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【小説】ダイアログ(6)


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 六


 センターハウスの横にある建物は宿泊施設になっていて、大浴場も併設されている。テント泊の客も別料金を支払えば使用可能で、夕飯を食べ終えた後、私達はそれぞれ入浴の支度をして大浴場へと向かった。道すがら、父は「ご飯食べた後だとそこまで寒くないね」だの「空いてるといいなぁ」だの口にしていたけど、当然のように私は返事もせず、父の斜め後ろを無言で歩いていた。この後、夜遅くまで焚き火をしたいといつも思うのだけど、お風呂上がりに焚き火の臭いがつくのが嫌で、毎回叶わずにいる。この時期はそれほど汗もかかないので、そのまま就寝して翌日に入浴をする人も結構いる。私もそうしたいのだけど、父は毎回夜のうちに済ませる人なので、仕方なくそれに従っている。私、明日入る、の一言が言えればそれで欲求が満たされるのに、それ以上に父との会話を拒んでしまう自分自身に呆れつつ、でも仕方ないじゃん、本当は焚き火続けたいけどシュラフに臭い付くの嫌だし、また朝お風呂入るのも馬鹿みたいだし、仕方ないじゃん、とどこかキレ気味に自分を納得させる。


「じゃあ、出たらロビーで待ち合わせでいい?」


 頷いたのかどうか分からないくらいに首を動かしたあと、女湯の方へ足早に向かった。せめてお風呂くらいはゆっくりとしよう。日中の鈍痛は今のところ収まっていて、まだ経血も垂れてくる気配はない。一応ナイト用のナプキンは持ってきているけど、今夜はまだ湯船に浸かっても大丈夫そうだ。

 脱衣所には脱いだ服の入ったカゴが二つあり、それ以外は全て逆さまに置かれていた。できれば誰もいないでほしかったけど、仕方がない。むしろこの時間で二人しか使っていないことを喜ぶべきだ。しかも先に入っているのだから、私が体を洗っている間に出てくれるかもしれない。その後誰も入ってこなければ貸切状態だ。これ以上誰も来ませんようにと願いながら服を脱いでいると、ガラガラと浴場のドアがスライドした。


「あんまり長いとのぼせるからね?ママ先行ってるよ?」


 四十代くらいの小太りのおばさんが、中にいるであろう自分の子供に声を掛けながら浴場から出てきた。長年受け続けてきた重力と、若い頃よりも増していったであろう自身の重さに耐えきれなくなったかのように、その女性の身体は至る所が垂れ下がっていた。ヨーロッパ絵画の裸婦みたいな丸みを帯びた下腹、乳輪がしわしわになっている張りのない乳房、膝の上辺りにバームクーヘンの断面みたいに折り重なった皮膚。その姿が「ザ・日本の母親」という感じがして、普段見慣れていないせいか気恥ずかしくなってしまい思わず目を逸らした。女性はドアを閉めながらこちらの存在に気付くと、あ、と小さな声を出して申し訳程度にタオルで体の前面を隠していた。なるべく素知らぬ顔に見えるように気をつけながら、女性の横を通り過ぎると、ふとドアを開ける手が止まった。この人の子供、何歳?結構大きい子じゃない?多分四十代くらいだし、高齢出産とかじゃなきゃ私くらいの子じゃない?


「はーい」


 ワンテンポ遅れて浴場から聞こえてきた返事を聞いて、私の今日一日は始めから終わりまで全て駄目だということがわかった。しかし、すでに裸になってドアを開けようとしているので、今更引き返すわけにもいかず、私は最低最悪の気分を虚無で相殺するかのように感覚の全ての電源を落として中に入った。


