「ぎんにろおにぎりもね、まきちゃんピッカリンできるんだよ!ピーマンだってピッカリンしたんだ!」

 もう焚き火台の話終わりかよ、と心の中で思いながら、やっぱりそんなツッコミを面白く捉えてなんてくれないことはわかっているから、口には出さなかった。

「すごいね、ピーマン食べれるの?お姉さん苦手だなぁ」
「えー、ピーマンたべないといけないんだよ?おやさいはたべないといけないんだよー」
「はは、お姉さん食べられないなぁ。すごいんだねまきちゃん」

 得意げな笑顔でピッカリンできるんだーと叫んだあと、女の子は私達の後ろのほうで設営している途中のテントに向かって走り出した。女の子の母親が少し離れたところからテントを眺めて、父親のほうに何か指示を出していた。多分ガイロープの張り具合を見ているんだと思うけど、言うほうも言われているほうも、二人共すでに顔が疲れていた。きっと設営中にお互いあーだこーだ言い合いながら、段々険悪なムードができていったんだろう。まだあまりキャンプ慣れしていない様子の二人を見ていると、その場を離れて何か楽しめるものを見つけようとして、私の元に駆け寄ってきた女の子の気持ちが自分の中に侵食してきて、心臓がぐぐっと縮んだ。

「気、使うよね」

 誰に聞かせるわけでもない独り言を放り出しながら焚き火台を組み立てると、空のウォータージャグを掴んで水を汲みに炊事場へ向かった。
 白い雲が覆う背景に、様々な色や形のテントが立ち並んでいる。だだっ広い敷地の中に無秩序な建てられ方をしている各サイトを見ながら、日本史の教科書に載っていた昔の日本の地図を思い出した。いつの時代のどこの場所の地図だったか覚えていないけど、都感の薄いところだった気がする。今なんかよりもよっぽど覚えにくそうな、もし住所があっても無意味なくらい建物の場所を特定できなさそうな地図だった。ここのキャンプ場はあれに似ている。そのうち誰かが街の設計をしだして、大通りとかもできたりして(ここも一応真ん中に車道はあるけど)、そこに沿って建造物は並ばせられるようになるんだろう。引かれた線のひとかたまりに名前が付いて、そこに住む人はその名前を使って自分の居場所を知らせるようになって。私はそっちのほうが落ち着く。手放しにされてるよりも、誰かが先に作ってくれてるものに従ったほうが楽だし安心する。何が言いたいって、炊事場に向かうまでの間、全方位から放たれるキャンパー達の声とか表情とか、テントの建て方とか場所の取り方とか車の停め方とか、色んなものの煩雑さが気になって目にも耳にも付きまとってきて、私はまた懲りずにイライラしていた。虚無からの戻りがいつもより倍くらい早いから、多分明日あさってあたりに生理になる気がする。せめて帰宅してからにしてほしい。今まで一度もコントロールできたことなんてないけど、何となく意識しないでいれば少しはタイミングを遅らせられるんじゃないかと思って、自分が感情モンスターになってしまっていることも、微妙に胸やお腹が張ってきてる気がすることも、全部無いものにした。水を汲んでおしまい。余計なことは考えない。戻ったら焚き火して、椅子に座って持ってきた雑誌でも見よう。余計なことは何も考えたくなかった。
 そうやって気持ちを整えたつもりだったのに、管理棟近くの炊事場にやっと着いたとき、全部が台無しになった。ヘルメットみたいに黒々と光ったボブの髪と、服の上からでもわかるくらい華奢な体。低めの鼻を横から見るのは初めてだったけど、私と同じようにウォータージャグに水を入れているその人に、見覚えがあった。すぐさま気づかれないように背中合わせの蛇口に向かって小走りして、落ち着こう自分、なんでもない、なんでもない、と言い聞かせながら蛇口を捻った。

「堀口さんだよね?」

 ついさっき女の子に声をかけられたときよりも、私の体は更に高く飛び跳ねたような気がした。反射的に蛇口を閉めて後ろを振り向くと、キョトンという腹の立つ擬音が背景に書かれてるような表情で、堺さんがこちらを見ていた。キョトンはかわいい子がやる分にはいいけど、お前はやっちゃダメな種族だろと、随分失礼なことが頭に浮かんできて、私の生理無意識化の努力は徒労に終わった。

