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【小説】ダイアログ(7)

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 七

 前にも来たことがあった気がする、ここ。もっと視線が低かったから小さい頃だろうけど、今高い目線から見えてるから現在の私がここを歩いてる的な?表参道のほうが原宿より好きなんだよね。だって人多くない?あと最近若い子増えて居づらい。え?いやいや、もうババアだって高校生なんて。だって中学生女子のキラキラまじでまぶしくて目潰れるよ?てか、隣にいるのママじゃん。死んでどんくらい経つっけ?普通に歳取ってんの意味わかんない、なんで?そっか、歳取るとこんな感じなんだ。てゆうか私のほうが背高いとか。いつ抜いたの?高校入る前あたりかな?もう抱きしめてもらうってより抱きしめてあげるって感じになるね。白髪混じってんじゃん、染めなよ。いや、月一くらいめんどくさがんなよ、根元やばいよ。あ、いいね、私も足痛くなってきたとこ。ケーキ食べたいから千疋屋のさ、え、まじでダメ?今日パパいないんだからいいじゃん。バレないって言わなきゃ。…やった!パフェ食べるわ、全力で食べるわ。人多すぎて歩きにくいけど、ママと一緒にお出かけはやっぱいいな。女同士。母子ってより、女同士って感じ。私もそう言えるくらいには成長してる?でもせめてヒール履いてきてほしかったな。それじゃ普段の靴と変わんないじゃん。人のファッションに口出しはしないけど、もうちょっとさ、おしゃれ気合入れてほしいじゃん?特別感、ほしいじゃん?まぁでも、この歳になると歩くの大変なのかな。まだ全然若い気がするけど、衰えてはきてるよね、きっと。本人に言ったら超怒られそう。ん?あー、どうしよっかなぁ。季節のパフェがなんなのかによる。てゆうかさ、これ聞くのまじでハードル高くね?…嘘、すげぇやっぱおばさんって図々しくなるんだ。あははは、ごめんごめん。いやだって、店員さんにいちいち聞くんでしょ?んー、恥ずかしい…?とも違くない?なんかだって、これ聞いたあと絶対これしか頼めないじゃん。あ、隣の人チョコパフェだ。ここに来てフルーツ食わないってどうよ。いいな、カップル。彼氏ほしい。え、じゃあ聞いてよママ。メロンなら私いらないから別のにする。ほんと?やった、じゃあ一人一個ね。全然余裕。逆に最近爆食過ぎて危機感じる。腹!腹!え、だって腹!待ってよそんな笑う?お腹って言えばいいの?腹は腹じゃん。あはは、でもみんなこんなんだよ。ミヤコもまぁ、でもサエがすごい。私より男だよ、喋り方。別にいいじゃん、てゆうか女の子っぽさとかあったら今ママと出かけてないから。彼氏いないよーできねぇ、できないよー。ほら!ほらね!ナチュラルなんだって、できなぁい、とか言えないから。彼氏いねぇ!って。あははは。ママってずっとそう?パパと会う前からそんな感じ?いや、そんな感じはそんな感じだよ。てゆうか私のこの粗暴な感じは誰似なの?パパも穏やかじゃん。あんたら二人共穏やかじゃん。うっわ。うっわ想像できるそれー。デートで公園歩いて楽しい?え、私は絶対やだディズニー行きたい。あはは。やばい今日の私楽しいかも。すごい楽しんでる。ママとお出かけ、やっぱいいな。今度またパパと三人でもいいけど、それはそれで違うんだよなぁ。ママすぐ笑ってくれるし、私も話し甲斐があるわ。ママ、笑うと目の横にシワできるようになってる。仕方ないけどちょっと悲しい。来月の誕生日は化粧品だな。この年齢の人ってどこの使ってんだろ。ミヤコのママ詳しそうだし今度聞いてみよ。ん?別に。え、違うよ別に目変じゃないって。むしろいいじゃん春色。てゆうか私そんなシャドウうまく塗れないんだけど。ふーん、でも確かに。ママ前はもっとはっきり二重だったもんね。下がるんだ…。違うよ!ディスってないってば!あはは気にしすぎ。


 目が覚めてしばらく、今どこで何をしているのかわからなかった。顔だけがやたらと寒くて、寝る直前まで石油ストーブで暖められていたテントの中の空気が、外気とそれほど変わらないところまで下がってしまっていることに気付いた。ここはテントの中だ。私はいまキャンプに来ている。隣のシュラフの塊は父だ。私と父の二人だけでキャンプに来ている。母はもちろん、いない。
 途端に、ついさっきまで見ていた夢の中の母の顔が滲んでくる。輪郭がぼやけて溶けて、声もどんなだったのか、何を話したのか、どこでどういうことをしたのか、時間が進むごとに曖昧になっていった。

