東山魁夷「夕星」

絶筆というのは、どんな画家のものも、どこかせいせいして澄み切っている。己のこの先を無意識に予感して、それが絵筆に伝わるか。
言わずと知れた日本画家、東山魁夷の絶筆もまた、そのような雰囲気をたたえている。
わたしが東山魁夷作品で最初に心惹かれたのは、別の作品「残照」だった。夕暮れの山々と淡い光を描いたものだ。テレビでその作品を見たのだが、ぜひ本物を見てみたいと所蔵を調べ、東京国立近代美術館にあることを知った。しかし、所蔵はされているものの、なかなか展示に出ることがない。会期が変わるたびに展示作品リストのなかに「残照」を探した。
「残照」を見られないあいだ、それを埋めようとあらゆる東山魁夷作品を見に出かけた。
東山魁夷が手がけた唐招提寺の襖絵も見に行った。唐招提寺の襖絵の公開は期間限定で、おじさまおばさまでごった返していた。そのなかでひとり廊下のすみに座り込んで、ただひたすら圧巻の襖絵を眺めた。
その東山魁夷行脚のなかで、「夕星」に出会った。わたしは夕暮れどきの青の世界が好きなのだが、描かれているのはまさしくそれで、空に星がひとつ、ちかりと光っている。(夕暮れどきは、夕陽のイメージからオレンジや朱色を思い浮かべる人が多いかもしれない。しかし本当のところ、夕暮れの世界は青色だ。)
身体がなくなったのち魂がゆくのは、こんなところなのだろうか。死というものは、目を閉じてそのまま美しい夢の世界にただようことなのか。
魂を身体に委ね、その身体を絵筆に委ね、形を作り上げてきた人というのは、われわれが生きているうちには触れられない世界を、魂で知っている。それをわたしは分けてもらって、汚れた身体と魂を浄化するのだ。

長い年月を経て、わたしはとうとう「残照」に出会うことができた。そのときはあまりにも恋焦がれすぎたせいか、実はあまり感動がなかった。むしろ照明のあてかたや、額縁が気になってしまった。長すぎる片思いは良くない。
そんなわけで、わたしの一番のお気に入りは「夕星」なのである。

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