「あれ、あ、堺さん?えーなんでなんで、やばいこんなとこで知り合いに会うとか。えーなんか、ははっ」

 全然気付かなかった振りをしてみたものの、自分でもわかるくらいの不自然さだったので、言ってる途中で思わず笑ってしまった。自然溢れるキャンプ場で、不自然極まりない演技をする自分とのギャップがツボに入ってしまった。

「なんでって、キャンプしにきてるんだけど。ここキャンプ場だし」

 一人で笑う私のことなんかまるで無視して、何ならちょっとやばいやつを見てるみたいな顔をしながら堺さんが答えてきた。なんで笑ってんの?とか言いながら、一緒に笑ってくれればまだ私も救われるのに、そういうとこだよあんたに友達いないのはくそつまんねぇ、なんてかなり理不尽なことを思いながら、その理不尽な自分の「嫌な奴感」の強さに心の底が更に深く沈んだ。

「ははっ、あー、うん…。いや、そういう意味のなんでじゃなかったんだけど。えっと、家族で?キャンプ?」
「そう。パパとママと弟と。堀口さんも?」
「あ、うん。うちは父親と二人でだけど」

 この歳でパパママという人を初めて見たので、ノリが合わないとかだけではなく、やっぱり根本的に私は堺さんと合わないなと思った。別にミヤコみたいに毛嫌いはしていないし、サエみたいにけしかけて共謀しようとも思わないけど、多分私も堺さんは苦手な人種だろうなという予感はずっとあった。そしてそれはどうやら当たっていたみたいだ。

「二人だけ?珍しいね。仲いいんだ」
「いや、いやいや!全然だから!むしろ仲良くないから!」

 思わず力の限り否定してしまい、何だかただの照れ隠しみたいになってしまった。

「えー…何?なんか設営中にパパと喧嘩でもしたの?まぁ、あるよね、そういうの。あたしも昔はそういう時期あったなぁ。パパのすることいちいち目くじら立てちゃうの」
「は?いやいや待って、いやそういうんじゃないから、マジで」
「まぁキャンプって楽しいほうがいいじゃん?あたし達、左の奥のほう。緑のツールームテントだから」

 一方的に話を切った挙句、自分のサイト情報なんていう私にとっては心底どうでもいい内容を伝えてきて、堺さんは炊事場から去っていった。
 全て私が悪い。私が「仲いい」という言葉に過剰に反応してしまったから、その態度を見て堺さんが勘違いして私と父の関係を健全で良好なものだという前提で話してきた。そう、私が悪い。何度もそう言い聞かせながらも、私はどうしようもないくらい尖りきった怒りの矛先を堺さんに向けて突きつけていた。あんな奴になんでマウント取られなきゃいけないんだ。そもそも、昔はってなんだ。まるで私がまだ子供っぽいことをしているような口ぶりで(実際そうではあるけど)、自分はそこを脱して大人になりましたという態度で話してくる意味がわからない。私達、先輩後輩関係だったっけ?マジむかつく。マジなんなん?あいつ。マジでマジでむかつく。
 再び捻った蛇口から勢いよく流れる水が、黄色いジャグの中を満たしていく中、私の頭の中はすでに堺さんへの怒りで溢れかえっていた。こんな短時間での会話だけで、ここまでイラつかせることができる人なんて、今まで一度も出会ったことがなかった。ミヤコも堺さんと話したことがあるから、あんなに嫌っているのだろうか。きっとそうに違いない。堺さん関係の話題については中立の立場で居続けようと思っていたけど、次に学校に行ったとき、私はサエの共謀に加勢しないでいる自信を失った。
 気付くとジャグの水も溢れていた。かなり大きめの舌打ちと、あぁという声と一緒にため息を無理やり喉から押し出した。力任せにジャグを傾けると袖口に盛大に水がかかって、肘の近くまでひんやりとした感触が張り付くと、その場で発狂して倒れるんじゃないかというくらい頭に血が駆け上っていくのを感じた。こんなところに来てまで、私は一体何をしているんだろう。ジェットコースターみたいなアップダウンを繰り返して、感情だけが五年先くらいを激走しているみたい。誰のせいなのかわからないけど、とりあえず全部誰かのせいにしたい。というよりも、私のせいではないことにしたい。私は被害者で何も悪いことはしてないし、だからもうとにかく、今日は全部ダメだ。
 お腹の張りは、無視できないくらいの痛みに変わっていた。