「消えてく」

 呟くと、益々母の姿は思い出せなくなった。歳を取っていたように思うけど、そんな母の姿なんて当然一度も見たことがないし、百パーセント私の想像の産物だ。思い出せないのも当たり前なのかもしれない。でも何となく、楽しかった。大人に近づいた私と、老い始めた母との会話。何かそんな感じだった。楽しかった。日常を楽しんでいた。あるはずだった日常を、私達は楽しんでいた。楽しかった。なのにどうして、こんなにも圧倒的な空っぽだけが残っているんだろう。
 ケータイの電源を入れると、時刻はまだ午前五時五分だった。メッセージは一通増えていて、またミヤコからだった。ちょうど五時に受信しているので、きっとまだ起きてるはずだ。私は寒さに震えながらシュラフから出て上着を着込むと、ケータイを持って静かにテントのジップを上げた。夢の母のせいで引きずっているどうしようもない虚しさや寂しさを少しでも埋めるために、ミヤコの声を聞きたくなった。何を話すのかなんて考えていなかった。外はまだ夜と朝の狭間で揺れていて、雲に覆われた空の色は地上の光を反射して、寝ぼけた錆色をしていた。三回コール音が鳴ったあと、ミヤコの声が私の耳に届いた。

「リツ?ちょっと、起きてんのかよこの時間」
「まさかの」

 私の返答にミヤコがははっと笑ったあと、お互いに沈黙が続いた。何から話せばいいのかわからず、とりあえずミヤコが喋るのを待とうかと思ったけど、私から電話したのだからと口を開いた。

「ごめん、未読無視」
「いやほんとだよ。つーか、なんなら今まだ読んでないっしょ?未読でいきなり電話してくるとかどんなだよ」
「ほんとそれ。ごめん。いま親とキャンプ来てんの。ケータイ見てる暇あんまなくて」
「え、そうなん?てか何?キャンプ?リツそんなアクティブだったっけ?うける」

 ケータイを見る暇がないやつが、こんな明け方に電話なんてしてくるはずがないのに、私が半分ついた嘘をミヤコは流してくれた。意図的かどうかはわからなかったけど、それで私は少し安堵した。

「いや、父親の趣味。私もまぁ、好きだけど」
「へぇ、意外。虫ダメそうじゃん」
「この時期いないっしょ。てか、そこ?」

 むしろそこでしょ、とミヤコが言ったあと、私達はまたしばらく無言になった。遠くの道を車のタイヤが滑る音が、このだだっ広いキャンプ場の空に溶け込んで右耳に微かに響く。左耳から聞こえるミヤコの部屋の静寂が、必要以上に閉塞的に鳴り響いて痛い。ふと堺さんの顔が思い浮かんだけど、彼女がここに来ていることや話した内容なんかは、宣言通りミヤコには絶対に言わなかった。

「ねぇ、読んでないんだよね?」
「え、あぁうん。ごめん」

 堺さんのことをここでミヤコに言ってしまうことは、何だか告げ口のようにも思えた。それじゃあ堺さんのことを伝えて反応を楽しんでいるサエと一緒だ。そしてそれを堺さんは嬉々として受け入れるだろうし、それは絶対に避けたかった。そんなことをして堺さんの歪んだ願望を叶える手助けなんてしたくなかったし、それをしないことで堺さんを悔しがらせたかった。結局私は、サエ以上に性格が悪くて意地悪だ。

「じゃあ今言うわ。イヌリン」
「は?何?」
「イヌリン」

 てっきりサエの話をしてくるのかと思っていたので、聞きなれない単語をミヤコが口にして、私は次第に笑いがこみ上げてきた。

「いやいや、何なの?いきなり。イヌ?」
「リン」
「いやだから何だよ、イヌリン」
「水溶性食物繊維っ」

 早口言葉のようにミヤコが言うものだから、私はキャンプ場にいることを忘れてはははっと大声で笑ってしまった。すぐさま口を閉じると草原の先の方まで声が走っていって、その響き渡った自分の笑い声がまたおかしくて、次々に湧いてくるあははを咬み殺すのに必死だった。

「早ぇよ言い方。水溶、性…しょっ」
「水溶性繊ぃっ。やば、間違えたわ」

 早口に失敗してミヤコも笑い出した。もう他の家族が寝ているからなのか、部屋の中のミヤコも私と同じようにくくっと堪えきれない笑いを漏らして苦しそうに楽しんでいた。イヌリンのかわいさと、水溶性食物繊維の滑らかな響きが私達の笑いの壺を満たしていく。体感で五分くらいは笑い続けた気がしたあと、息が整っていくころには、何故か私の気持ちも整然と並べ立てられたドミノみたいに、ひとつひとつ整理されて立ち上がっていった。

