ほり

好きなものについて。 文学や音楽。

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最近の記事

この世界の美しさ『よあけ』ユリー・シュルヴィッツ

この世界で美しい瞬間はいつだろうか。雨上がりに虹がかかるときか、澄んだ空に星が光るときか。こんなとき、生きることへの無条件の讃歌と思ってしまうことがある。 この『よあけ』(ユリー・シュルヴィッツ,福音館書店,1977)は、タイトルの通り、夜が明けるまでを描いた絵本だ。 絵は四隅の余白を大きく残して描かれており、添えられている言葉もとても少ない。しんと静まり返った夜明け前をゆっくり描き出していく。 かすかな月の光と影が、淡い黒から濃紺、青の色彩で表現されている。 言葉は少ないが

    • 透き通った短歌たち『てんとろり』笹井宏之

      ひろゆき、と平仮名めきて呼ぶときの祖母の瞳のいつくしき黒 Twitter上で何気なく目にした句だった。思わずおばあちゃんがわたしを呼ぶときの様子が頭に浮かんだ。 「平仮名めきて呼ぶ」。回想のなかのおばあちゃんの言葉は、まさしくひらがなで発音されていた。名前の後の句点は、おばあちゃんのゆったりとした語りかけを思い出させた。「いつくしき」から作者目線の愛情が伝わり、そして、「黒」のあたたかさ、やわらかさがわたしを包む。五七五七七のリズムはなめらかで心地よい。"き"のくり返しは、

      • 大人の思春期とE.L.カニグズバーグ『ぼくと〈ジョージ〉』

        〝大人〟と〝思春期〟はいわば対義語で、大人の思春期という言葉は矛盾している。 けれど、わたしとわたしのまわりの悩める友が今向き合っているこの困難は、思春期という名前が一番しっくりくる。その現実がある。 仕事もそれなりにできるようになり、経済的にも安定し、社会を知った30歳ごろ。自分はこれでいいのか?本当に豊かなことはなんだったっけ?と迷い出す。迷いなんてどの年齢でも起こるじゃないかという声が聞こえそうだが、この迷いが決定的にほかと違うのは、抗いがあるということである。社会を生

        • つまらない高校生活、昭和への憧れ

          高校生のころ、テスト期間なんかで昼に帰れると、わたしは嬉々としてテレビを観ていた。同級生たちがおそらく笑っていいとも!を観ている時間帯に、わたしが観ていたのは小津安二郎の映画。なぜだかそのころ、真っ昼間のBSでひたすら小津安二郎をやっていた。 ただ、どの作品を観たかと聞かれても、作品名は覚えていない。あらすじも覚えていない。というのも、わたしが観ていたのは、昭和の暮らしだったのだ。(偉大な映画監督の作品に対して失礼な話だ。) 経済的には今の時代のほうが豊かなはずだけれど、わた

        この世界の美しさ『よあけ』ユリー・シュルヴィッツ

          東山魁夷「夕星」

          絶筆というのは、どんな画家のものも、どこかせいせいして澄み切っている。己のこの先を無意識に予感して、それが絵筆に伝わるか。 言わずと知れた日本画家、東山魁夷の絶筆もまた、そのような雰囲気をたたえている。 わたしが東山魁夷作品で最初に心惹かれたのは、別の作品「残照」だった。夕暮れの山々と淡い光を描いたものだ。テレビでその作品を見たのだが、ぜひ本物を見てみたいと所蔵を調べ、東京国立近代美術館にあることを知った。しかし、所蔵はされているものの、なかなか展示に出ることがない。会期が変

          東山魁夷「夕星」

          アンデルセン『絵のない絵本』

          アンデルセン。人魚姫やマッチ売りの少女を代表作にもつ、デンマークの作家である。誰もがアンデルセンの作品のいくつかについてあらすじを知っているだろう。童話作家として、いまも人気が高い。 有名な作品がいくつもあるにも関わらず、わたしが一番好きなのはそれらではなく、『絵のない絵本』。 絵のない絵本って、なぞなぞみたいな不思議なタイトルだ。わたしが手に取ったのも、絵のない絵本ってどういうことなのか、知りたかったから。 内容はこうだ。とある町の部屋にひとり貧しい絵描きが住んでいる。その

          アンデルセン『絵のない絵本』