 結局サイトに戻ったあとは、焚き火もせずお昼ご飯も食べずに父の建てたテント内に直行すると、そのままシュラフの中に潜り込んで無理やり自分を寝かしつけた。目を瞑っている間もぐるぐる旋回し続けていた思考は、気付くと不鮮明になっていて、目覚めたときには薄暗さに二歩足を踏み入れているくらいの時間が経っていた。外は相変わらず曇り空のままで、富士山のふの字も見えなかった。
 タープの端に設置した焚き火台にはすでに火が灯されていて、その上に吊るされているダッチオーブンをてかてかと黒光りさせていた。そのすぐ近くで椅子に座る父の後ろ姿が視界に入ると、寝ぼけていた頭がすくっと起き上がって、理由もなく意識が焦れ込む。あまり音を立てないようにしながらケータイの画面をタップすると、ミヤコからのメッセージが二通届いていた。またどうせサエの話だろうから、これ以上不機嫌な心持ちにならないようにそのまま無視することにした。

「あ、起きた」

 父の声が聞こえてくると同時に、いちいちうるさいなと心の中で返事をして、私はシュラフの中から這い出た。そのまま夕飯までごろごろしていても良かったのだけど、日中の大半を惰眠に費やしそのまま終わりを迎えてしまうことがもったいなかったし、お腹が空いて死にそうだったし、せっかくキャンプに来たのだから焚き火にもあたりたかった。父の横に座ることは嫌だけど、先程よりも虚無が戻ってきてくれていたので、多少のイラつきを抱きながらも割と平常心で椅子に腰掛けることができた。お尻を包み込むようにゆったりとした一人掛けの椅子は、母が昔使っていたものだ。私の子供用の椅子もあったけど、さすがにもう小さくて使えなくなった。一度新しいのを買うか父に聞かれたとき、私は母のこの椅子を使うと言って買ってもらわなかった。抹茶みたいな綺麗な黄緑色の帆布は大分年季が入ってくすんできているけど、父的お洒落感覚で溢れたこのキャンプギア達の中で、この椅子だけが私の唯一のお気に入りだった。

「夕飯いま火にかけたからもうちょっと。暗くなるし、ランタンつけよっかねー」

 独り言みたいに私に話しかけながら、父がランタンを三つ順番に付け始める。コオォという音と共にガスの匂いがして、着火ボタンのカチッという音と共に小爆発みたいに一気に火がつく。薄曇りの中でオレンジ色に囲まれると、夕焼けに照らされているみたいに頬が紅潮していく。父が深々と自分の椅子に座り直すと、さっきまで読んでいた文庫本を再び開き直した。そういえば私も雑誌を持ってきていたんだった。思い出しはしたけど、一度座ってしまうと鞄を取りに行くのが面倒だし、寒くなってきたので焚き火の傍から離れたくなくて、肩にかけていたブランケットを強く巻きなおすと、靴を脱いで体育座りの格好で火を見つめ続けた。ダウンジャケットのポケットに入れていたクッキーを袋から取り出すと、甘いバターの香りが一気に広がって、それだけで心が凪いでいく。ザクっと一口音を立ててその味を確かめるように口を動かせば、ひと噛みごとに心の水面は水平に近づく。そのうち体全体が温まってくると無心の塊みたいになってきて、色んなことを上手く忘れられていくような気分になってくる。ちょっとこのあと、やりたくないなと思っていたことにも手が出せるんじゃない?とすら思える。単純にポジティブになるというよりは、真ん中に落ち着いてきて世界の輪郭が見えるようになる感じで、でもそれはいつもの虚無よりもちょっとプラス寄りな感情だった。私がキャンプで一番好きな時間だ。
 ダッチオーブンの蓋の隙間から細く白い湯気が勢いよく出始めると、料理の出来上がりの合図だ。トマトっぽい良い匂いもし始めたのに、父は本に夢中になって気づいていない様子だった。教えるべきだろうかとも思ったけど、まだしばらくこの状態を続けていたかったのでそのままにした。風もほとんどない状態だと、火は真っ直ぐに鍋底を温め続けてくれる。冷やされることなく温度を上げていくダッチオーブンが、そろそろ限界とばかりに静かに叫び続ける様は絵に描いたようなキャンプの一場面といった風で、それがいつもならベタ過ぎて嫌になるところだけど、今の私には心地良く感じられた。二枚目のクッキーを食べ終わったくらいで、父にもその叫びが聞こえたのか慌てた様子で本を閉じると、革の分厚いグローブを手にはめてダッチオーブンを火からおろした。