「あのさ、私あんま知らないんだよ、ミヤコのこと」
「え?いきなり?」
「よく知らないこと多くて。別にそれ全然気にしたことなかったんだけど」

 少し笑っていたミヤコも、私の声のトーンを聞いてかすぐに真面目な調子で、うんと頷いてくれた。ミヤコのこういうところがやっぱり好きなんだと思う。私も、サエも。

「私は友達って何なのかとか、今までそんなめんどくさいこと考えたことなかったんだけど、でもミヤコのことは知りたいなって思って。なんか、深い?友達みたいな。そういうのなれないかなって。超きもいこと言ってんなって自分でも思うんだけど」

 凍えるような寒さの中で、結露で濡れた椅子に座って電話をしているはずなのに、お腹の底から熱を帯びていくのがわかった。耳の奥のほうの血管が広がり始めて圧迫していく。恥ずかしさで死にそうになりながらも、私は正直に立ち上がった気持ちを吐露した。

「毎日普通に楽しく過ごせればいいじゃんって思ってはいるんだけど、なんかそれだけじゃ物足りないのも正直なとこで。普通に楽しくってさ、それ別に誰とでもいいって言ってんのと一緒じゃんって思って。私は、ミヤコとサエといると楽しいし、バカみたいなことずっと話してたいけど、正直…サエと二人でいんのはちょっと辛いってゆうか。私もサエも、ミヤコがいないと成り立たないってゆうか。なんでだろうって、あれから考えてたし、普通にサエのことムカつくって思ったりもしたんだけど。なんか私単純に、サエのことよくわかってないからこんなことになってんのかなって。サエも私のことよくわかってないだろうから、お互いにわかんない同士で距離取っちゃってるってゆうか。だからなんか…。ミヤコとサエと、私友達になりたいんだよね」

 わけのわからないことをつらつらと話している間、ミヤコはずっと、うんと頷いていてくれた。ついさっき整然と並べられたはずのドミノは、みるみるうちに倒れ始めてどんどんと先に進んでいってしまった。止めることはできなかったけど、言語化するのが困難なこの胸の内を、なるべく丁寧に伝えられるように口を動かし続けた。

「私は、母親いないの。小学生のときに死んだ。今日も父親と二人でキャンプ来てる。すげぇ嫌いで、父親のこと。でも何が嫌いなのかとかもうよくわかんなくて。別にそのせいだけってわけじゃないんだけど、…サエに対しても、そういう毎日のイライラを当てつけちゃったってゆうか。女子力どうこうとかも、やりたくてやってるわけじゃないことをアピールとか言われると、なんかね。八つ当たり感激しいなって思いながらも、色々言っちゃって。マジ申し訳ないなって思って…」

 突然赤ちゃんの泣き声のような声が近くで聞こえて、一瞬体がびくついた。このあたりは夜に野生の鹿がうろついている。二頭分の声がケーンケーンと鳴り響いたあと、再び静寂が辺りを包み込んでいった。

「何いまの声」
「え、鹿?多分」
「大自然じゃん」

 ミヤコのツッコミにふふっと声が漏れたあと、自分が何を話していたのかを忘れてしまった。とりとめもなく話していたせいで、鹿の声から戻ることができなくなってしまった。

「ちょうどさ、サエから同じようなこと言われた、さっき」
「え?サエもミヤコと友達になりたいとか恥ずいこと言ってたの?やばくない?」
「違えよ、八つ当たりってとこの話」

 あんなに散らかった私の話を真面目に聞いていたミヤコに驚きながら、やっぱりこういうところが好きだなと改めて思った。

「サエさ、結構前から沖川のこと好きで。でも多分、自分は無理だって思ってたらしいよ。リツが楽しそうにしてんの羨ましかったって。自分は男友達としか見られてなかったけど、リツにはちゃんと女子扱いしてる感じがしたって」
「そんなことあった?全然女子扱いされてる感なかったんだけど」
「サエから見てってことでしょ。平田さん戻ってくるとサエいなくなるし、平田さんと沖川が喋ってんの見てたら、多分そんなこと思わなかったでしょ。すぐ平田さんのことが好きなんだってサエもわかったと思う。沖川バカだから態度に出てたし」
「うん。わかりやすかった」

 ミヤコの冷静な分析に関心しながら、サエの恋愛感情が緩やかに私の心を侵食し始めた。好きな人が近くに来て、自分と楽しく話してくれる。同性の友達と同じような扱いでも、自分に笑顔を向けてくれる。隣で関心のなさそうな友達に好きな人が話しかけるとき、自分との扱いの差を感じて落ち込む。友達に嫉妬して、友達なのに嫉妬してしまう自分に更に落ち込んで、それでも好きな人がまた笑顔で話しかけてくれると、どうしても頑張ってその人にとっての最高の自分を演じてしまう。求められる自分の像と、求められたい自分の像との差がなかなか埋まっていかないことに苛立ったり焦ったり、サエはずっとそうやって毎日を過ごしていたのだろうか。

