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【小説】ダイアログ(5)

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 今日のお弁当はいつもの焦げ多めの卵焼きと白米、昨日の残りの餃子という組み合わせだ。ふりかけは鮭で、袋を開けると本当に鮭だけの色なのか疑わしいくらい鮮やかなピンクが、結露で濡れた白米の表面に散りばめられた。ここまではいつも通りだけど、今日は更にトマトと玉ねぎのマリネを餃子の横に少しだけ添えてみた。もちろん私が作ったものではなく、父が自分のお弁当用に作り置きしているものを勝手にもらってきた。父が作ったものというだけで嫌悪してしまうけど、私にはこういうお洒落な料理は作れないし、不本意ながらここ最近、こうして少しでも見栄を張らなければならない事態に陥ってしまったのだ。

「秋冬、良くね?」
「いや唐突だわ。私嫌い寒いの」

 何の脈絡もなくミヤコが発言をすると、すかさずサエが答える。二人の間の隙のなさを時折羨ましく感じるけど、サエがいないときの私とミヤコの会話も大差ないくらい淀みなくツッコミツッコマレていくので、単に私よりサエのほうが反射神経がいいというだけなのかもしれない。そうなると、私との会話をミヤコは楽しんでいるのだろうか。サエと比べて反応の鈍さに嫌気が差す瞬間は、ないのだろうか。

「私は春秋が一番好き。一生平均気温二十五度がいい」

 会話から漏れないように私も口を開く。サエがちらっとこっちに目をやるとにやけた顔でペットボトルの蓋を開けた。

「四季ガン無視じゃん。でもやっぱ嫌だよね、極端に暑いとか寒いとか」

 いつものポカリを一口飲むと、サエは二個目のツナサンドを食べ始めた。油っぽいものを食べて甘いものを飲んで、見ていると口の中がおかしくなりそうになる。

「いや気温じゃないのよ。湿気。秋冬の朝の前髪、マジで楽」
「あー湿気か。でも冬乾燥すんじゃん。静電気やばくね?」

 さっきまでお弁当箱の蓋を開けた瞬間から文句を言っていたピーマンの肉詰めを飲み込んでから、ミヤコは箸を左右に振りながら私達に「わかってないなぁ」と言って秋冬の前髪の話を続けた。

「濡らせば終わりじゃんそんなの。朝バッて濡らしてドライヤーやってさ、コテやってから固めたら終わりなわけよ。でも湿気はいなくなんないし、夏マジで股の毛かよってくらいどいつもこいつも螺旋になってんの。マジで夏の湿気無くなんないかな」
「シリカゲル擦りつければ?」
『シリカゲル!』

 私の提案に二人が同時に吹き出して、笑いが止まらなくなった。先週から私達は、身の回りのものの名前を調べるということにはまっていた。みかんの白い筋が「アルベド」とか、インド人のおでこの変な丸いやつが「ビンディ」とか、どうでもいいものを見つけては検索をして楽しんでいた。その中で除湿剤の「シリカゲル」と爪の根元の白いところの「ルヌーラ」は、特に理由はないけど何となく語感が良くてかわいくて、事あるごとに会話の中に出しては三人で笑っていた。

「やばいここでシリカゲル!」
「ちょっとやめてよ、リツ。腹筋!」

 二人が予想以上に笑ったものだから、私もつられて壺に入り込む。だんだん何が面白かったのかわからなくなってくるけど、とりあえず三人だけでわかり合っている可視化できない可笑しみの空気が充満していて、しばらく誰も喋れないくらい私達は笑い続けた。

「おまえらいっつも楽しそうな」

 まだお腹の痛みでヒーヒー言っている私達に向かって、ここ最近の私の見栄の元凶が声を掛けてきた。元凶はミヤコの前の席に座ると(そこは田所くんの席だ)、コンビニの袋からブラックサンダーを取り出して食べ出した。

「あんたさ、最近すげぇ来るじゃんうちらのとこ。何なん?」

 まだシリカゲルの余韻が残る顔で、ミヤコが元凶に少しの嫌悪を示す。多分ミヤコは元凶のことがあまり好きではないんだと思う。

「えー、いやまぁいいじゃん?楽しそうだから。なんで笑ってたの?」

 元凶の名前は沖川といった。隣のクラスだけどミヤコとは同じ中学出身で、野球部に所属している。不細工ではないけど目は細めで、初めて顔を見たときは爬虫類とか魚とかの系統だなと思った。圧倒的な造形ではないくせに、背が高くて運動部というだけでイケメン扱いされてる感が強くて、でもその手の系統が好きな人からは一定の需要はありそうな顔立ちだった。