 堺さんはすでに体を洗い終えたのか、広い風呂の中に肩まで浸かっていた。窓の外を見ていたので私が入ってきたことには気付いていない様子だった。もし振り向いてきたとしてもこちらの顔を判別できないように、なるべく入り口に近い洗い場に座った。鏡越しに堺さんの姿が半分くらい映っているけど、シャンプーも洗顔もほとんど目を瞑っているからそれほど気にならない。母親と一緒に入ったのならそろそろ出ていくはずだと思い、私はいつもより時間をかけて自分を磨いた。禿げるのを怖がってる人みたいに入念に頭皮をマッサージし、顔の毛穴の黒ずみを根こそぎ奪う勢いでくるくると指を滑らせ、水虫でもいるの?と自分にツッコミながら足の指の間一つ一つを念入りに洗った。それでも尚、堺さんは出て行く気配もなく、何なら先程から全く動かず同じ場所で風呂に浸かっていた。さすがにこれ以上は洗う場所も無くなり、私は意を決してシャワーを止め浴槽へと向かった。そのまま出ようかとも思ったけど、ここまできて湯に浸からないのも馬鹿みたいだし、どうして私が逃げなければいけないのかと謎の怒りがふつふつと沸き上がってもきていた。そもそもあなたの存在に気付いてませんよという設定で、堺さんのほうを見ないようにしながら反対側から浴槽に足を入れた。ちらっとこちらを見てきた気がしたけど、もしかしたら堺さんではない私と同じ歳くらいの別の女の子かもしれない、たまたま堺さんに似た短めの黒髪で、たまたま堺さんに似た華奢な体の持ち主かもしれない、てゆうか絶対そう、それなら知り合いじゃないし、何なら堺さんだとしても私別に知り合いじゃないし、知ってるけど知り合いじゃないしあんな人、だから大丈夫、別に平気。

 自分を冷静にさせることに必死になり過ぎて、思考は全く止まらなかった。何故こんなに堺さんのことを意識しながらお湯に浸からないといけないんだろう。そこまでする意味はあったのだろうか。嫌なら近づかなければ良かったのに、どうしても負けたくない気持ちが勝ってしまった三分前の自分を張り倒したい。結局私はそのまま勢いよく立ち上がり、再びシャワーを浴びに行った。早くこの場から出て、テントに戻ってもう寝よう。今日は何をしても駄目な日なのだと先程悟ったばかりだったのに、こうして自分を痛めつけることばかりしてしまう自分が不思議でしょうがない。


「あ、もう出るの?」


 タオルで体の水滴を拭いながら不毛な自問自答を繰り返していると、後ろのほうから声がした。悔しい。心の底から悔しさでいっぱいだ。堺さんの最初から最後までぶれなかった何食わぬ顔や態度と、私のこの目眩く混沌とした意識の対比が鮮明に浮き彫りになった今、私はこのまま大浴場の湯気と共に天に消えていく以外の悔しさの解消法を思いつかなかった。もちろんそんなことはできず、聞こえないふりをしてその場から出ていくしかなかった。

 ここで苛立ちを抑えられなかったら完全に私の負けだ。どうにかして虚無を味方につけないといけない。バスタオルで髪の毛をガシガシと拭いて、少しずつメーターを真ん中に戻していく。虚無、虚無、虚無。おまじないのように呟いていると、次第に気持ちも凪いできた。このままを保って急いで支度をしてしまおう。今ならいける!と意気込んだ瞬間、内腿を何かが伝う気配がした。どうしてこんなにも立て続けに最悪は押し寄せてくるのだろう。もはや怒る気力も無くなって、私は本物の虚無に包まれながら手際よくナイト用のナプキンを下着に貼り付けると、少しだけ伝い漏れていた経血を吸収面で拭ってからパンツを履いた。目を瞑ってゆっくり三秒数えて、順番に全ての感情をさくっとナイフで突き刺していく姿を想像してから、私はかたつむりくらいのスピードでスエットを着た。


 今日みたいな日を厄日って言うのかなとぼんやり考えながらドライヤーをしていると、鏡越しに堺さんが浴場から出てくるのが見えて、思わず自分の目線をまっすぐに固定した。目が合ったらどんな顔をすればいいのかわからず、また彼女がタオルを手で持ったまま体のどこも隠していない状態だったので、先程見た彼女の母親の裸を思い出してしまい、再びこそばゆさが私の胸にじんわりと広がっていた。鏡越しに映り込む堺さんの体は、最低限の筋肉しかついていないんじゃないかというくらいひょろひょろと細長くて、そこから更ににょきにょきと生えている木の枝みたいな腕をしならせながら下着を履いている姿は、少し宇宙人のような感じすらあった。私は何とか自分の髪の毛の乾き具合に集中しようと、目を閉じてドライヤーを小刻みに左右に振り続けた。