「でもそしたらさ、多分サエは平田さんのことすごい攻撃してたんじゃないかって思うわけ。それ超迷惑な話じゃん?平田さんにとっては。沖川もサエのこと嫌いになるだろうし、何なら平田さんがサエ怖がって沖川のこと拒否るかもしれないし。なんかだから、リツには悪いけど私はサエが勘違いしてくれてて良かったなって、ちょっと思っちゃったの。とりあえず一旦は私らだけのことで完結できるじゃん?平田さんが一番巻き込まれないようにしなきゃいけない人なわけだし。…まぁ、沖川のせいで私ら巻き込まれた感はあるけど。でもあいつに悪気はないし、人を好きになる気持ちに私らが口出しすることもないじゃん?」

 ミヤコはどの人間に対しても気を使って、一番被害を最小限にしようと考えてくれていた。言葉のひとつひとつからそれが痛いほど伝わってきて、同時にサエと私への信頼のようなものも感じられて、何だか少し照れくさい気持ちにもなった。

「いずれ沖川と平田さんのこともサエにはばれるだろうけど、その前に私らの関係こじれたままにはしておけないなって。三人でいられない状態で相手が平田さんってわかったら、多分サエ孤独じゃん?誰にもモヤモヤ話せないみたいな」
「確かに」
「お互い八つ当たりみたいな節があるなら、謝って終わりな気もするんだけど、どう?別にリツから謝ってやってとは言わないけど。私はどっちかが悪いとも思わないから。ただ、今のサエに『リツに謝んなよ』ってちょっと言いづらいのも事実。平田さんのことも言わなきゃいけなくなるし。」
「いや、…うん、大丈夫、私から謝る」

 ミヤコはずっとサエを心配していて、平田さんのことも巻き込まないようにしていて、沖川の恋も上手くいくように見守ってくれていて、当然のように私のことも心配してこうして電話をしてくれている。そのミヤコの気持ちに、少しでも答えたかった。私達の間にあるか細い蜘蛛の糸のような繋がりを、太く強固なものにしていきたかった。

「ありがとう…って私が言うのも変だけど。あと、リツの言う友達になりたいってやつ」
「いいよそれ、もう。やばい恥ずい」
「え、私結構ジーンとしたけど?リツとサエが戻ったらさ、少し近づけるんじゃないかなって。私もね、リツのこともっと知りたいって気持ち、あるよ。サエにもある。でもどこまで突っ込んでいいのかとか、色々考えちゃうっていうか。…ほら、小学生とかだったら遠慮無しでガンガンいくけど、私らもうteenagerじゃん?」

 まじめな話の中で出てきた唐突なネイティブ発音に、思わず吹き出してしまった。ミヤコもくくっと笑いをかみ殺しながら話を続けた。

「なんかっ、ふふっ、考え過ぎちゃって。距離の詰め方?ってゆうの?リツが部活やんないのとか、日曜も遊び誘っても断ること多かったりとか、色々気にはなってたんだけど、家庭の事情とか聞きづらいとこもあって。勝手に察して聞かないままってのもどうよ?とは思うんだけど、まぁでも、うちらほら、teenagerだし。ふっ。」
「だよね、ティーンエイジャーだし」
「違う、エイジャーじゃなくてネイジャーだよ。teenager」
「うるせぇよ」

 私もミヤコも、もはや通常の大きさで笑い声を上げていた。空はまだ分厚い雲に覆われていたけど、地上の錆色を打ち消すように深海の黒い青が広がりを見せていた。所々からテントのジップを上げる音が聞こえてきて、焚き火の白い煙も漂い始めた。風に吹かれて煙は上へと登れずに、地面と平行に流れながら散っていった。

「まぁさ、だからとりあえず、テスト休み明けサエん家行こ?あいつ多分明けても学校来ない可能性大だし。来たら来たでまぁ、そのほうがいいけど」
「うん。ちゃんと話すわ。…謝るとき、一緒にいてくれる?」
「はぁ?当たり前じゃん。いきなり二人だけにするとかどんだけよ?やべぇ奴じゃん、私」

 またしばらく二人で笑ったあと、「外明るくなってきた系だから寝るわ」と言って、ミヤコは電話を切った。ケータイを耳から離すと、残り少なくなった木々の葉を風が揺らす音が、キャンプ場を忙しなく走り回っていた。私達の会話が終わったのと交代するかのように、早起きな鳥達の喋り声がチュンチュンと聞こえ始めて、だんだんと昨日の明日が今日になる。まだキンと冷えた空気を鼻からゆっくり吸うと、じんわりと脳の中心が冷やされていく。ぼやけた白いもやを一気に吐き出したあと、未読だったミヤコからのメッセージを開いた。