「リッちゃんがさ、シリカゲ、ルって…ヒャー…」

 言いながらサエがまた妙な声で押し気味に笑い出すと、私もミヤコもまた耐え切れなくなった。しばらく笑っている私達を眺めたあと、沖川が二個目のブラックサンダーを開けだした。

「シリカゲルって何?呪文?」
「ちげーよ!なんか煎餅の袋とかに入ってんじゃん。食べられませんとか書いてあるやつ。丸いつぶつぶの」
「あー!あれそんな名前なん?」
「そう、やばくね?今うちらん中で一番笑うやつ。ね?」

 ミヤコとは正反対に、サエは沖川と話しているときは生き生きとしている。普段からもがさつな言葉遣いをしがちではあるけど、沖川と話すときはそれが更に酷くなっている。照れ隠しの一種だとは思うけど、相手と対等になろうと必要以上に頑張っているように見えて、横で見ている私はどうしていいのかわからなくなる。ただ男子と対等に話そうとして合わせているだけならまだしも、恐らくサエのそれは、そこはかとなく恋愛感情も匂わせているような気がした。私が偉そうに言える立場ではないのはわかっているけど、サエの見た目や普段の言動から、突然男子の前で所謂「女子らしさ」みたいなものを出しても似合わないというか、他にいる数多の女子らしい女子には敵わないというか、下手したら違和感の塊になってしまう。きっとサエ自身もそれはわかっているからこその「対男子用粗暴態度」であり、女子らしく在れない自分が不用意に傷つかないような自己防衛手段でもあるんだろうなと思う。私もどちらかというとサエ寄りの人間だから、あえてそういう態度で男子と接してしまう気持ちが少しわかってしまって、どうしても沖川と会話をしているときのサエを直視できずにいた。
 サエのほうをまともに見れずに、でもサエに同意を求められたのは私だったので、何となく沖川の方向に声を発した。恐らくサエも、沖川が来たことでミヤコに気を使っているのだろう。

「そうそう。今一番笑う。あとなんだっけ?爪のやつ。この前ミヤコが調べた」
『ルヌーラ!』

 またミヤコとサエが声を揃えてから、水風船が破裂したように三人で爆笑した。笑い過ぎてミヤコの顔が持久走を終えたあとみたいに真っ赤に火照っていた。サエの目尻にはうっすらと涙が滲み始めていた。きっと私も、この二人と同じような顔をしているのだろう。いまこの瞬間の三人は、地球上で最も無敵な気がした。

「やばいなほんと、おまえら。俺もそんくらいどうでもいいことで楽しくなりてぇよ」
「え?沖川むしろうちらよりも単純そうじゃん。悩みねぇだろ。ただの野球馬鹿ー」

 サエがまだ整っていない息を押さえつけるようにしながら、沖川のことを指差していじり始めた。

「俺にだって悩みくらいありますー。広瀬みたいなバスケ馬鹿に言われたくないですー」
「うるせぇよ!バスケ以外のことだって考えてるっつーの!」

 大体いつもこうやってサエの言うことに沖川が乗り、二人だけの潮流が生まれ始める。お互いのビジュアルとか周りの環境とかが違えば、ただの恋人同士にしか見えないようなやりとりが繰り広げられると、私は居ても立っても居られなくなる。二人だけでやってくれよという気持ちと、先程まで無敵だった私達三人をあっさり退治して離散させてしまう沖川の持つ男子力に対する嫌悪と、それに何の躊躇もなくなびくことができるサエの軽率さへの嫉妬とで、私の中の感情という感情は、メーターの端から端を超高速で行ったり来たりしてしまう。笑い過ぎて上がった息を整えながら、私はいつも通りメーターの針を真ん中に戻していく。メモリに書いてあるのはもちろん「虚無」だ。