「ねぇ、切らないの?」


 不意に横から声が聞こえて、思わず体全体がびくついてしまった。気付くと堺さんが隣に腰掛けて、化粧水を頬にハンドプレスしながら私に話しかけていた。顔は目の前の鏡を見たままだったけど、しばらくすると返事をしない私の方を見て小首を傾げた。髪の毛は十分に乾いていて、毛先のほうからパサつき始めていたので、慌ててドライヤーを止めた。


「あ、え、私?だよね…?」

「うん、もちろん」

「あの、え…髪、の話?」

「うん。旅行のときって長いと大変じゃない?しかもこんなキャンプのときだと余計に」


 あぁ、うん。と、曖昧な返事だけを返すと、堺さんは特に表情を変えないままドライヤーを手に取った。堺さんの髪はいつもキューティクル全部に命令をして強制的に閉じさせてるんじゃないかと思うくらい、つるつると黒光りをしていた。少し顔を動かす度に天使の輪がキラキラと移動して、眉の上で右肩上がりに切り揃えられているアシンメトリーな前髪や、肩に届かないくらいに整然と並んでいる毛先の一本一本にまで、何だかこだわりというか個性というか、私にはちょっとわからない類のおしゃれの感覚を持っているのを感じた。モードっぽい、というのだろうか。おしゃれなのはわかるけど実用的じゃないというか、日常生活のおしゃれじゃないというか。友達とか彼氏とか、そういう人間関係一切無視な感じというか。オブラートに包まず正直に言ってしまうと、私は全て「ブス隠し」にしか思えなかった。

 おしゃれしたいけど可愛くないことは自分が一番わかっているから、世間一般のおしゃれではない個性的な方向にシフトチェンジしていきたい気持ちは私にも少し理解できた。清楚系、ガーリー系、キレイ系、お姉系、セレカジ系、コンサバ系。何を想像してみても自分に似合うとは到底思えなくて、結局しっくりこないのは一番上に付いているこの顔が原因なんだとわかった瞬間、私は何を着ればいいのかわからなくなってしまう。だから余計に堺さんのモード系な見た目は、その顔から目線を逸らすためだけに整えられたもののようで、私は自分でも不思議なくらいその姿態にイラつき始めていた。


「その髪は?」

「え、何?」


 ドライヤーのスイッチを切り、堺さんが細い目を少し(本人的には目一杯なのかもだけど)見開いて私の表情を伺ってきた。少したじろいでしまったけど、私はイライラ任せに口を開いた。


「その髪だって大変そうじゃん。長いわけじゃないけど、毛先揃ってなかったら台無しな感じでしょ?明日の朝やばくない?キャンプなんだし」


 ちゃんとセットできてないと、あんたただのブスだよ。と言いそうになったけどやめた。人のことをとやかく言える顔でもないし、私も今は乾き過ぎてパサパサの長い茶髪を垂らしたままのだらしない格好だったから、「ブスに向かってブスと言うブス」という絵面の醜さを想像して口をつぐんだ。


「あぁ、これ。大丈夫、あたし直毛だから寝癖ほぼ無いし。」


 私の皮肉っぽい言い方なんか何も気にしていない様子で、堺さんは答えた。なんだよこいつ、と自分でもよくわからない形の彼女に対する怒りが静かに湧き始めていた。


「ねぇ、全然話変わるんだけど」


 これ以上堺さんと話していると、私はこのままテントに戻らずに自力で歩いて家まで帰ろうとして、途中の山道で凍死する未来が見えてきたので、聞こえないふりをして勢いよく椅子から立ち上がると、大股で脱衣所の扉まで進んだ。