『しつこくごめん。せめてあたしと会えない?サエ抜きでいいから。』
『あたしまずはリツの気持ちとか知りたい。今回のこと無しで、あたしとサエに対して、何でもいいから。超今更何言ってんの?って感じだけど。』

「え、イヌリンどこだよ」

 自分でも気持ち悪くなるくらい嬉しさで満たされて、少し大きめの独り言すら照れ隠しには役立たない程、顔がほころんだままだった。好きな人と両想いになれたときは、こんな感じなのだろうか。そんなおぞましいことまで考えてしまう自分を、それでも抑え込めないくらいに嬉しかった。焚き火の煙もそこかしこに立ち上り始めて、時折鳥の声に混ざって会話の欠片も散りばめられ始めた。思いがけずミヤコから与えられた温もりを途絶えさせたくなくて、私はあまり得意ではない焚き火の準備を始めた。

 昨日のうちに父が割ってくれていた杉の薪の中から、棒状の細いものを探す。保冷剤みたいに冷え切った軍手をつけて、薪台に置きっぱなしになっていたナイフを手に取ると、棒状の薪の表面に刃を当てて滑らせていく。未だにフェザースティックを作るのが苦手な私だけど、気分のいい今の自分ならうまくできる気がした。しかし、本来はくるくると渦みたいに削られていくはずのところ、手がかじかんで厚めに削れてしまい、まっすぐな木片が棒からささくれのように割れただけだった。角度を変え、もっと表面をなでるようにナイフを滑らせる。すると今度は本当にささくれた木片がピンっと削り取られただけだった。

「これだと弱すぎか」

 刃の角度をなるべく寝かせて、少し力を入れてから刃を押し出す。削られた先から木は渦巻いて、そのまま棒の先端まで丸まっていき止まった。わっと思わず声が出て顔がほころぶ。今の感覚を忘れないうちに、別の面を削り始める。たまに削り取ってしまったり、渦を巻かなかったりしながらも、今までの中では一番まともなフェザースティックがひとつ完成した。和傘の骨組みみたいな不格好さだったけど、自分も少しはまともなもの作れるじゃんとニヤニヤしていると、突然初めて母の似顔絵を描いた日を思い出した。あれは母の日のプレゼントか何かだったのだろうか。毎日見ているはずの母の顔をいざ色鉛筆で再現しようとすると、どうしても似ても似つかないものになってしまい、そのうち普段つけていないはずのハートのイヤリングやピンクのドレスを描き始めて、母なのか架空の女性なのかわからない絵が完成した。それでも私は得意げで、こんなに絵が描けるようになっただなんて、自分ももうお姉さんの仲間入りだと意気揚々と母にその絵を見せに行った。母の反応はどうだったのだろう。きっと褒めてくれたと思うけど、そこの記憶は残っていなかった。母に関する記憶なんてここ数年は思い出すこともほとんどなかったので、私は多少戸惑いつつも、そこまで心を乱されることもなくただ懐かしいと素直に思える自分に驚きもした。多分さっきの夢のせいだ。
 もっと菊の花のようなフェザースティックを作りたいと思い、私は二本目を作り始めた。雲の膜の張った空は群青の綿を敷き詰めたみたいに広がって、周りの景色の輪郭が次第にピントを合わせていく。炊事場のほうで水を流す音や、子供の話し声、車のドアを閉める音、時折吹きすさぶ強めの風と、煽られるテントやタープのはためく音。自然と人間が少しずつ溶け合い始め、それぞれの色が見えるようになった頃、私は四本目のフェザースティックを完成させた。一本目より二本目、二本目より三本目と、よりフェザースティックらしい見た目に仕上げることができて、しばらく並べられたそれらを眺めてはニヤつきを抑えられなかった。

「自分でやったの?うまくなったね」

 唐突に背後から声が聞こえ、父が自分の椅子を隣に持ってきて深々と座った。ほんの少し気分の落ちた私は、四本のフェザースティックを焚き火台へと放り投げるとトーチで火をつけた。くるりと丸まった木肌の先端から次第に黒く焦げていく。せっかく上手くできたのだから、せめて写真でも撮っておけばよかった。湧き上がる後悔の念も一緒に燃やすようにして、数本の薪を上に並べた。