「ねぇ、そういえば堀口さんは?部活やってないんだっけ?」

 虚無の力が無になる瞬間がすぐにやってきた。私の不必要な見栄の原因は、これだ。何故か沖川は、途中で必ず私に話を振る。こっちとしてはそのままサエとよろしくやっていてほしいし、せっかく虚無に設定した自分の感情が台無しになるし、普段事務的なことくらいしか喋らない男子と会話をするというだけで首の中心がキュっと締め付けられるような感覚になるし、何よりサエと同様、私にも一般的な女子らしさが欠けているから、沖川の前で女子として振舞わなければならないんじゃないかという気負いが生じてものすごく緊張するし、どうして相手が男子というだけで自分を別の生き物みたいに仕立てあげなきゃいけないのかと思うと腹立たしくなるし、とにかく、物凄く疲れる。サエの顔から笑顔が消えてきて、私のほうを睨んでいるのが視界の隅で確認できる。

「え、帰宅部所属」
「部活やってねぇじゃん、それ」
「いやだから帰宅部所属してっから」
「顧問誰よ?」
「校長」

 適当に答えながら、自分の喋り方が必要以上に男子っぽくなっていることに気付いた。これじゃサエと一緒じゃないか。いや、一緒どころか私のほうが受け答えが不機嫌に聞こえる分、サエよりもかわいくない。せめてもう少し明るく反応できればいいのに、話しかけるなという気持ちのほうが全面に出てしまう。

「やばいリツ、校長顧問とか」

 ミヤコが軽く笑いながら言うと、沖川も「堀口さん面白いよね」と言って爬虫類みたいな顔を平たくするみたいにニカっと笑っていた。サエの顔はもう見れなかった。

「家帰ってさ、やることあんの?暇じゃね?」
「家事」
「うっそ、偉!」
「リっちゃんお弁当もいつも自分で作ってきてる感じだもんね。うちらん中で一番女子力高めだと思う」

 急にサエが入り込んできて思ってもみないことを言うものだから、私は咄嗟にお弁当箱を右腕で隠した。

「やべぇ自炊JK!俺料理とか家庭科でゆで卵作ったくらいだわ」
「いやそれ火つけて終了じゃん。料理じゃねぇよ」
「じゃあ広瀬できんのかよ?おまえ絶対できねぇだろ」

 またサエと沖川のじゃれ合いが始まったので、私は引きつった顔のまま、最後の餃子をほおばった。よく見てみると、マリネ液でつやつやとしたミニトマトの赤がお弁当箱の中で強烈な存在感を放っていた。何となく緑色が足りない気がして、今朝おかずを詰めていたときにはいつもよりましになったかなと満足げだった自分を思い返して、段々と恥ずかしくなってきた。なるべく不自然にならないように左手を動かして、お弁当箱の蓋を半分くらい閉めた。

「あ、平田さん!」

 沖川の大声で、サエの座る席に近づいてきた平田さんが軽くびくついた。いつもどおりサエが無表情で平田さんを一目見てから立ち上がった。

「おい怖ぇよ広瀬。平田さん怖がっちゃうじゃん」
「あんたの声のでかさでびびってんだろ。あたしのせいじゃないって。ね?」

 どうしていいかわからないという表情で、小さくうんと頷いた平田さんは、サエがいなくなったあともしばらく座っていいのか悩んでいるようだった。

「ごめん大丈夫だよ。びっくりしちゃうよね、色々」

 何も悪いことをしていないのに、不必要な恐怖を与えられてしまった平田さんが何だか可哀想になってきて、いつものフォローよりも少し言葉数多めに話しかけてみた。平田さんはへへっと少し笑ってから、それでも遠慮がちに自分の席に座った。

「やっさしい、堀口さん。平田さんごめんね、俺の声でかいの野球のせいだから。教室と外の区別つかねぇんだよ、声帯バカ過ぎて。授業んときも隣のやつと喋ってるとすぐバレんの。ハラセンの数学んときなんてさ、」

 平田さんが困り顔で少し笑うと、不自然にべらべらと話始めていた沖川の耳がほんのりと赤みを帯びていく。サエと話していたときとは明らかに違っていて、女子の前で男子として振舞わなければいけない必死さがそこにはあった。つい先程まで私が沖川に感じていた類の息苦しさと同じようでいて、その実そこには緊張以上の好意が含まれていた。私の女子としての見栄は緑色が足りないことで早々に無駄なものになっていたのだけど、平田さんが登場するとその無駄さが決定的なものになって、だから本当に、物凄く疲れる。
 決して私が沖川のことを好きなわけではない。異性を意識して自分の性を再確認する作業が、単純に力を奪っていくものなだけだ。そして私のそれが、サエの沖川に対する、或いは沖川の平田さんに対するものとは似て非なるものだと気付くと、私だけがまだ先に進んでいない子供のように感じてしまって、だから本当に、本当に物凄く疲れる。