「今週、広瀬と喧嘩した?」


 出処のわからない怒りが頭の中に滾って、顔が赤くなっていくのが自分でもわかった。今朝ミヤコからでさえ言われて腹立たしかったのに、どうしてこんなところで堺さんからサエのことを聞かれなきゃいけないんだ。


「…は?あんたに関係ないじゃん」


 嫌悪という嫌悪を滲ませながら思いきり睨むと、堺さんは椅子に座ったまま薄ら笑いを浮かべて私の怒りの表情を楽しんでいるようだった。その姿が、更に私の怒りを増幅させた。


「やっぱそうなんだー。へぇー。仲良しだったのにねー」

「あんた何が言いたいの?普通にうざいんだけど」


 その場からすぐいなくなればいいのに、ここで背を向けたらこの女に負けるような気がして、私は相手が目を逸らすまで視線を固定することにした。堺さんはまだにやついた顔のまま私を見つめていた。


「原因は?ミヤコちゃんとは仲いいまんまなの?」

「だからあんたに関係ないっつってんじゃん。マジなんなわけ?…え、てゆうか何?ミヤコちゃんて。キモいんだけど、友達でもないくせに」

「友達だったよ?あたしとミヤコちゃん」


 あまりにもさらっとちゃん付けをした堺さんが、あまりにもさらっとミヤコと友達「だった」発言をしたものだから、つい睨みを効かせ続けることを忘れて眉をひそめてしまった。


「は?え、何その冗談」

「冗談じゃないって、ちゃんと友達だったよ。普通に中学んときは仲良かったし、ミヤコちゃんが部活でシカトされてたときもずっと一緒にいたのあたしだもん」


 堺さんの細い目が、盛り上がった頬の肉に圧迫されてさらに細まる。足をブラブラと動かしながら愉快そうに語るその姿が、海外ドラマの登場人物みたいなわざとらしさが漂っていて、腹立たしさが倍増する。


「ミヤコと同中だったの?」

「そう。三年間同じクラス。元々バスケ上手かったけど、今よりは目立たない感じだったよ。だからじゃない?シカトされたのは。地味めなのに上手いから」

 
 私の知ってるミヤコからは想像もつかないけど、目の前の堺さんが口から出任せを言っているようにも見えないから、多分本当のことなんだろう。ミヤコはどちらかといえば虐める側にいそうな人と思われがちなのに、どこかそういった虐めに対する嫌悪みたいなものもしっかり持ち合わせている雰囲気があるのは、過去自分も虐められていたからなのだろうか。


「何でかあたし、嫌われちゃったんだよねー」


 どうして?と聞いてほしそうな感じに聞こえたので、私は絶対に聞かないことにした。ミヤコの過去に興味はあったけど、こんなムカつく女からの情報なんて聞きたくなかったし、わからない振りをしているだけで本当はどうして嫌われたのか、この女は自分でわかっているような気がしたからだ。


「それより、なんなの?さっきの。なんでサエの話出てきたわけ?」


 ミヤコとの話を聞いてもらえなかったからなのか、堺さんは少し眉間にシワを寄せて、口角を下げ気味に答えた。


「あぁ、それ。なんか一緒に喋ってるの見なくなったなぁって思ったから。ミヤコちゃんと堀口さんは喋ってるの見るけど。あと…」


 目線を天井に向けてから、へへっとだらしない形に口を開いてニヤついてから、堺さんはそのまま私のほうを見た。ブス。どブス。クソブス。心の中で悪態をついてみたけど、声に出すと負けな気がするから黙ったまま堺さんの顔を見つめた。


「なんかあたしが余計なこと言っちゃったのかもしれないなぁって、ね。ちょっとだけー思ってー」

「は?何?」


 どれだけイライラしても、それに乗ったら思う壷だと自分に言い聞かせて、それでも明らかに不機嫌なトーンで私は答えた。それを捉えられて嬉しかったのか、堺さんのニヤニヤは止まらないどころかただの笑顔に変わっていた。