「ちゃんと火、回ってるね。しっかりクルンってなってるから」

 そうだ、フェザースティックは火がつきやすくなるように作ったものだった。いつの間にか手段が目的と化していて、そこで満足してしまうところだった。

『あたしまずはリツの気持ちとか知りたい。』

 ミヤコのメッセージを思い返してみる。私は多分まだ、ミヤコやサエのことを知ることにしか気が向いていなくて、その先のことなんて考えてもいなかった。まずは私の気持ちを知りたいと言ってくれたミヤコは、その先の私達の漠とした在り方に輪郭を持たせようとしてくれているのかもしれない。

「雲がまだ多いなぁ」

 父の言葉で気づいたというのが何となく癪に障るけど、私はただ知ること・知られることだけじゃなく、そこから生まれる新しい私達の炎色反応が何色になるのかを見てみたいと思った。望んだ色ではなかったとしても、そこに行き着くまでのプロセスだけで満足していたくなかった。改めて、サエに謝ろう、謝って、でも今までの気持ちも伝えていこうと思い直した。

「キャンプさ、今回最後にしよっか」

 静かに気合を入れ直した直後だったのもあり、また父が日常と同じ温度帯の物言いだったのもあって、提案を理解するのに数十秒は掛かった。じわじわと表面にオレンジの火を纏い始めた杉の木が大きく一回パチっと爆ぜると、父は椅子から少し腰を浮かせて楢の薪を数本トングで掴んで焚き火の中に入れた。

「昔はお湯沸かしてカップラーメン!ってときもあったよね。あれ覚えてる?パパがお肉焼くの失敗しちゃって夕飯無くなっちゃったから、ママが近くのコンビニでカップラーメン買ってきてくれたんだよ。怒られたなぁ、すっごく」

 しっかり育ち始めた炎が、父の横顔を赤黒く照らしていた。うっすらと生えた口ひげの周りは乾燥していて、皮膚が白く細かく捲れている。いつもお風呂上がりには化粧水やらクリームやらをしっかり塗る人だから、きっと今回持ってくるのを忘れたのだろう。私のを貸してと言ってくればよかったのに、言えなかったのだろう。ここに来てからの私の態度を考えれば当然だ。父の気遣いはいつだって、全て私に起因しているものばかりだった。いつもならこんなことは思わないはずなのに、今の私は驚くほど素直に内省のできる状態にいた。

「まだりっちゃん小さかったから、プラスチックのピンクのフォーク使ってて。パパがそのまま食べさせようとしたら『まだ熱いんだからフーフーしてあげてよ!』て。怒られてばっかり」

 カップラーメンを食べたのはよく覚えていたけど、父が母に怒られていたのは記憶になかった。両手で持つカップラーメンは手袋越しでもその暖かさが伝わって、もくもくと立ち篭める湯気と一緒に鼻腔の奥を満たしていくしょっぱい匂い。ショッキングピンクのフォークで黄色の麺を口に運んでくれる、大きくて優しい大好きな手。もぐもぐと口を動かす私を見つめる微笑んだ母と、次の麺をふーっと息を吹きかけながら冷ましている父。あのときの私は、百パーセントの喜びでできていた。

「りっちゃんが大きくなったら、おしゃれなギアを使いたいってよく言ってた。少し凝った料理もして、今で言う、映え?パパはよくわからなかったけど、ママはそういうのやりたかったみたい。だから、ちょっとずつママのやりたいって言ってたこと、やってあげられるようにして。そしたら、ね」

 父は物語を読み聞かせるように、でも心の中で自分自身と喋っているかのように語っていた。そこに私は半分くらい、少し遠慮気味に座っていた。

「そうこれこれ、こういうのって。なんかそうやっていつもの感じで、ね。戻ってくるんじゃないかなぁって。戻るわけないのに。…もう死んでるんだけどね!」

 ははっと空回った笑い声をあげると、父は炎で形の崩れた薪をトングで一つずつ山形に組み直した。燃え終わり炭になった欠片は焚き火台の底に崩れて集まり、まだ燃え盛る薪を支えていた。

「…ずっと、ママがいないことに慣れない。いっつも変な感じ。留守を預かってるみたいな。ママはこういうことしたかったのかな、りっちゃんにこういうことしてあげたかったのかなって、考えてやってみて。でもやっぱり上手くできないんだよね。パパはママじゃないから。ごめんね」

 返事はしなかった。できなかった。いつも通りの父へのレジスタンスは無く、内省モードの私には父の告白が自分の思慮の浅さを浮き彫りにする刃となって、これまでの場面それぞれでもっと言えたこと、伝えられたことが沢山あったのではないかと訴えかけてきた。
父の心の中はまだ、生理が来る前の私と同じ状態のままなのかもしれない。母がまだ、ちゃんと死んでいないのかもしれない。