「おまえそろそろ教室戻れよ」

 平田さんに喋りかけ続ける沖川に向かって、ミヤコがぶっきらぼうに言った。


 沖川が誰かに告白したという噂を聞いたのは、中間テスト三日目の放課後だった。

「ねぇねぇ、おまえら沖川と仲良かったっしょ?」

 テスト期間で部活のないミヤコとサエと、三人で明日の数学に向けて勉強をしていたとき、野球部の菊池と藤原が私達に話しかけてきた。

「は?仲良くはない」

 サエがまるで二人に興味がない様子でノートを見たまま答えた。数学が一番苦手なミヤコと私は、不機嫌の塊みたいな顔をして二人を睨んでいた。

「いやいや、いつも昼休み話してんじゃん」
「あいつが勝手に来るだけで、仲良いわけじゃないから。来るから話してるだけ。じゃなきゃそもそも接点ないし」

 サエが沖川と頑なに仲が良いわけではないことを強調するのは、きっとただの照れ隠しだ。菊池も藤原も特に何も思っていなさそうだったけど、私はその頑なさがわざとらしく聞こえて思わず視線を下に落とした。どうしてこっちが恥ずかしい気持ちにならないといけないんだ。

「じゃあさ、話ん中で恋バナとかになんなかった?あいつ誰が好きとか言ってなかった?」

 菊池がニヤついた顔で聞きながら、私達の反応を待っていた。予想外の質問をされ、サエの顔を絶対に見られなかった私は、ミヤコのほうを向いた。シャーペンを動かす右手が止まると、ミヤコはサエのほうを向いた。

「なんか沖川、テスト初日に誰かに告ったらしいんだよ。テスト明けまで答え保留にされたらしくて。でもあいつ相手絶対言わないから俺らわかんなくて」

 ミヤコの眉間に僅かに皺が寄ると、今度は私のほうを向いた。お互いに何も言わなかったけど、考えてることは多分一緒だった。私はそれでも、サエのほうを見ることができなかった。

「女子と喋ってんのおまえらと、あとあの何だっけ?いつもあそこ座ってる地味な女子。堺?くらいしか見ないから、何か知らないかなぁと思って」

 堺さんの名前が出てきたことに一瞬驚いたけど、ミヤコは特に反応することなくそのまま藤原のほうに顔を向けた。

「明日の数Ⅱのテスト無くしてくれたら教えてやるよ」
「なんだよそれ。マジ知ってんの?知らないの?」
「だからテスト無くせよ。じゃなきゃ答えないっつってんじゃん。これ以上どうでもいいこと話かけてきて、明日私が赤点取ったらおまえらのせいだから」

 ミヤコが無表情で答えると、「もういいよ、怖ぇよ」と言いながら二人共教室を出て行った。廊下側の席でYOUTUBEを見ながらゲラゲラ笑っている男子達の声や、自習をしている子が教科書やノートをめくる音が響く教室で、私達三人の間にはしばらくの沈黙が続いた。ミヤコは早々に数学の勉強を再開していたけど、私は教科書を眺めるふりをして、目の前の平田さんの席に座っているサエのことを意識せずにはいられなかった。確実に沖川の相手はサエではない。ミヤコもそれはわかっているはずで、更に言えば恐らく相手は平田さんだろうこともわかっているはずだ。だからさっき私と目が合ったときに私達の間には謎の協定が無言のうちに結ばれた。それでも私にはミヤコのように、「サエを気にかけながらも気にしない」という高度な技は繰り出すことができなくて、居心地の悪さを抱えたまま、数Ⅱの教科書の真ん中辺りを眺め続けることしかできなかった。

「なんだったの、あいつら」

 サエがぼそっと口に出したあと、教科書を閉じて筆記用具を鞄にしまいだした。私はちらっとサエのほうを見たけど、胸元あたりまでしか目線を上げられなくて、顔を見ることはできなかった。