「いやいや、ね。別になんかしようってわけじゃなく。そんなつもりはなく。本当に、へへ。」


 たった数秒前に言い聞かせていたはずなのに、オタク感丸出しの喋り方で勿体ぶる堺さんの煽りに、私はまんまと乗せられてしまっていた。苛立ちを抑えられなくなり、浴場にも脱衣所にも私たち以外誰もいないのをいいことに、割と大きな声で堺さんを牽制した。


「だからさっきから何なの?言いたいことあんならはっきり言えば?いちいち促されないと言えないとかガキかよ!普通にキモいから!」


 怒りに任せて口走ったものだから、自分でも驚くくらい稚拙な言葉しか出てこなかった。こんな煽りに負けてまともな啖呵も切れないなんてどっちがガキだよと、頭の隅っこのほうに佇む冷静な自分がツッコミを入れる。しかし堺さんには私の小爆発が多少効いたのか、先程よりも若干怯んだ様子だった。


「え、あ、そんな別に。怒んないでよ、これくらいで。ふふ。」


 目線を私の膝辺りに逸らしながら、明らかにトーンダウンをした堺さんは、それでも強がるように薄ら笑いを浮かべたままだった。目元の辺りが突っ張る感じがして、そういえばまだ化粧水を付けていなかったことを思い出した。この女が話し掛けてきたせいで、私の顔の水分が蒸発していると思うと、怒りは増すばかりだった。


「ちょっとね、平田さんと喋りたいって沖川くんが言ってたから。じゃあ本人に直接近付くよりも、ほら、まずは近くの席の人から?とか?どうなのかなぁって。ちょっとした提案、みたいな?」


 こいつ煽りのスキル高過ぎるだろと思いながらもそれに抗えず、私は感情のままに堺さんの喋り方や表情全てを丸ごと潰してやりたくなった。同時に、この女が私たちに何をしたのかもわかって、全身が怒りの炎に包まれたみたいに熱くなった。


「・・・あんたが沖川に言ったの?あたし達と話せって?あんたが、言ったの?当然、サエの気持ちも知ってたんだよね。あからさまだったもんね、誰が見ても」

「広瀬は沖川くんのことが好き。ね?」


 少し調子を取り戻したように、堺さんは私の言葉に被せてきた。また私と目を合わせて、ニヤニヤと気持ち悪い顔をこちらに向けている。


「でも私、悪くなくない?沖川くんが相談してきたから、アプローチの仕方一緒に考えてあげただけだもん。広瀬の気持ちとか私にはどうでもいいし。てゆうか、そもそも沖川くんが好きなのは平田さんだよ?広瀬が勝手に勘違いしたんでしょ、沖川くんが堀口さんのこと好きなんだって。そこは私知らないよ。ただ、」


 ベラベラとよく動く口の隙間から、はっと一息馬鹿にしたような笑い声を漏らしたあと、堺さんは脚を組んで椅子に座り直した。


「これでなんか動きがあったら、ちょっと面白いなぁなんて、ね、思ったりはしてー」


 気付くと堺さんの目の前まで進んでいた私は、右手を思い切り振りかぶって堺さんの耳ごと平手打ちを食らわしていた。べちっと間抜けな音と共に堺さんの顔が真横を向いて、その後衝撃でよろめいてゆっくりと椅子から転げ落ちた。実際にゆっくり落ちたのかスローモーションみたいに見えただけだったのかは分からないけど、組んだばかりの脚を解くこともできずにそのままの体勢で脱衣所の床に倒れた彼女の姿は、とにかくかなり滑稽で憐れだった。掌に残る堺さんの頬の肉の弾力や、指先辺りに感じたヘリックスに着けられているリングピアスの冷たい硬さなんかを一つ一つ意識しながら、その姿を前にして、とんでもないことをしてしまったという後悔の念が津波のように押し寄せた。人に手を上げたのは、生まれて初めてのことだった。自分がしたことに酷く動揺してしまい、右の太もも辺りが小刻みに震えている。