「ママと沢山話したはずなのに、だんだん最近思い出せないことも多くなってきてて。今までずっと、ママが帰ってこれるようにと思ってやってきてたから。思い出せないと、何をするべきなのかわからなくなってきちゃって。…なんか、ね、ほんとごめんね?病んでるよね、これ。ははっ!ヤバいおっさんだよね、りっちゃんのパパ」

 暗く重い空気になりそうだと、すぐにおどけたふりをする。過剰なくらい明るい口調や無駄なリアクションで、その場を取り繕おうとする。私はこの人のこういうところが嫌いで、その嫌いな理由は紛れもなく私自身を見ているかのようだからだった。何をそこまで気にしているの?どうして自分がその役目を負う必要があるの?それは本当に他の人に気を使った結果ではなかった。私はただ、私を守りたかっただけだ。傷つかないように、逃げ道を作って向き合うことを放棄していただけだ。

「まぁだから、キャンプね、ちょっとしばらくお休み!りっちゃんももう大きくなったもんね。あ、お友達とキャンプとか行くなら、ギア使っていいよ。パパも次は、ソロキャンデビューかな?」

 勝手に語って勝手に話を終わらせて、この人はどこまでも自分勝手だ。私を無視して自分の中だけで全て解決してしまう。でもそれは、私が何も反応をしないできたからであって、だとすると、私は一体誰に何を怒っていたのだろう。父のことを、私は少しでも知ろうとしてきたのだろうか。目の前にしっかりと生きているこの人に、私は何か本気の言葉を投げつけたことがあっただろうか。

「今日も大好き」

 ふいに耳元で、母のあの声が聞こえた。それと同時に、今までおぼろげだった母のあのときの笑顔がはっきりと、まるでここに存在している母を直視したかのように鮮やかに思い出すことができた。多分さっきの夢のせいだ。記憶の片隅にいた母の影が、まるで目の前にいるかのように鮮明に現れたと思ったら、次の瞬間には水の中にいるみたいに輪郭がぼやけていった。流れ続ける涙を拭うことも忘れて、私は父に向けて声を出していた。

「パパ、私ね」

 私から父に声を掛けたのは、何年ぶりのことだろう。随分長いこと返事すらまともにしてこなかったのに、「パパ」という単語の響きが驚くほど自然で心地よかった。
 本当はカップラーメンが食べたいんだ。むしろ、その方がいいんだ。ママが一緒にいた時のこと、楽しかったこと、沢山思い出せるから。ママのこともパパのことも大好きで、世界中のどんな親よりも、二人のところに産まれてこれて良かったって思えていた時のこと、ずっとずっと覚えていられるから。ママのいたはずの未来を作り上げないで。やればやるほどそこにママがいない事実が浮き上がって、私はどんどん後退りしてしまう。過去のママを守りながら、前に進むことだってできるんじゃないかな?
 溢れ出る言葉の全てを吐き出す代わりに、鼻を一度すすってから椅子の上で膝を抱えて顔を伏せた。伝えたいはずなのに、どうしても言葉を口に出来ない。私のしてほしいことを、父が拒絶するわけがないことくらい、とうの昔にわかっている。受け入れてもらえる確証のある中で、私のこの気持ちは何故外に飛び出すことをためらうのだろう。嗚咽を漏らしそうになるのを堪えながら、力を込めて目をギュっと閉じた。言葉の代わりのような涙が、雨樋を伝うかのように瞼の隙間から溢れ続けて私の腕をしとどに濡らしていった。

「んー?」

 少し間を置いて父が答えた。いつもの調子で、その間延びしたような返事がまた憎らしく、こんなどう見ても異常事態の私を気にしていないようなポーズを取ってくれることに、例えようのないくらい巨大な愛情を全身から感じ取って、再び私の中の天邪鬼が顔を覗かせる。

「…もういい」

 顔を伏せたまま、なるべく不貞腐れて機嫌が悪く聞こえるように心掛けながら返事をした。説明できない持て余した反抗心と、素直な気持ちをさらけ出すことへの恥じらいや、そもそもそれを恥だと感じてしまっている自分の子供っぽさへの嫌悪。ジレンマなんて言葉を使うと格好よく聞こえるし、悩みとして成立してるみたいに思えるけど、結局私はまだ自分のことしか考えてなくて、一番傷つかない方法、ど真ん中の宙ぶらりん状態を選んでいるだけだ。しかもそれは、父の揺るぎない愛情の上でのみ成立するもので、子供としての特権をフル活用してしまっている。私はきっと生まれてこの方、父に甘えていない日はない。気持ち悪いけど、事実だ。すっごくすっごく気持ち悪いけど、紛れもなく真実だ。