「サエ帰んの?私もうちょいやってくけど」

 ミヤコが冷静なままの口調で聞くと、サエは無言のままで教室を出て行った。結局サエの顔を見ることができなかった私は、残されたミヤコと二人で大人しく数学の勉強を続けるしかなかった。当然、何も頭に入らなかったけど、サエを追いかけて何か声を掛けることも、ミヤコのようにいつもどおりを装うこともできないまま、ただ教科書を眺め続けるだけだった。指数関数のグラフを見続けていると、そのうちその滑り台みたいな線を物凄いスピードで滑り落ちていくサエと、頂上で佇み続けるミヤコの姿が見えてくるような気がして、じゃあ自分はどこにいるべきなんだろう、サエを追いかけるべきなのか、ミヤコと一緒に上から見守るべきなのかと、およそ数学とは関係のないことばかりが頭を駆け巡っていった。

「サエはサエで、気持ち整理するっしょ」

 独り言のように呟いたミヤコの言葉を聞きながら、サエに対する態度を決めかねていた自分の優柔不断さに嫌気が差したのと、ミヤコとサエの間にある、私とのそれとは別の種類の力強い友情を感じて、私はこの二人と友達という関係を築けているのか疑わしくなった。どっち付かずなのは、どっちかにつかないといけないと思っているからで、本来なら離れていく相手のことを気にかけながらも、本人の自由意思に任せることができるのが友達のはずなのに、私はそれができないでいた。傷ついたであろうサエのことを追いかけて引き止めるのか、ミヤコと一緒になってサエを見守ることにするのか、そのどちらにも私自身の意思は反映されていなかった。どちらかと常に一緒にいないとという、誰に強いられたわけでもない強迫観念が私の中に充満して、選択は二つ以外に見当たらなくなっていた。どちらかに着いて行かないと、どちらかに置き去りにされてしまうという気持ちが付きまとう。つまり私は二人のことを信用していないんだろう。サエのことも、ミヤコのことも。こういう関係は、友達と言えるんだろうか。

「まぁ、うん」

 どうとでも取れるような曖昧な返事をしてから、窓の外に目をやった。普段なら野球部とサッカー部が練習をしているグラウンドに人影はなかった。ぐるりと囲むように植えられている桜の木は、黄茶けた葉をまばらにつけたままで、冷たくなり始めた風に震えていた。遠くに薄ぼんやりと見える富士山は、まだ頭まで同じ青をしていたけど、あと数日もしたら上からゆっくり白く色づいていくはずだ。たゆたうままの私は、このまま変化に何となく流されていくのだろうか。抵抗することも進んで流れていくこともしないままで、自分という人間を自分自身で理解できないまま、誰にも説明することなく滑り落ちていくような交友関係を続けていくのだろうか。

「ごめん、やっぱ私もそろそろ帰るわ。数Ⅱ捨てる」

 逃げるように片付けをして席を立った。ミヤコはそのまま「明日」とだけ言って片手を挙げた。サエにも私にも、どこまでもニュートラルな態度のミヤコが少しだけ不満だった。


 テスト最終日は、数Ⅱはもちろん他の教科も壊滅的な出来だった。空き時間にこまめに勉強していたはずの英語ですら長文をまともに読めなかったし、リスニングなんて全く頭に入ってこなかった。勉強に身が入らなかった自分に非があるのは明らかなのに、昨日あそこで菊池と藤原が話しかけてこなければと二人のことを心底恨んだ。とにかく終わったのだからと自分に言い聞かせてはみても、何となくすっきりとしない気分のままなのはどうしてなのか、自分でもわかっていた。教室の真ん中の列、後ろから三個目の席はテスト日なのに朝から空いている。サエの欠席理由は明らかで、それを知っているのはきっと私とミヤコだけだった。何の教科のどんな問題を解いていても、どうしたって気になってしまう。