「ひゃあ、焦げ付いちゃうー」

 父はおどけた様子でローテーブルの真ん中に置かれた木製の鍋敷きの上にダッチオーブンを置き、重そうに蓋を開けた。先程までか細くも威勢良く吹き出していた白い湯気が、もわわわっと目の前に優しく広がっていく。トマトベースの赤いスープはまだグツグツと音を立てながら、下から迫り上がる空気の玉を押さえ付けては耐えきれずに幾度も水面を破裂させていた。父がシリコン製のお玉で中をぐるりと一回かき混ぜると、下に沈んでいた玉ねぎや人参、パプリカと一緒に、ごろっとした少し不格好な挽肉の塊が三つ四つ顔を覗かせた。

「今回は煮込みハンバーグにしてみましたー」

 子供みたいに語尾を延ばし気味に言いながら、父はそれをよそってくれた。仕上げにかけられた乾燥パセリは、父がベランダで育てて収穫し、乾燥させて瓶詰めにしているものだ。アカシアのボウルに赤地のトマトスープ、そこに浮かぶハンバーグの茶色い焦げ目、黄色のパプリカやパセリの緑が加わって、器の中は更に彩り豊かになる。私にとって、一つ一つの要素、つまりダッチオーブンで料理をすることとか、彩りを考えて選ばれた食材達とか、パセリを育てて自分で乾燥させてストックしていることとか、普段はただの陶器のお皿しか使わないのにアウトドアだからといってアカシアのボウルを使うこととか、その全てがむず痒くて洒落臭い。そういうことをしてくる父に対する、抑え込もうにも溢れて止まらない洪水みたいな嫌悪感が、私の唇を真一文字に閉じさせて瞳孔を濁らせていく。父からすれば、娘がちっとも楽しそうにしていない様子(実際には楽しんでいるときもあるんだけど。ついさっきまでの時間とか)を見ることは、少し哀しいのかもしれない。実際、先程から私の表情をちらちらと伺っているような目線を視界の隅で感じる、ような気がする。「だから、そういうとこなんだってば」の一言が言えたらどんなに楽だろう。結局私は父が何をしても全部気に食わないのだろうけど、いちいちそれを指摘もしないしあからさまな嫌悪の主張も取り立ててしないまま、いつもの無言・無表情という選択肢を選んでしまう。もはや本日何回目かわからない虚無に襲われて、まだ舌やけどをするくらいの熱さのハンバーグをせっせと口に運んでは、微かに揺れるテーブルランタンの光を何となしに見つめ続けた。父から焚き火で軽く炙るように温めたフランスパンを差し出されると、ぶっきらぼうに受け取ってそのままスープにつけた。

「ちょっとお酒飲んじゃおうかなぁ。お風呂入ってからのほうがいいかなぁ」

 トマトスープを含んでふやけてきたフランスパンを、スプーンでぐりぐりと小さく切ってからほおばった。先程軽くやけどを負った舌の上で、スープがじゅわっと広がってぺしゃんこになったパンだけが残る。普通に食べるよりも倍はおいしく感じられた。

「おいしい?俺もやろう」

 うるせぇよ真似すんな。もちろん声には出さなかった。二枚目のフランスパンを手に取ると、私はそのままちぎって食べた。やっぱりスープにつけたほうが断然おいしかったけど、絶対にしなかった。


(4)へ続く


食費になります。うれぴい。