「あ、ちょっと…。あ!あー!」

 言い様のない感情に整理をつけようとしていたところに、父の子供みたいな叫び声が響き渡って、今まで考えていたことが全て吹っ飛んだ。人が真剣に悩んでいるところなのに、うるせえよ。睨みの視線に思いを乗せて顔を上げると、壁みたいに広がっていた雲の切れ間からクリーム色の空が所々に顔を覗かせていた。さっきまで居座り続けていた雲達が、嘘みたいな駆け足で次々に流れていく。そのうちに私達のサイトの周りにも強い風が吹いて、テントが音を立てて波打った。涙で濡れた頬がひんやりとしたけれど、そんなことが気にならないくらい、私は眼前に広がる風景を瞬きせずに見続けた。

「出て、きた…。出てきた」

 横で呟く父の声に合わせて、徐々になだらかな影がはっきりとした姿を見せ始めた。背後から強い光を浴びているその影は、深度の深い群青色をしていた。まるで夜明けの空をそっくりそのまま吸い取っているかのようで、一秒一秒時が進むごとに、その深さを増していった。最後まで頭に引っかかっていた綿飴みたいな雲が空へ溶けていくと、今まで一度も見ることのできなかった富士山の全貌が顕になった。こんなにも圧倒的で振れることのない美しい景色を、私は見たことがなかった。ただの山なのに、それこそ学校の教室からだって、いつも使う駅前の歩道橋からだって、山の影は沢山見てきているはずなのに、目の前にそびえ立つ富士山のシルエットは、ファンタジーの中の現実みたいだった。
 慌てた様子で父がポケットから車の鍵を取り出すと、あの枯れ草のキーホルダーを富士山に向かって掲げだした。さっきまでの子供みたいなはしゃぎ方もせず、無言のまま腕を前に突き出す父の姿を見て、私は何も言えなかった。あのキーホルダーの中に閉じ込められている茶色の草に、私はずっと見覚えがあった。見覚えがあったからこそ、それを持ち続ける父が嫌だった。霊安室で横たわる手に握られていたそれは、無造作についた折り目に沿って濃い緑の線を描いてくしゃくしゃになっていた。その後、父はそれを大切に取っておいて、しばらく仏壇の前に置いていたけれど、そのうちに動かない母の後を追うように水分を失い、色を失っていった。仏壇から枯葉が無くなり、気付いたら父がキーホルダーを持ち歩くようになっていた。あれはきっと、母が自転車から倒れ落ちるときに思わず掴んだであろうものだった。自分の体を守るよりも先に、カゴからこぼれ落ちるのを受け止めようとした、父の誕生日を祝うための花束の一部だった。
 無表情のまま動かない父は、恐らく私の生まれるずっと前から母に見せていた父本来の姿なのだろう。そう思うと、何だか突然見知らぬ男性が現れたようで、目の前に鎮座する富士山と同化して見えた。普段から私に向けられている愛情とは別の、これから先知っていくかもしれない類の新しい愛情の形を、二つの姿で見ているようだった。

「届いたかな」
「…じゃん?」

 父の台詞みたいな呟きに、無意識に反応してしまい、私は思わず顔を伏せた。あんなに頑なに無反応を貫き通していたのに、たった一度パパと呼んだだけで何年も前の自分に引き戻されてしまったみたいだ。全身に変な汗が流れて、羞恥心で全身が満たされていく。こんなに恥ずかしい気持ちで溢れ返っているのに、そのまま何故か、ふふっと小さく笑みが零れてしまった。何がおかしいんだよ私。と、自問自答をする間もなくそのまま笑い声は大きくなっていく。こんなにしてほしいことも沢山あって、それに答えてくれる人がいて、毎日ただ笑顔で過ごすことだってすぐにでもできるはずなのに、私はどうして自分からそれを避けようとしているんだろう。私のそんな態度のせいで、こんなにも父との距離が開いてしまっていた。そしてお互い悩みながらも口に出せないまま、こうして毎回キャンプなんかしてしまっている現状は、どう考えてもおかしいじゃないか。私達は一体、何をしているのだろう。とんだ遠回りだ。おかしくておかしくて堪らない。

 ひとしきり笑い終えたあと顔を上げると、父が目を丸くしてこちらを見ていた。心配するでも嬉しがるでもなく、ただ不思議そうにこちらを見ていた。その表情がまたおかしく愛おしく、私は自然笑みが零れたままでいた。

「あのさぁ、」

 一つ大きく深呼吸をして、何年も飲み込んだままの言葉達をゆっくり引き上げてみることにした。一つずつ、ゆっくりでいいから私を外に出してみたい。そんな欲求が、吐き出した息と一緒に湧き上がってきた。
 大丈夫、絶対に。不確かだけど絶対的な、矛盾に満ちた確証を心に抱きながら、私と父の長い会話が始まった。


     (了)

食費になります。うれぴい。