「ねぇ、このあと暇?」

 帰り支度をしていると、いつものように少し強めの力でミヤコが肩を叩いてきた。

「特に。なんで?どっか行く?」
「いや、サエん家。昨日の今日だから、様子見」

 あぁ、と曖昧に答えると、そのまま当たり前のように二人で教室を後にした。正直、昨日の今日だからこそサエのところに行くのは気が進まなかったけど、私なりにサエのことを心配はしていたし、ここで今日はやめておくとミヤコに言ったら、とんでもなく薄情者な気もして、曖昧な返事で気持ちを濁したまま流れに任せた。昇降口を出ると、昨日よりも肌に刺さるような乾いた風が私達の剥き出しの太ももに容赦なく吹きつけてきた。朝パラパラと降っていた雨は止んでいて、ところどころにできた水溜まりが余計に体感温度を下げてくる。用済みになった傘が、折りたくなるくらい邪魔でしかたない。

「どうよ、数Ⅱ」
「死んだ」
「一緒」

 いつものテンションのままで会話が進んでいたけれど、私は内心かなり緊張していた。もしサエが家にいなかったらとか、親が出てきて色々聞かれたらなんて答えたらいいんだろうとか、最悪サエが生きてないかもしれないとまで考えてしまって、気が気ではなかった。隣で落ち着き払っている様子のミヤコが、私の内心の焦りを更に加速させて、最早虚無メーターは針をしきりに行ったり来たりさせたままで使い物にならなかった。
 学校から十分くらい歩いた坂の途中に、サエの家はあった。半地下になっているガレージのシャッターは上がっていて、ぽっかりと空いたその空間だけが、別の次元に繋がっているようで少し不気味だった。

「親、多分いないね。車無いし」
「自転車あるから母親はいるかもよ」

 確かに、と言いながら、ミヤコがケータイを取り出すと同時くらいのタイミングで、玄関のドアが開いた。本当に母親が出てきたんじゃないかと体を硬直させたけど、俯き加減のサエの姿が目に入ると、空気が漏れ出ていくように力が抜けていった。

「やば、タイミング」

 いつもと同じテンションでミヤコが話しかけると、サエは小さな声で何かを答えていた。窓から見えた的なことを言ったようだったけど、その消え入りそうな声がサエから発せられたものとは思えなくて、私が想像していた以上にダメージを受けている様子に驚きを隠せなかった。

「数Ⅱ爆死だよ。問題文がそもそも謎言語」
「…マジか」

 何とか聞き取れるくらいの大きさでサエが答えると、そのまましばらく沈黙が流れた。順番を考えると次に何かを言うのは私だろうか。二人とも私の発言を待っているのか、単純に次話すことが無くなっただけなのか。三人でいるときの空気の読み方を忘れてしまったかのように、私はただドクドクとうるさく鳴り響く自分の鼓動に支配されてその場に佇んだままでいた。

「休んだ分って、見込み点付くんだっけ?0点?」
「え、や、知らない。でも多分、平均点が付く…ん、じゃん?」

 ミヤコの話しかけ方があまりにもいつも通りで、私は驚いた勢いのまま舌を回した。パジャマにサンダルという格好のサエが、ひと吹き通り過ぎた冷たい風に軽く身震いをしていた。

「何の?クラスの?」
「いや、自分の?一学期の中間期末の平均じゃなかったっけ、確か」
「へぇ!じゃあサエ今日で良かったじゃん。数学得意だし」
「まぁ。良くはないけど…」

 サエの返答を聞いて、一瞬ミヤコが「あっ」と小さく声を出した。今日一日何でもないような態度でいたけれど、やはりミヤコもサエに会うことに緊張していたのかもしれない。そう思うと、私一人がサエに気を使って、心をすり減らしていたわけじゃなかったんだと力が抜けた。

「いや、良くはないよ?ごめんごめん、そういうんじゃない。数Ⅱで日本語飛んだわ」

 それでもミヤコは、私なんかよりも余程冷静に受け答えをしていた。無言でサエが頷いた後は、誰も言葉を発しなかった。体感三十分以上に思えたけど、それでもきっと五分はそのままだった。時折駆け抜けていく木枯らしが、強弱をつけながら私達の間を冷やしていく。その隙間がどんどん押し広げられていくようで、次にサエが言葉を発するまでに、私は二人から二十メートルくらい引き離された気分でいた。

「リッちゃん、返事いつすんの?」

 俯いたままのサエの声は、さっきよりも少し大きくなって、泣きそうなのか寒いのか、震えて聞こえた。

「え、あぁごめん、順番的に私の番?」
「話す順番とか。決まってないっしょ」

 ミヤコが少し笑いながら言うと、サエがさっと顔を上げて私のほうを見つめた。溢れんばかりの涙を溜めてこちらを睨むサエを、私は一秒も見ることができず、すぐ表札のほうに目を逸らした。