「いった・・・。え、ちょっと本当に、何?ないわー平手打ちとか、ないわー」


 少し震えた声で強がりながら、堺さんはゆっくりと起き上がると、左頬を擦りながら倒れた椅子を元に戻して俯き加減に座り直した。もう脚は組まないで膝をピタリとくっつけて、今にも零れそうになっている涙を目の縁ギリギリで留めていた。ざまあみろと思うのが一撃を食らわせた側の本来の気持ちなのかもしれないけど、私はただただ申し訳ない気持ちしか湧かなかった。


「ごめん、ついカッとなって・・・。あの、マジで引っぱたくつもりなかったんだけど」


 怒るように仕向けてきたのは堺さんの方なのに、なんで私が謝ってるんだろうと少し思ったけど、謝罪の気持ちに嘘はなかった。やっぱりどんな状況でも、手を出した方が負けなんだ。


「大丈夫じゃな、いよね?マジ本当ごめん。痛い・・・?あの」

「ねぇ、堀口さんてさ、自分は要領良く生きてるって思ってるでしょ?」


 低めの声で喋りだした堺さんが、何を言ってるのかを理解するのに数秒かかった。


「は?え…ごめん、なんの話?」

「そうやってさぁ、思ってもない謝罪とか平気でできちゃうあたりがさぁ、相当自分に自信あるよね。本当はこいつが煽ったせいなんだから、私は悪くないとか思ってんでしょ?でも謝っておかないと手を出したのは自分なんだし、責められる前に頭下げれば少し相手の気持ちも和らげられるとか、思ってんでしょ?」


 堺さんの言うことは、半分間違いで半分当たりだった。否定も肯定もしないまま、私はただ俯き加減に堺さんの言葉を聞き続けた。


「いいよねぇ、そうやって生きられる人は。本心みたいなの隠し続けて、生きてて面白いの?って思うけど、結局そういう生き方ができる人が一番得するようにできてんだよね、世の中。私はね、ミヤコちゃんに何されても全っ然痛くも痒くもないの。嫌だなとも思わないし、やめてほしいとも思わない。だってミヤコちゃんの本心をダイレクトに受けられるんだもん。あんたたちみたいなお友達ごっこしてる連中なんかより、私はミヤコちゃんと心では繋がってるの。ミヤコちゃんもきっとそう思っててくれてる。だからいつまでも構ってくれてんだよ。それをさ、堀口さんや広瀬みたいなのが、ミヤコちゃんの友達面してんの本当にムカつくの。ミヤコちゃんのこと、どんだけ知ってんの?何も知らないんでしょ?本当は。私のほうが絶対によく知ってるんだから。それなのに、なんで堀口さんみたいな人がミヤコちゃんの近くにずっといられるわけ?」

「…それは、ミヤコが決めることじゃない?直接聞けば?」


 一方的に喚く堺さんに段々と苛立ち始めて、思わず口を挟んでしまった。堺さんは先程よりも明らかにヒートアップして捲し立ててきた。


「はぁ?あんたが傍から離れないからいけないんじゃん!ミヤコちゃん、本当のことなんて言えない優しい子だから、あんたが近くにいて迷惑でも言えないんだよ!あんたがいなければ色んなことが丸く収まんの!広瀬がわざわざ私の話題出してくれてるのに、あんたがすぐ他のこと言って逸らしてんじゃん!私知ってんだから!」


 あまりにも自分勝手な言い分と、てっきりミヤコからの嫌がらせを疎ましいと感じていると思っていたので、私は堺さんのおよそまともとは思えない主張に呆気に取られていた。


「え、どういうこと?いじめられたいってこと?」

「はっ!そもそもいじめられてないし、私。ミヤコちゃんが私のこと構ってくれるなら、接し方なんてどうでもいいの。広瀬は性格普通に悪いから意地悪な気持ちでやってんだろうけど、そのおかげで私はミヤコちゃんに構ってもらえんの。でも堀口さんがいい子ぶって話題変えるじゃん、いつも。そうやってミヤコちゃんから私のこと遠ざけてさ、正義の味方気取り?いじめ撲滅みたいな?きもいきもいきもい!しかも何ならクラスの他の人達ともうまくやろうとすんじゃん、ミヤコちゃんや広瀬との間取り持ってるのは自分だとでも思ってんでしょ?勘違いしてんなよブス!」