「違うよ、返事」
「え、相槌ってこと…?」
「だから、違うって」

 サエの言いたいことが何なのかわからず、私は少しイライラし始めていた。落ち込んでいる人を目の前にして、何が言いたいの?はっきりしろよとも言えず、だからといってサエの、こっちの言いたいことを汲んでくれという態度には腹立たしさしか感じなかった。甘えんなよ、何言いたいんだかわかんないっつーの、ミヤコが話しかけてたのあんたじゃん、私何返事したらいいの?
心の中では言いたいことが止めどなくこんこんと湧き出てきていたけど、私の口からは、えーとかあーに似たような音が抜け出るだけだった。

「…ねぇ、サエ。あんた結構な勘違いじゃない?それ」
「勘違いじゃないから。それしかないから」
「いやでも、サエ知ってるわけじゃないでしょ?リツは違うよ」
「言い切れなくない?リッちゃん、ミヤコに隠してるかもしれないじゃん。私達には言わないでいるだけかもしれないじゃん」

 突然二人だけの会話が始まった。しかも私が隠してるだの何だのと、私を置いてきぼりにしている癖に、私を巻き込んでいることが腹立たしかった。

「え、ちょっと何?二人共」

 思ったよりも大きな声で二人の会話に割って入ると、ミヤコもサエも、眉間に皺を寄せた状態で私の方を見た。その表情が余計に苛立ちを強くさせて、きっと私も同じように険しい表情になっているのがわかった。

「何なの?私何かした?突然の悪者扱い?」
「いやごめん、リツが悪いとかじゃないよ」

 ミヤコが一歩私の方に近づいてきたけど、私は距離を取るように半歩後ろに下がった。ミヤコを嫌いに思ったことなんて今まで一度も無かったのに、体が勝手に接触を拒んでいるかのように無意識だった。

「…リッちゃんなんでしょ?沖川」
「は?…はぁ?沖川?」
「沖川の告った相手!リッちゃんなんでしょ?テスト終わったら返事すんでしょ?こんなとこ来ないでさっさとしに行きなよ!」

 沖川の名前が出てから、私は目も口もまん丸く開きっぱなしだった。沖川が私に告白したと、サエは本気で思っている様子で、ほとんど決壊寸前の涙は顔の震えで目尻の際で揺れていた。

「いやいや、は?私?されてないから。マジで言ってんの?」
「リッちゃんしかいないじゃん!沖川好きそうだったじゃん!リッちゃんだって沖川来て嬉しそうだったし、女子力アピールとかしてまんざらでもなかったじゃん!」

 それはあんたが勝手に言ってただけじゃんと、言い返しそうになって吸い込んだ空気をそのまま飲み込んだ。喉の奥がぐぅと小さく鳴って、胸のあたりが石ころを詰められたような圧迫感でじんわりと痛んだ。

「いやサエ、落ち着けってば。リツ違うって言ってんじゃん」
「いいよ別に沖川と付き合ったって。私関係ないもん。でもそしたら私とかミヤコと話すとき沖川連れてこないようにしてよ。迷惑だから!いちゃいちゃとかされんの!二人だけの世界作るなら他でやって!」

 それは今までずっとこっちのセリフだったやつだからと、これも飲み込んだ。行き場を失くした石の群れがお腹にまでやってきて、体が沈んでいくようで、それなのに足元がふわふわと不安定になっていって、その場に倒れないように立っているのがやっとだった。その後もサエがずっと何かを喚いていたけれど、その度に言いたいことがどんどんと溜まっていって、私はその石を全て吐き出さないと、このまま内側から破れて死んでしまうんじゃないかと思った。

「うるせぇんだよさっきから黙って聞いてりゃ訳わかんないことばっか言いやがって!」

 私は死にたくなかった。比喩だとしても、死にたくなかった。私のことを何も知らないような人間に、一方的にやられたままで自分を押し殺してはいられなかった。溜め込んだ石を思い切り目の前のサエに撃ち込むように、最大限の出力で声を放った。

「沖川になんて告られてないし、勝手に勘違いして喚いてんじゃねぇよ!大体沖川なんて好きになるのサエくらいしかいねぇよあんな爬虫類顔!何がいいの?超きもっ!」

 沖川をきもいと思ったことはなかったけど、必要以上に攻撃された自分を慰めるかのように、気持ちを何倍にも大げさに脚色して、必要以上にサエを攻撃した。

「沖川なんて、誰が相手でも無理っしょ。サエだけだよそんな物好きなの。でもサエじゃ無理だよね、女らしさ?全然ないじゃん。私が男でもサエは無いわ。意地悪の塊みたいな性格しといて人から好かれるって本気で思ってんの?てゆうか私は女子力アピールとかしてねぇから。そう見えたんなら、少なくともあんたより女子力あったってだけだから。あ、ごめん逆?サエが女子力無さ過」
「ちょっとリツ、一旦ストップ」

 いつもの調子より少し低めの声で、ミヤコが私の言葉を堰き止めた。まだまだ吐き出さなきゃいけない石が沢山残っているのに、私はそれを留めておくしかなくなった。

「思ってないことまで口にしなくていいよ」

 自己防衛の攻撃を見透かされたようで、憤りに隠されていた恥ずかしさが一気に表出して顔が熱を帯びていく。きっと真っ赤になっている私の顔は、この中で一番冷静さを欠いていて、醜く汚れて見えるのだろう。そう思うと、余計に羞恥心が溢れてきて、ますます顔が火照っていくのがわかった。

「…全部思ってることだから。ずっと思ってたことだから」

 サエは既に人目なんか気にせずうわぁと泣き続けていた。いつから涙が決壊していたのか、私の言葉を受けてなのか、喚いていたときからだったのかはわからなかった。心に詰まった石を投げつけている間、私はサエの表情や何かを一つも見ていなかったからだ。それなら私は一体誰に何を叫び続けていたのだろう。誰に何を聞いてほしかったのだろう。

「私から誘っておいてあれだけど、リツはもう帰ったほうがいい。サエとは私話すから。後で連絡する。ごめん」

 ミヤコは私の色々をわかっているかのように、サエの肩を抱いてそのまま家の中に入っていった。あのままの気まずい空気を解消させる術を私は持っていないから、ミヤコの提案に助けられたはずなのに、一人だけ置いてきぼりにされたようで悔しくて惨めだった。

「わかったようなこと、言わないでよ」

 自然と涙が流れそうになるのを必死で我慢して、私は早足で坂道を下った。

 家に着く頃には息も上がっていて、マフラーの隙間で汗ばんだ首筋が気持ち悪かった。リビングのソファにマフラーと鞄を放り投げると、そのまま洗面所に向かった。本当は部屋に直行してベッドに倒れ込みたかったけど、外で張り付いてきた全てを洗い流さないと、私を取り戻せないような気がした。蓋の閉じた洗濯機が静かに佇んでいるのを見て、思わず舌打ちをする。今日は金曜だから、私が干す番だ。朝予約を入れていた洗濯物達はすでに綺麗に脱水までされていて、あとは干されるのを待っている。すぐに取り出さないとシワになってしまうのはわかっているのに、どうして私がやらないといけないんだろうと、今はそればかり考えてしまう。

「女子力?ふざけんなよ。やらなきゃいけないんだよこっちは」

 掃除も洗濯も料理もお弁当作りも、父と私の二人でやらないと生活が回らない。私達は二人で生きている。アピールだの何だのと、そんな呑気な考えは一切過る隙なんてない。

「知らないくせに」

 うがいをした後そう呟くと、でも自分だってサエやミヤコのこと、知らないでしょ?と、鏡の中の自分が聞き返してくる。少し残っていたコップの水を思いっきりかけると、水が跳ね返ってきて制服のブラウスを点々と濡らした。
 何も知らないサエに言いたい放題に殴られた私は、何も知らないサエのことを言いたい放題に切り刻んだ。ミヤコだけが冷静で、その冷静さの選んだ相手がサエだったことが何よりも哀しかった。喫緊で慰めの必要なほうは明らかにサエだし、それはよくわかっているつもりだけど、私にはどうすることもできない哀しみと寂しさが襲いかかってきて、濡れた胸元を眺めながら、涙が流れ続けるのを止めることができずにいた。

(6)へ続く


食費になります。うれぴい。