 堺さんのハァハァという息遣いと、脱衣所に響く換気扇の低い唸り声だけが空間を満たしていた。私はどこから答えればいいのかわからなかった。堺さんの言うミヤコに「構ってもらう」の定義があまりにも狂っていて、正直これ以上この人に関わりたくなかった。ミヤコとの間に何があったのかはわからないけど、少なくとも、ミヤコに非はないんじゃないかと思った。こんなおかしな考えの人間と友達になんてなりたくない。そしてそんな人間から、私の思考の一部が見抜かれていることに言い知れない敗北感を味わった。ミヤコやサエのことを、少しでも普通の人達と同じ場所に引き戻すこと。それが私の役割だと思って、三人の中で一番常識的で一般的な思考を持ち続けようとしていた。二人のことを見下したり、自分を上に見ていたなんてことは決してないはずなのに、堺さんに指摘されると、自分の知らない奥底ではそんな風に二人を見ていたんじゃないかと心を揺さぶられてしまった。


「広瀬はミヤコちゃんのこと、友達だと思ってるよきっと。でも、堀口さんはどうなの?あの二人と友達なの?友達って言えるの?私はずっとあんたたちのこと見てきてるからわかるんだから。堀口さんて、一度もミヤコちゃんや広瀬に本音話したことなんてないでしょ?いつも自然に振舞おうとしてて、私からしたら逆に不自然にしか見えなかった。二人が気づかなくても私はわかったから。堀口さんがいつもバランス取ろうとしてて、あっちにもこっちにも着かないでフラフラしてて。ぬるい空気に収まると満足そうに笑ってんの、私わかってるんだから。マジできもい。そんなんで本当に友達なの?そんなの友達って言わなくない?ミヤコちゃんの時間の無駄だよ、あんたなんかと一緒にいるのは。さっさと」

「うるせぇんだよ、さっきからベラベラベラベラ調子に乗って喋り続けやがって」


 これ以上堺さんの話を聞き続けていると、私が潰されてしまうような気がして、渾身の目力を込めて堺さんを睨みつけた。それが図星である合図になろうとも構わなかった。この先突きつけられるであろう言葉達に対峙する気力も覚悟もなかった。その場から逃げたくて、でも堺さんに完敗するのは嫌で、精一杯の抵抗をした。少し怯んだあと、長く息を吐いてから堺さんは息を整えるかのようにゆっくりと言った。


「私は、…私は、三人の中で堀口さんが、一番嫌い。絶対安全なところから、一番善良ぶって、全員味方につけようとしてて。一つ一つの言動がわざとらしいし、演技臭いし。見てると本当、腹立つの」

「…勝手にムカついてれば?」


 脱衣所の扉を開けようとして、私は再び堺さんのほうを見た。性格が悪いのはサエだけじゃない、私も一緒だ。


「このこと、ミヤコには一言も言わないでおいてあげる。…話題に出してもらえるとでも思った?しねぇよ」


 あからさまに悔しさを滲ませた堺さんの顔を見て、私は半分の満足と半分の苦辛を負った。



【ミヤコちゃんのこと、どんだけ知ってんの?何も知らないんでしょ?】

【正義の味方気取り?いじめ撲滅みたいな?きもいきもいきもい!】

【あの二人と友達なの?友達って言えるの?】

【ぬるい空気に収まると満足そうに笑ってんの、私わかってるんだから。マジできもい。】

【わざとらしいし、演技臭いし。見てると本当、腹立つの】



 堺さんの言葉が呪いのようにまとわりついてきて、心がいつまでもざわついたままだった。早足でロビーに向かうと、ソファでは待ちくたびれた父が居眠りをしていた。その寝顔を見て、私は何故か少し安堵した。

(7)へ続く

食費になります。うれぴい。